狐の嫁入り
視点がコロコロ変わります。酔いに注意してください。
『ねんねんころりよ』
歌が聞こえる。母が子をあやす為の歌だ。
ぬるま湯に全身を使ったように心地よく、降り注ぐ歌は泣きそうなほど優しく暖かな響きで溢れている。けれどもそれが自分に向けられていないというのを楓は嫌というほどよくわかっていた。
『おころりよ』
愛おしいという気持ちが溢れている微笑みで子を抱く女性の姿があった。白く細い手があやす様に子の体を優しく叩く。
ころころと移り変わる視点、霞むようにぼやけた思考は夢なのか幻覚なのか。いや、どちらでも構わない。この光景が優しさ溢れているのは事実なのだから。
明らかに強い妖気を放ちながら男はボソボソと何か呟いている。それが歌だというのは先程の会話の
最中でも時々口にしていたので察することができた。
神依が修行から陰陽寮に戻り世話になっている叔父に聞かされた話がここの団子屋のことだった。うまい団子が食べれるという話ともうひとつ、薄らと妖気のようなものを感じるという話だった。
妖気は妖の力が空気に溶け出たものだ。単純に考えれば妖気を強く感じればそれだけ強大な力を持つ妖がいるということになる。逆に僅かしか感じなければ低級の妖のものだ。
叔父の話では僅かに感じる程度ということだったので低級かと思ったがどうやら違ったらしい。
被害が出ないように周りに結界を結ぶ。これで結界の外からは何が起こっているのか、音すらもわからない。その代わり外からの助けも来ない。今日に限って共の者を置いてきたのを神依は少し悔やんだ。
「オンキリキリ、オンキリキリ」
意識を集中させ心に深く本尊を思う。
懐から護符を五枚取り出し宙へと放つ。手刀で九字を切り場を清めた後すぐさ真言を紡ぎながら両手で七つの印を結んでいく。
口にする真言は普通の者が聞けば意味のない音の羅列になっているだろう。
「オンキリウンキャクウン」
印を結び終えると同時に魔を払い、退ける力を込めた護符が男を中心にし五方に配置される。しかし術が発動される瞬間、男の背から七つの尾が生えぶわりと膨らむ。それと同時に護符から火が上がり燃やされてしまう。
尾の数や見た目から取り付いているのが狐の妖怪だというのがわかる。
術が跳ね返された反動で身体の至る所に傷ができ、痛みが襲う。この瞬間、男から妖を退けることが無理だと悟る。
けれど倒すことは可能だ。ただするのなら宿り主諸共だ……。
「あの歳で100の術を使いこなすとか」
「あの赤くなる目も不気味なものだ」
「自分の親さえ殺すんだからな」
幼い少年が佇んでいる後ろ姿が見える。そして降り注ぐ言葉は冷たく痛みを伴うものに思えた。誰から言われたのかはわからない。けれどもこの言葉たちを少年は聞いてきたのだろう。
「化物め」
瞬間こちらを振り向いた少年の赤い瞳が見えた。
一瞬意識が飛ぶと次には、あの夢で見た部屋にいた。部屋の奥の天蓋が付いた場所にはあの立派な着物を着た女性が座っている。じっと楓が見ていればかろうじて見えている口元がうっすら弧を描いた。
「哀れだろ」
今は歌が聞こえないからか女性の声がよく聞こえる。あの時冷たく感じたその声色は今はなんだか違うように感じれた。
確かに哀れんでいるのだろう。小さな子が背負うにはあまりに重い境遇に……。
けれども決して惨めに思っている訳ではなく、何かしてあげたいと思っているように感じた。
「あの子が心配なんだね」
そしてその思いは人に憑いてでも叶えたいほど強いものだったのだろう。
術を弾かれ負った傷から出た血が目元を伝うのを煩わしく思い神依は袖で拭う。
尻尾がある妖にとって尻尾の数は力の強さに比例することがある。七つというのは大妖怪でもないとなかなかお目にかかれない。この男が人であるのは間違いないが何処でどうやってこんなもの憑かれたのか。
狐憑き用の術も使ったが全く意味をなさなかった。だからといって直接攻撃をすれば間違いなく男は死ぬ。
それで構わないのかもしれない。妖に取り憑かれるなんてまともな生き方をしていない証拠だ。
けれども……。
柔らかい微笑みとゆっくりと聞き取りやすい話し方をする人だと思った。だからか、殺していいほど悪い人間にはどうしても思えなかった。
『ねんねころりよ』
歌が聞こえる。男が歌っているにしては高く優しい声だ。妖がついているから声も乗っ取られたのだろう。
ふと、いつかの記憶が脳裏を掠め今男が歌う歌と重なる。
知っている。ただなつかしいという思いだけしか無いほど朧気な記憶、けれども自分はこの歌を確かに知っている。何時どこで、その答えを求めるように記憶を辿り歌を思わず聞き入ってしまった、それがいけなかった。
気がつけば目の前に男がいた。背には七つの尾が揺らめいている。
『おころりよ』
動かない身体に内心で危機を感じながらも為す術もなく男を見上げる。けれども男の表情を目にし戸惑いの方が強くなる。
神依にはわからない。
『ぼうやはよい子だ』
男がなぜそんなに泣きそうな表情をしているのか。自分がいつこの歌を聞いたのか。なぜこんなにも懐かしく感じているのか。
『ねんねしな』
男のゆっくりと伸ばされた手で優しく頭を撫でられている理由も。
何より、その優しく暖かい感触に涙が溢れて止まらない自分自身が。
わからない……わからないんだ。
満足したかのように男は微笑むと、そのまま力が抜けるようにふらつく。神依が支えようと身体に力を込めればいつの間にか呪縛が溶けたのか自然と体が動きなんとか押しつぶされながらも受け止める。
男から妖気はもう感じなかった。妖が男から離れたのか、妖気を感じないほど奥底に沈んだのかわからない。どちらにしろこれでは手のつけようがない。
男の重みを支えきれずそのまま地面に座り込む。結界を解き一息つくと共に見上げた空は晴れているのに雨が降っていた。
「オン・シュリ・マリ・ママリ・マリ
シュシュリ・ソワカ」
暖かい日差しと降り注ぐ雨に目を細めながら真言を呟く。どうすることもできなくても何故かこの男の幸せを願わずにはいられなかった。