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失恋と甘い匂い

作者:篠崎春菜
 ズビズビと鼻を啜りながら目の前の少女が泣くのを、彼はコーヒー片手に見ていた。
 彼女の話を聞きながら上の空で淹れたそれは、渋みが出過ぎている上冷めてしまってお世辞にも美味いとは言えない。それでもそれを手放さないのは、どうせ美味いものを飲んでも今の俺の眉間には皴がくっきり刻まれるだろうことがわかっていたからだ。未だ泣いている彼女を心の底から慰められるほど、俺の心にも余裕がない。けれど泣くことに夢中になっている彼女には、それがわからないのだ。
 ため息をつきたくなって堪える。幼馴染の世話をするのも、そういうときに頼られるポジションにいるのも、もう今更変えられるとは思わなかった。天井の灯りを見上げるように首を逸らして「あー……」と声を出す。もう疲れてしまった。仕事に疲れ、人間関係に疲れ、世の中に疲れた絶望間際のような気分だった。自分がまだ十七歳だということを時々忘れそうになる。

「……いつまで泣いてんだよ」
「だって……」

 泣いたまま震えた声で、「だって好きだったから」とそんなことを言う美沙は、目を真っ赤にして飽きもせず、だ。そのまま行くと溶けてしまうのではないだろうかという勢いで泣くものだから、初めは狼狽えた俺も逆に冷静になってしまった。
 虚無感の中に苛立ちがある。何が嬉しくて好きな奴の失恋話なんて聞かなくてはならないのだろうか。
 委員会で一緒だった、優しくて爽やかで勉強も運動もできるかっこいい先輩とやらに告白をして振られてきた美沙は、その足で俺の家までやってきた。インターホンを鳴らして「美沙です」とすでに震えた声で言った彼女を、こういうことに慣れている俺の母が家に上げるのはいつもの流れだったが、今回だけは本当に勘弁してほしかった。こんなことなら流行っているインフルエンザでも移してもらえばよかったと、しっかり熱を出して昨日から学校を休んでいる親友の顔を思い浮かべる。

「私の何が足りなかったのかな……」

 俺の部屋に来て一時間。やっと落ち着いて来たらしい彼女は、まだヒックヒックと余韻を残しながら俺に問いかける。そんなこと、お前を好きな俺にわかるはずがないだろうと理不尽に苛立ちながら「さあな」と我ながら愛想の無い声で答えると、美沙は少しいつも通りになって僅かに笑った。

「なんか、浩二がいつも通りで安心する」
「……今まで泣いてた奴が何言ってんだよ」

 聞きたいのはこっちだと思った。『一体俺の何が足りないんだ?』。その問いかけは喉につっかかって出てきそうもないが、今の俺のやるせない気持ちを明確に表している気がした。わからない。安心するなどと言っておいて俺を好きになってはくれない理由なんて。

(何で俺はこんな奴好きになったんだろうなぁ……)

 嘆息する。とっとと諦めてしまえばいい。
 なまじっか距離が近いだけに、同級生の誰よりも、もしかしたら彼女の親よりも、美沙の恋愛遍歴には詳しいかもしれなかった。聞きたくもない彼女の恋愛相談を聞いて、したくもない告白の後押しをして、うんざりする失恋話をされて、時には悲嘆するような成功の報告を聞いて。思い返せば美沙とのやり取りは常に俺の心臓にグサグサと容赦なく棘を突き刺してくるのだ。小学六年の頃から今まで、何でこんな奴を好きになってしまったのか。さっさと見切りをつけて周りを見れば、他に良い奴なんていくらでもいるだろう。落ち着けもしないどころかストレスが溜まっているのは明白であるのに、俺は何をグダグダ一人の女に拘っているのだろうかと思うと自分に嫌になりそうだった。
 それでも好きなのだ。
 そういう嫌な思いと同時に仕方がない、と諦めている自分が確かに存在するのがわかる。なんて奇特な人間なのだろうかと自分に関心しながら重い腰を上げた。やっとこさ泣き止んで涙の痕をティッシュで拭いている美沙を置いて部屋を出る。一階に降りると丁度洗面所から出て来た母さんが「泣き止んだ?」と一言。適当に頷いて通り過ぎようとすると、「大変ねぇあんたも」と面白そうに言うのだから他人事というのは素晴らしい。そういう母さんも、昔は親父相手に俺の立場だったというのだから、遺伝とは恐ろしいものだ。「まあ頑張んなさいよ」と肩を軽く叩いて寝室へ引っ込む母に恨めしい視線をくれてから、暗い台所へ向かう。
 小さい鍋に少しの水とココアパウダーと砂糖を入れて軽く練ってからそれを火にかける。焦げないようにゆっくりと混ぜながら、粉っぽさがなくなるまで溶かして牛乳を加えてまた混ぜて、沸騰する前に火から下し用意していたマグカップへ。最後に少しのバターを浮かべて完成だ。毎度毎度、この工程まで来ると妙な気持ちになってくる。泣き止んだあいつを元気づけるのに多少の手間をかけてココアを淹れるくらいどうってことないじゃないかと思う一方で、何でいつまでも片思いをしている相手にこんな面倒をとも思ってしまう。見返りなしの好意は美しい。けれど、俺はそんな美しい人間にはなれないと思った。好きだと思えばそのために努力をする。努力をすればその分好いてほしいと思う。その流れは当然のことだと思うのだ。
 ココアを持って二階へ上がる。扉を開けるともうすっかり落ち着いた美沙がこっちを見てニヘーっと締まりのない顔で笑った。「まってましたー」と軽口を叩く彼女はもうほどんどいつもの様子だ。

「ん」
「ありがとう」

 本当に嬉しそうに笑いながら、熱いココアに息を吹きかける彼女を横目に、俺はベッドの縁に腰かけた。自分のマグカップを持ち上げると飲み切られていないコーヒーが揺れている。水面に映る自分の顔は、未だに眉間のしわが取れていない。「あつっ」と美沙の声がする。反射的に「いつも気を付けろって言ってるだろ」と返すのは、毎度毎度一回は彼女がそれをやるからだ。

「浩二のココア美味しいから好きよ」

 見ればカップ片手に幸せそうな顔の彼女がそこにいて。あーと思う。あー、だから好きなんだ、と思う。俺が美沙に手間をかけた分、彼女はそれに対して反応をくれる。好みを熟知した俺の行動に、心底嬉しそうに微笑んで、そうして俺を掴んで離さないのだ。返ってくるものは確かにあって、だけどそれが俺の求めるところまで来ていないという、それだけの話なのだ。結局美沙は俺じゃない別の男を好きになる。おそらくそれは、俺が何も伝えていないからでも、ある。近い分わかりにくいことは確かにあって、これもその一つなのだろう。少し、幼馴染という関係とは別の何かになる努力がいる。思っているだけでは勿論伝わらない。

「今度好きになる人は浩二みたいな人がいいなあ」

 虚無感の中に苛立ちがある。何が嬉しくて好きな奴の次の恋愛話を聞く想像なんてしなくてはならないのだろうか。
 苦いだけで心底不味い冷たいコーヒーを飲み干す。苦い。渋い。不味い。ココアの甘い匂いがした。きっとココアは甘いのだろうと思った。思ったら、もう駄目だ。
 気付けば美沙の小さな後頭部を掴んで引き寄せていた。鼻孔をくすぐるココアの匂い。微かに甘さを感じた時には、やってしまったと思っていたが、俺はそのまま驚いた顔をする彼女の肩を抱き寄せた。

「“みたいな”じゃなくて、どうですかね」

 「いいんじゃねーの、俺で」。いつもに増して固い声に、彼女は気付いてしまうだろうか。時間が酷く長く感じられて、俺は目を閉じた。
 甘いココアの匂いが、今もしている。

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