第四話 ボーイミーツメン
目の前に横たわるその少年は、夢で見た姿とは違っていた。
どこにも傷ついた様子がない。
規則正しいリズムで、微かに体が浮き沈みを繰り返す。
呼吸をしている。生きている。
「良かった……」
少年が生きていたという事実。
わけの分からない状況だが、トオルは少し救われた気持ちになった。
「ト、トオル……今、その手……」
声に驚いてトオルは振り向いた。部屋の入り口に立つ人影。
「母……さん……?」
見られた? いつから居た?
「その、物音がしたから、様子を……。そしたら手からズルってその子が……トオル、あなた一体何を……?」
トオルの母、信江の目は疑念に満ちていた。
「分からない。昨日からこんな穴が……。僕にもさっぱりなんだ」
『信じられないモノを見る目』を我が子に向ける母親の視線から、トオルは目を逸らした。
(いけない。私がこんなことでは)
ふぅっとため息をついて自分を落ち着かせた信江の目は、母の目に戻っていた。
サービス残業のしすぎで夫が過労死して以来、女手一つでトオルを育ててきた彼女には母としての強さがある。
加えて彼女は頭の回る人間だった。
「その手のことは誰にも話してないでしょうね?」
「うん」
その返事を聞くと、真剣な眼差しで信江はトオルの両肩を掴んだ。
「そのまま誰にも話しちゃだめよ」
肩を掴む手に力がこもる。
「それが……あなたが今まで通りの生活を続けるために必要なことだから」
「わかった」
「よし、じゃあこの子が目を覚したら家まで送っていくわ。あんたは寝なさい。まだ起きるには早い時間だわ」
時計は午前3時を指していた。
◇
トオルが目覚ました時にはすでに部屋は綺麗に片付いていた。
キッチンへ行くと母が朝食の準備をしてた。
いつもと変わらない光景。
「あの子は?」
「明け方目を覚ましたから家まで送っていったわ。それから昨日のことは誰にも話さないように言っておいたわよ」
(夢じゃ……なかったのか)
信江の話によると、どうやら彼は穴に入っていた時の記憶はなかったらしい。
彼に話を聞けば穴のことが少しでも分かるかと期待していたが、大した収穫にならなかったのでトオルはがっかりした。
「穴は謎のままか」
「さぁさぁ、あんたはさっさと朝ご飯食べて学校に行くのよ。あんなことがあっても今までどおりに暮らすことが大事なんだからね」
よく平静を保てるなとトオルは自分の母の豪胆ぶりに感心した。
それからの日常はなんてことはない。今までとなんら変わらぬ日々が続いた。
左手には包帯を巻いたり絆創膏を貼ったり色々ごまかしていた。最初のうちは不思議がられたが、それもいつしか誰も気にしなくなった。
そんな日常がしばらく続いたある日。
トオルが学校から帰ってくると家の前に見知らぬ黒塗りの車が停まっていた。
運転席で煙草をふかしていた男が、トオルの姿を確認すると車から降りてくる。
30代後半のひょろ長い痩せ型の男だ。黒っぽいロングコートを着ている。
(なんか嫌な雰囲気だな)
とっさに方向を180度転換するトオルだったが、振り返った先には、やけに背が高くガタイのいい男が立ち塞がっていた。
こちらの男は運転席から降りてきた男より若く見える。そして同じ黒っぽいコートを着ていた。
「霧ヶ窪トオル君、だね」
携帯灰皿で煙草を揉み消しながら痩せ型の男が近づき、落ち着いた様子で言った。
「おっとこの左手には大人しくしてもらおう」
とっさに包帯に解こうとした手をゴツイ方の男に掴まれてしまった。
噂というものはどんなに頑張っても、広がる時には広がるものらしい。
あの中学生が誰かに言ったのかどうか、それとも誰かに見られていたのか。とにかくトオルの秘密の噂は、それに興味を持つ人間の耳に入ってしまった。そして今トオルは二人組の男に声をかけられ、どこへ向かうとも分からない車に乗せられている。
二人は自分達のことを「国の機関の者」としか言わなかった。
「君のお母さんには了解を得てある。これから君は我々機関の保護下に置かれることになった」
視線を正面に据えたまま、運転中の痩せ型の男が言った。
母親が了解しているというのはトオルにとって多少なりともショックだった。が、自分のことを思ってか事情があるのだろうと思って納得するしかなかった。
「国の人たちならもっと怪しくない格好をして欲しいんだけど」
トオルは後部座席で自分の横に座っているガタイのいい方の男に話しかけた。
「国の機関にはこういう格好が相応しいセクションもあるんだよボウズ」
それがどういう部署なのか。これからどこに連れて行かれるのか。
そのあとはトオルが何を聞いても答えてくれなかった。
いくつもの高速道路に乗ったり降りたりして延々と走り続けた後、車はどこかの山奥にある建物の前で停まった。
建物はこの山奥に似つかわしくないほど真っ白で、壁には窓が一つもなかった。
痩せ型の男が黙って、建物の真ん中に空いた入り口の中へと入っていく。トオルもゴツイ方の男に手を引かれて後に続いていった。