第五話 ボーイミーツクレイジー
「いい……非常にいい。面白い!」
年老いた白髪の老人がトオルの手の穴をじっくりと観察し、何度も呟いた。
時折り撫で回すようにうっとりと左手を触られるのでトオルはその度に鳥肌が立つ思いだった。
「博士、今日はもう遅い。調べるのは明日からでいいでしょう」
痩せた方の男が言った。
「そ、そうか、今からでも研究に取り掛かりたいのだが。うむ。沢田君が言うのなら仕方ないのう」
博士はしぶしぶトオルから手を離し、コツコツと杖の音を響かせながら奥のほうへ引っ込んだ。
沢田と呼ばれた痩せ男はトオルに向き直って言った。
「部屋は用意してある。ゆっくり休むといい。明日からは、少し辛いかもしれないからな」
最後の一言でトオルは行き先がますます不安になった。
沢田に案内されて通された部屋は素晴らしかった。
豪華な装飾品が壁や棚に飾ってあり、その棚も相当な高級品らしい輝きを放つ。
テーブルの上には瑞々しいフルーツの盛られた皿が乗っている。
部屋には簡易キッチンも用意されており、冷蔵庫には一通りの食材が入っていた。
「部屋にあるものはすべて自由に使ってくれて構わない。一応食事はこちらで作らせるが、好きなものを自分で作ってもらっても結構だ」
ほんの少しの間だけトオルは嫌なことを忘れることが出来た。こんな豪華な部屋で過ごすなんてはじめての経験だ。
「まったく、この部屋を用意するために俺の給料何年分の金が使われてるのかねぇ」
「……」
沢田は人を嫌な気分にさせるのが得意なようだった。
次の日の朝、トオルが目を覚ますとテーブルの上に朝食が置いてあった。
目玉焼きとパンとサラダ、あとコーンスープ。典型的な朝のメニューだ。
期待して食べたが味は普通だった。おそらくここの研究員が作っているのだろう。
食べ終えた食器を片付けにきた女性も、白衣を着ていた。
「ねぇ、ここはどういう施設?」
「ごめんなさいね、そういう質問に答えちゃいけないって言われてるのよ」
「そっか、まぁそうだろうと思った」
静子と名乗るその女性は、食器の片付けをしながらトオルの質問に答えられる範囲で答えてくれた。
これからは彼女がトオルの世話役をすると言う。
歳はまだ20代前半だろうか。長めの髪が後ろで束ね上げてある。研究員らしく眼鏡をかけていた。
眼鏡の奥の目つきは鋭かったが、キリッとした顔立ちは美人だと思えた。
「ふうん。ま、悪くないね」
「ませた子ね。それより博士が呼んでるから着替えてちょうだい。案内するわ」
用意されていた服はなんだか入院患者のような服で、トオルは落ち着かなかった。
おそらくこれから自分は色々と実験されるのだろう。それが逃れられない事実であることを、その服は一層強調してるように感じた。
生きた心地がしない。
「おはようトオル君」
少し大きなホールに通されると、椅子に座った昨日の老人が挨拶をしてきた。
「おはようございます」
トオルは挨拶をしながら部屋の中を見渡した。
見たこともない器具や測定装置らしきものが部屋の壁伝いにグルリと並べられている。まるで機械に『かごめかごめ』をされているようだ。
かごめかごめ、かごの中の鳥は――トオルはいつここから出られるのだろう。
「さあ、さっそく研究を始めようか」
博士はとても嬉しそうにも揉み手をしながら言った
「あなたは誰ですか?」
「ワシの名前か?そんなものは研究と関係ない。そこに座りたまえ」
病院の診察室にあるような丸い回転式の椅子を指差して博士は言った。
「彼、自分の名前忘れちゃったのよ、研究に没頭しすぎてね。本当の名前を呼んでも振り向かないから皆は博士って呼んでるわ。それじゃ私はこれでね」
トオルの耳元でそう言うと静子は部屋から出て行った。
「それじゃ、左手を出して」
椅子に座り、言われるがままに手を出すトオル。
なにやら器具をあてがわれたり、血圧を測られたり、メジャーで測られたり。
血も少し採られた。
「ふむ、今日はこれくらいにしておくか」
「え、もういいの?」
もっと色々な目に遭わされると思っていたトオルには少し意外だった。
「今日は初日じゃからな。基本的なデータを採っただけじゃ。明日から本格的にはじめる。覚悟しておけ」
(明日から何をされるんだろう……)
まだまだ油断は出来ないようだった。
「終わりましたか博士」
ドアが開き、静子が入ってきた。
「あぁ、今日はこれくらいにしておこう。後は任せた」
「では失礼します」
静子に連れられ部屋を出るトオル。
「今から何すんの?」
廊下を歩きながら静子に尋ねた。
「勉強です」
「なっ、勉強?」
思いがけない言葉にトオルは唖然とした。
「当然よ。あなたは本来なら小学校に通わなくちゃいけないんだから。国の機関として義務教育は受けてもらうわ」
「こんな状況で勉強しろって言われても出来るもんじゃない」
「大丈夫よ、私が直直に教えるから」
静子は自信ありげにそう言った。
◇
「……静子さんて実は教師だったり?」
トオルの質問に静子は「いいえ」と答えた。
「資格は持ってるけどね」
「そっちを本職にすればいいのに」
それほど静子の教え方は上手だったのだ。
もしかすると学校へ通うよりも成績が良くなるかも、とトオルは思った。
「なんでこんな仕事を?」
「さぁ、なんでかしらね。まぁ人生ってそういうもんよ」
静子はあまり細かいことを気にしない性格のようだった。
それから昼まで勉強を続けた後、昼食の準備があると言って静子は部屋を出て行った。
一人になったトオルは部屋の本棚にある本を手に取ってみた。
ぱらぱらとページをめくってみたが専門的な内容でさっぱり分からない。子供のために用意した部屋のくせに漫画の一つも置いていないなんて。きっとこの施設には専門書のような本しか無かったのだろうと思い、本棚に戻した。
しばらくたってドアの向こうから静子の声が聞こえてきた。
「トオル君ちょっと、ドア開けてくれるかしら」
ドアを開けると二人分のビーフシチューとパンのセットが乗った盆を抱えて静子が立っていた。
「静子さんもここで食べるんだ」
「そうよ。小学校では担任の先生も教室で一緒に給食を食べるもんでしょ」
確かに、トオルの通っていた学校でもそうしていた。
(やっぱり教師に未練があるんじゃないか)
シチューを口に運びながらトオルは思った。
相変わらず、ここでの食事の味は普通だ。可もなく不可もなく。美味いとも不味いとも言い難い。
それを言うと静子は少しムスッとした表情で「悪かったわね」と言った。
「え、この食事って静子さんが作ってるの?」
「そうよ。実は私、あなたの担当に回される前はネズミの担当だったの。ネズミのご飯ばっかり作ってたから味は気にしたことないわ。我慢して頂戴」
この研究所では、すこぶる知能の高いネズミを作る研究とかしているらしい。まったくもって謎な機関だ。
そしてネズミと人でも扱いが変わらない静子の神経にトオルは呆れた。研究者というのはこんなものなのだろうか。
午後にはまた勉強をし、その後は博士に色々と調べられる。
夕食を食べ、眠る。
そんな日がしばらく続いた。
相変わらず血を抜かれたり、穴に物を入れられたり、時には体に電流を流されることも合ったが、トオルはここでの生活に徐々に慣れていった。
穴を調べた結果や、これまでの体験で分かっていたことは、穴に落とす物は大きさに関係なく落としてしまえるということの他、穴に入ったものはその日の深夜に穴から戻されるということ。
穴に入った生き物は無傷で戻ってくるということ。
そして穴に入った後の記憶は無いということ。
それからビデオカメラなどの映像記憶装置を入れても機能せず、なにも記録されないということだった。
だんだんと実験の内容がハードになっていったある日、博士は言った。
「やはりビデオカメラじゃ埓があかんな。明日は人を入れてみよう」
「はい?」
「だから、明日は穴に人を入れるからそのつもりで。今からその準備をせねばならんのでな、今日はもう部屋に帰っても構わん」
博士はそういうと何かの装置をいじるのに没頭しだした。
すでにトオルのことは目に入っていないようだった。
時のオカリナのみずうみ博士を想像していただければ。