六、超生理現象
薄闇から、誰かが階段をあがってくるのが見えた。
橙色の潰れそうな光のなかで、巨大に膨れあがった影をゆらゆら先行させて、音もなく近づいてくる。
桔音だった。
咄嗟に目の前の柱に身を隠す。
視線は、こちらに向けられてはいない。
桔音は、こちらの存在に気づいているわけではない。
影はそのまま階段をのぼりきると、自分の真下を通り過ぎて直角に曲がり、数歩先の戸の前で立ち止まった。
そして何をするでもなく、じっとしている。
――桔音だ。
あれはたしかに桔音だ。
なんでこんなところに?
いや、その前に、ここはどこだ?
状況が呑みこめない。
和土佐は眼だけ動かした。
縦方向に階段があって、横方向に延々まっすぐつづく廊下がある。
見たことのある光景、そこは、忍者学校の校舎だった。
いつのまにか、自分がちょうど階段と廊下の合流地点の梁の上に腹這いになっていることに気がついた。
目の前には、罠を発動させる細い糸がぴんと張られている。
――戻って、これたのか……。
あたりはしんとして、死んだように誰もいない。
ところどころ影でない部分に、斜陽がべったり貼りついて、木目を鮮明に浮かばせている。
侵入者を陥れようと、いい加減見飽きたしつこい糸も、鈍い光の筋を受けてときおりちらちら煌めいている。
夕方。
とすると、彷徨っていた時間はせいぜい四、五時間だったということか。
ふと自分の鼓動をはっきり自覚した。
とたんに現実感覚が戻ってくる。
飽き足りた、いつもの世界の感じ。
大して暑くもないはずなのだが、衣服が肌にべたべた嫌な感じで貼りついていた。
ひとしきり、何もせず突っ立っていた桔音が、ふいに手を動かして引き戸を横へ滑らせ、静かになかへ入っていった。
和土佐は目を細め、柱にかかった木札の文字を解読してみた。
――『家庭科室』?
――に、いったいなんの用があるのだろうか。
やがて、いくばくもしないうちに、その家庭科室からどかどかと喧噪が聞こえはじめた。
がた、どんっ、と衝突音、
「はなせっ!」
「そっちに行ったぞ!」
「ぐおっ」
複数人の叫び声。
固唾を呑んで見守る和土佐の目の先で突然ばん! と引き戸が開き、その隙間から、寺の釣鐘ほどもありそうな巨大な風呂敷包みと、縄で胴体をぐるぐる巻きにされた桔音がまろびでてきた。
桔音はそのまま勢い余って廊下の壁に激突した。
が、よろけながらも風呂敷包みを背にして寄りかかると、器用に背に乗せ走りだそうとした。
が束の間、いきなり足を縺れさせてすっ転んだ。
「ぐっ」
ごしゃ、と硬質な音が響き桔音は風呂敷包みの下敷きになった。
「捕獲完了」
廊下の奥から音もなく二人の中忍が現れ、上半身を起こそうともがく桔音のもとへ駆け寄ると挟むようにして両側に立った。
どうやら桔音の足首には細い蜘蛛の糸のようなものが絡みついているらしかった。
「ったく手間かけさせやがる」
「しっかし懲りねえ奴だなほんとに」
二人は腰に手を当てたままやれやれ、といった風情で桔音を見おろしている。
突然眼下で繰り広げられた、さっぱり意味のわからないそれら一連の光景を半ば呆気にとられて覗き見ながらも、和土佐はしかし、こう思っていた。
――先生たち、油断しすぎじゃないか?
そんな物理的な縄、桔音には効果がない。
あったとしても、一時的な足止めにしかならない。
そのとき、家庭科室のなかから鋭い檄が飛んできた。
「……げっほ、げほ、ごほ、おい、おい馬鹿何ぼんやりしてる、げほっ……早く眠らせるなり気絶させるなり……! そいつのイヅチは……!」
ところでいっぽう、左眼で中忍を睨みあげる桔音の口の端からは、ひと筋の涎がつーっと垂れさがっていた。
涎は縄の上に落ち、落ちた涎は重力に従い線を描く。
線は繊維に沈んで黒い染みになる。
……その染みが、まもなくしゅるしゅるという奇妙な音を立てはじめた。
まもなく細い煙をあげはじめた。
やがて、じゅわじゅわと赤銅色に輝きながら燃えはじめた。
「え?」
ばちばちばち! と激しい音をあげて桔音の口のまわりに眩しい燐光が踊った。
「ふうっ」と息を吹くとめらめら焔が発生し、足首に絡みついた糸の先をぢりっと焦がした。
身体の自由を取り戻した桔音が、そこに立ちあがっていた。
ぶしゅう、と鳴きながら、足もとで灰になっていく縄の死骸。
腰からぴょこんと飛び出た眉墨色の結い紐。
顔の右半分に巻かれた漆黒の包帯。
風呂敷包みを肩に担ぎなおし、口の端から漏れる火の滓を拭う。
すっと一歩、足を前へ出す。
「な、ん……」
超生理現象『火呼吸』。
それが桔音のイヅチ。
呼気が火気を帯びる、とにかくやばいイヅチである。
燃やせるものはすべて、桔音の前では意味を成さない。
まるで間合いをはかるように、じりじりと後退る二人の中忍へ向けて、ゆっくり歩を進める桔音。
それを梁の上から覗き見ている自分。
……ん? いや、ちょっと待って。
この位置。この方向。この角度。……やばくないか?
ゆっくり、ゆっくり歩を進めながら、桔音は懐から、黒い塊を取りだした。
一瞬、親の仇のような眼でそれを睨みつけると、口に入れた。
ごりっ。
と明らかに硬い無機物系の音が空気を伝い、鼓膜に響く。
……ごり、ごり、ごり……。
咀嚼音。
……ぐりゅっ……。
嚥下音。
「はあぁ……」
それから、つらりとぬめらかな糸切り歯を覗かせて、大きく息を吸いこむと――
「がああっ!!」
その口から、豪火を迸らせた。
刹那、和土佐の目には毛むくじゃらの真っ赤な龍が廊下を駆け抜けたように見えた。
一瞬にして、視界から影が消滅した――
昔とはぜんぜん違うじゃん何その威力……!
怒濤のごとく巻きあがった熱風に煽られて、和土佐は為す術なく梁の上から吹き飛ばされた。
がっ!
どすっ、ごいんっ
どしゃあぁっ
……からんからんからん……
天地不覚。
まずそこらじゅうに、何かが飛び散った音。
そして頬に――くすぐったい感触。
酸っぱいような甘いような、一瞬で眠くなるような、花のような、落ち着くにおい。
「はぁっ」
すぐ耳もとで小さな吸気が聞こえる。
一瞬激しく動こうとして、ぴたりとその動きを止めた気配を感じる。
うっすら目を開ける。
頼りない光がもやもや集まってきて、像を結ぶ。
まず、くノ一の衣装から剥きだしの腋が映った。
そこから白い二の腕が、視界の左右にまっすぐ広がっている。
「……和土佐?」
まるで普段ずっと一緒にいる人に何気なく話しかけるときのような声がした。
ゆっくり視線を上に移動すると、驚いたように見開いた眼と、そのまわりを長い髪の毛が簾のように囲んでいるのが見えた。
顔を覆う黒い包帯と、澄んだ沼のような瞳が、眉毛の一本一本判別できるほどの至近距離にあった。
数刻、見つめあっていた。桔音が口を開いて何かを言いかけた。
「うわっ、ご、ごめん」
和土佐は咄嗟に上半身を浮かせると、さかさか肘で後退った。
はっと我に返ったように桔音は顔を背けると、爪先を立ててしゃがんだまま、手を広げ、背後に散らばった風呂敷包みの中身を隠そうとするような仕草をした。
「だ……駄目……」
桔音の背後に散らばった風呂敷包みの中身――まな板、鍋、菜箸、おたま、塩の入った小壜、――料理道具? たっぷり油の入った一升瓶、やかん、包丁、――包丁。
桔音が後ろ手に包丁に触れた。桔音が包丁を握った。
気がつくと、和土佐は梁の上に飛び乗っていた。
思考よりも先に、本能が身体に命令を下していた。
足の裏で、罠の糸を思い切り踏んづけていた。
「あ」
ぷち、と微かな音とともに糸が切れた感触が、足袋越しにしっかり伝わってきた。
桔音の左眼がぎろりと和土佐を睨みあげる。
束の間の静寂。
和土佐の横顔の向こうの薄暗い木目。
から、真っ黒な目ん玉がにょろり、と産まれて和土佐の鼻先を掠め取った。
和土佐の身体がつの字にしなって弾け飛ぶ――
「てぃんっ!」
受け身の姿勢で廊下に不時着、
した場所めがけて竹槍の檻が降ってくる、危険な砂が降りかかる――
前に、肘で反動をつけて転がり回避、
した場所めがけて横殴りの鋲、
が襲いくるのを察知して跳ね起きて、全力で走りだす――
……ひとたび罠を発動させてしまうと、その対象の動きを止めるまで、罠が次の罠を発動させて止まらない。
まるで蟻地獄の擂り鉢を流れ落ちる蟻のように、もがけどもがけど沈む運命にある。
しかしそれどころではなかった。
五感を開き、必死に罠の発動軌跡を計算する。
次は下、次は上、
――何かが脳天を掠めゆく、
後方で何かが発射され回転しながら迫る――
……計算……まったく、無意味!
相当な奇跡が、相当な確率で起きていた。
たまたま、避けた方向が正解で、
たまたま、正解が連続しているに過ぎない。
だがその偶然性に感心する余裕はない。
いま悠々と、全力疾走中の目の前を横切ったのは、鎖鎌――!
殺す気満々だ、冗談だと言ってくれ、なんでこんな物騒なんだよこの忍者屋敷!
ふと猛烈な熱気を感じて、うしろを振り返る。
桔音が追いかけてきていた。
漆黒の長い髪を大きくたなびかせ、包丁をまっすぐ持って、炎を吐きながら、桔音が追いかけてきていた。
めらっと一瞬踊った焔に照らされて浮かびあがる、不敵に笑う頬と眼と包帯。
和土佐の顔のすぐ脇を追い越していく炎の塊。
危うく横っ面から飛びだしそうになった目ん玉を、眩しい光がじりじり焼き焦がす。
「うっそおおおおおおおおおおおおおおおおおおおん!?」
真っ正面で、何かと火焔ぶつかって、屈みこんだ視界を真っ白に染める。
煙や砂埃に紛れて大量の罠の残骸が降ってくる。
追撃の炎塊が眩しい、
舞いあがる粉塵が目に痛い、
おそらく投網か何かの落下の気配を察知して、踵で一回転する、
崩れた体勢を立て直しながら、視界を盗み見る、――
行き止まりが見えた。
罠の誘導線。
その先を、たとえどう辿ったとしても、避ける方向をどう選んだとしても、いずれ必ず行き場がなくなる。
つまり『手詰まり』――
和土佐は、死を、覚悟した。
記念に、振り返ってみた。
桔音は走りながら瓶を逆さにしてなにやら中身を喇叭飲みしていた。
いい飲みっぷりだった。
「んっぷっ」とぷん、と音を立てて瓶から離れた口と鼻から中身が飛びだす、
――前に向き直り、右斜め頭上から接近中のくす玉をすんでのところで避ける。
再び振り返ってみた。
桔音は麻の小袋に手を突っこんで、握りこぶしの形で勢いよく引き抜いた。
前に向き直り、目潰しの罠をやり過ごす。
振り返る。
桔音は握りこぶしを、――握りこぶしのなかにありったけ掴んでいたなにがしかを、自分の目の前にぶち撒いた。
ばっと、鈍色の粉末が宙に舞う。
「っぷぇあっ」
前を向く。左右両側から迫り来る竹の鞭を側転でかわす。
「は……」
ばばちちち! 背後で激しく飛び散る火花の音。
「……は?」
和土佐は、もう一度振り返った。
桔音は走りながら、首を大きくのけぞらせ、大きく息を吸いこみ喉を震わせて
「っはっ、……っはぁあっ!」
「はあああっっくしょおおおんっ!!!!!!!」
視界が飛び去った。
聴覚から音が消えていた。
身体が不思議な浮遊感に包まれている。
目の前を灰色の煙が猛烈な勢いで流れていくのがふとわかる。
続いて脳が、鼓膜の向こうの爆音を認識しはじめる。
物憂く引き延ばされた時間のなかで、煙の隧道の向こうにぽっかり広がる夕焼け空に向かってそびえる歪に尖った幾本もの柱のあいだを、弾け飛んだ大小の破片が鷹揚に横切っていく、千切れて自由になった元建物の成分が下方からおもむろに近づいてきて、遠ざかっていく。
空へ出た。
眼下で、校舎だった場所からありったけ噴きだす煙の縁を、屋根瓦の大群がざらざらと滑り落ちていく。
赤銅色の芋虫みたいな爆風が、痒みから身を捩るがごとくにもくもく動いて、傾がった柱や壁や窓を押しだしてはめりめり引き剥がしていく。
――ああ、なるほど。あの鈍色の粉は、胡椒だな……。
やがて、どういうわけか自分の身体がもうすぐ重力の鎖を取り戻すのがわかった。
自分がこれから軟着陸しようとしている場所さえもはっきり認識できた。
生垣だ。
こともあろうに、ひょっとするとあれは昼間見た『罠注意』の看板ではないか。
そこで考えるのをやめた。
勢い余って尻で看板をへし折るのもそこそこに、生け垣の上を転がった。
たちまち悪霊のように湧いた罠のとおりゃんせのなかを、ごろごろ転がっていった。
やがて塀に突き当たり一瞬で塀越えの忍術を使い塀を乗り越えると、鬼灯忍郷を飛びだしていった。
鬼灯忍郷を出ると、山路は何本もの分かれ路になっている。
そして路でないところには、ありとあらゆる罠が張り巡らされている。
非道――つまりいったん道でないところに足を踏み入れてしまった人間は、容易に元の道には戻れない仕組みになっているのだ。
しかし心配には及ばず、そこにもしっかり『罠注意』の看板が立っているので安心だ。
そして看板の向こうを、さまざまな何かに追いかけられながら忍者が猛然と駆け抜けていった。
まさに注意書きを無視するとどうなるか、体を張って見本を示しているみたいに。
轟音が鳴る。
ひとつの建物が、崩落した音。
物見櫓からは警鐘が響き、大勢の忍者たちのどよめきが山の空気を伝って漏れ聞こえてくる。
平和な秋の空へ向かって、煙の柱がもくもくと立ちのぼっていく。
迫りくる罠を奇跡的に回避しつづけながら、和土佐はなぜか、桔音が顔に大火傷を負ったときのことを思いだしていた。
その事件が起きたのは、例の婚約式の少し前のことだった。
その頃にはすでにもう、幼馴染まなくなっていた。
桔音の家が深夜焼き討ちに遭った――忍者はときに人の逆恨みを買うような仕事も引き受けなければならない――しかし幸か不幸か、八条家はその晩、忍務のため総出で出払っていた。
ただ一人、留守番役の桔音を残して。
炎はまたたく間に屋敷を包み、叩き起こされた村人たちは消火活動に奔走したが、状況は芳しくなかった。
和土佐は彼らの目を盗んで、単独燃えさかる家のなかへ駆けこんだ。
自室の片隅に、桔音はうずくまっていた。
右手で顔の半分を押さえ、指の陰に痛々しい、真っ赤な火傷痕が覗いていた。
手首から肘を伝い、血の雫が滴っていた。
そして、むしゃむしゃ不味そうに火を齧っていた。
「桔音、」
声をかけると、桔音は和土佐のほうを見もせずに呟いた。
「和土佐、わたしのイヅチはね、炎のイヅチだったんだよ」
そのときそこにいたのは、顔に大火傷を負った桔音の正面にいたのは、なんと声をかけたらいいかわからず、呆然と立ち尽くしている自分、というのだった。
どうすることだって、できたはずだった。
なのに、駆け寄って、名前を悲愴に叫びながら、肩を揺さぶることもしなければ、
抱きしめて、落ち着いた声で宥めて、安心させることもしなかった。
ただ何もせずに立ち尽くしていた。
桔音の――他人の、立ち入りがたいその内側に、そんな状況にあってさえ一歩も立ち入ろうとしなかった。
桔音のイヅチは、おそらくそのとき強引に決定づけられたのだ。
だから、その火傷痕も相当に痛いはずで、
本当は叫びだしたくなるほど怖い思いをしたはずで、
なのに、
代わりにひとこと、
ようやくひとこと、
「そっか」
桔音は手で傷を押さえたまま、顔をあげてこちらを見た。
「ねえ、和土佐」
「……なに?」
「見てみる? 火傷痕」
「え?」
「醜いよ、すっごく」
そして、どちらかといえば無表情でいるのにさえ疲れたというような、ぎこちない笑みを浮かべてみせた。
和土佐もどうにか笑おうとして、無理矢理顔を歪ませてみせた。
二人とも、なんのためなのかよくわからないもののために、無理して笑っていた。
ああ、もう何も楽しくないんだな、世界。
その光景を俯瞰しながらぼんやりと、なぜか場違いに、そんなことを思っていた。
それが桔音と交わした最後の会話だった。




