二十一、婚約の返事
嵐が去ったとき、あたりは薄墨に静まりかえっていた。
すでにあちこちで虫が鳴きはじめていた。
神社の階段をのぼっていくと、いつもの賽銭箱の前に踞って、髭の幼子がぐすぐす泣いていた。
「機嫌なおしてください、神様」
そこへ辿り着いたとき、和土佐の身なりは、ぼろぼろだった。
当然だ。
命が助かるというだけの話で、身の安全が保証されるという話ではない。
幼子は踞ったまま泣き声で一気に早口に喋った。
「いくら超運勢『運命』だからって、五体満足で、感覚器官もすべて正常だなんて奇跡だぞ」
「……運いいみたいですから、俺。……あの、お供えもの、食べますか?」
和土佐は懐に手を入れて、みたらし団子を取りだしてみせた。
もはやへしゃげて、完全に笹の葉と一体化している。
どうにかこうにか一本分離して、濡れそぼった頭の先へ差しだすと、ようやく幼子は顔をあげ、手を出してそれを受けとった。
「……硬い」
ひっく、ひっくとしゃくりながら、それでももぐもぐ口を動かしつづけた。
突然、ぬっと背後に気配を感じた。
振り返ってみるとそこに、ひとりの大男が立っていた。
大男は、髪も髭もくしゃくしゃに濡れて、泣きはらした目で見あげてくる幼子の前に立ち尽くしていたが、やがてぐしゃぐしゃのぬかるみに膝をつき、べしゃっと頭をさげた。
「……某、第二十八代目鬼灯忍者総大将、恩田平二郎にござりまする。……このたびは、申し開きの是非もござらん。この期に及んで、いやこれまでもずっと、あなた様への恩義を忘れてしまっていて、本当に、本当に申し訳がない」
「未熟で、ごめんね」
ぐす、ぐす、と泣きながら、神様は言った。
「わたしの力が、未熟だから、忍者がうまくいかなくなっちゃったのも、和土佐と桔音が結びつけないのも、みんなわたしのせいだから、」
「みじゅくで、ごめんね」
頭領は何も言わず、ただ黙って頭をさげていた。
「神様、」
桔音が傍へ歩み寄った。
屈んで、小さな泣き虫と目線の高さを同じにして、言った。
「いつもありがとうございます、神様」
幼子は顔をあげた。
その目が、またうるうると潤いはじめた。
ぶんぶん首を振って、
「……どういたしまして」
桔音はその頭をそっと撫でた。
「桔音、……幸せ?」
「はい。幸せです」
よかった。
そう言って少し笑って、やがて見えなくなった。
「さて……」
どさっとその場に腰を抜かすように座りこみ、頭領はいったん虚空を見あげてから、改めて二人に目をやって言った。
「……君は、正石和土佐だな。……そっちは、八条桔音か」
「……はい」
「そうか」
ふう、と口から溜息を漏らして、
「君たちが無事なら、全員無事だ」
「そうですか」
「礼を言う」
「なんでですか」
「我々は助かったのだ。ある勇敢な忍者のおかげで」
「俺は……ただ、逃げただけですから」
それから和土佐は、あることを言おうとした。
この場で、頭領に言うべきことを。
しかし言い淀む。
頭領の横顔から、判る。
桔音が終わらせまいとした鬼灯忍者、でもいずれ、近い将来――それは明日かもしれないし、いつなのかはわからないが――
忍者、終わるのだろう。
それでも、
「あの、」
桔音が口を開いた。
「鬼灯忍者を、終わらせないでください」
「そうだな」
頭領は少しだけ寂しそうに微笑んで言った。
「本当は誰だって、忍者を終わらせたくない。当たり前だろう? だが……」
「だから、」
続きを、遮った。
毅然とまっすぐに頭領の顔を見て、言う。
「……最後まで、ちゃんと、子供の頃わたしたちが憧れたような、かっこいい忍者であってください」
こんどこそ頭領は破顔した。
「了解した」
それからぐるりと和土佐のほうへ顔を向けた。次は少し真面目な調子で言う。
「……しかしながら、だ。今回のことは、決して褒められたことではないぞ。なんでまたこんな無茶をやらかす気になったんだ。たまたま、運が良かったというだけの話だ。君は命を落としても、ぜんぜん不思議じゃなかった」
和土佐は言った。
「俺のイヅチは、超運勢『運命』なんです」
「超運勢『運命』?」
頭領は一瞬首を傾げたが、すぐにぴくりと眉を動かして、
「いや、待て。……風の噂に聞いたことがある。
それは、確実な死でないかぎりそれを免れることができるという、奇跡のようなイヅチ。
普通なら九分九厘助からないような状況にあってさえ、助かってしまうイヅチ。
撃たれても斬られても爆発しても、建物の崩壊に巻きこまれても、どういうわけか生き存えることのできる、英雄が持つイヅチ。
すなわち主人公のイヅチだ」
いやいやいやいや……。和土佐はかぶりを振った。
「俺が主人公なわけないじゃないですか」
そこでふと思いだしたように言った。
「頭領」
「なんだ」
「俺、忍者辞めます」
頭領は怪訝そうな顔で、
「忍者を終わらせるなと言ったり辞めると言ったり、なんなんだ君たちは……」
とぶつぶつ唸っていたが、やがて、
「だめ」
ときっぱり言った。
「英雄を解雇するわけにはいかん。もちろん、弐拾壱座の解雇もなしだ。……それに、もし辞めたいんだったら、退学願を持ってこい」
和土佐は懐に手をやって退学願を取りだそうとした。
なかった。
桔音に灰にされたのだった。
「じゃあもういいです……」
そう言ってその場に崩れ落ちた。
後日、改めて鬼灯神社で隠密祭が開催された。
鬼灯忍者最大の事件から、一週間後のことだった。
いつもは閑散としている境内だが、今日はたくさんの屋台が並んでいる。
そしてたくさんの忍者がところ狭しと賑やかに歩きまわっている。
男忍者は皆、先生も生徒も、今日だけはお祭り仕様で着流しを羽織っており、くノ一は浴衣に身を包んでいる。
嵐の被害でぼろぼろになってしまった校舎の修復は、必要最小限にとどまったまま、まだその大部分が終わっていなかった。
なぜなら、そのなけなしの予算は、別のことに注ぎこんでしまったからだ。
鬼灯忍者いっぱいいっぱいのお供えものが、これでもかと拝殿前に盛られている。
決して豪華というわけではない。
だが、忍者みんなの気持ちがありったけ籠められたお供えものだ。
和土佐は祭りの様子を何気なく見て回っていた。
あれ以来、神様は現れなくなった。
何度か神社に出向いてみたものの、賽銭箱の蓋は、もう開くことはなかった。
でも、と和土佐は思う。
ひょっとしたら今日は、いや、あれだけ楽しみにしていたのだ、必ずどこかに紛れこんでこっそり楽しんでいるのにちがいない。
「おい和土佐」
どん、と背中をどつかれた。
粗褐がたっぷり餡の入った鍋を両手に持って立っていた。
着流しの上から、背中に堂々と『祭』と書かれた自作の法被を着ている。
「なにさぼってんだ、おめーも手伝えよ!」
和土佐が手をあげてうなずくと、貫と弁柄が店番をするみたらし団子屋台へ向かって駆けていく。
その背中を見送ったとき、ふと目の端に、金魚すくいの集団をうしろから覗きこむ、あの白髭の小さな姿を見かけたような気がした。
和土佐は笑って、そして歩いていく。
やがて拝殿と、賽銭箱が見えてくる。
その前で桔音が、背筋をぴんとまっすぐに伸ばして、待っている。
「おっ、来たね。んふふふ。なんかね、桔音が和土佐に、話があるってさ」
口もとににやにや笑いを浮かべながら、朏が尻尾頭を揺らして近づいてきた。
「ほら、がんばれっ桔音!」
ぽん、と背中を叩いてそのままうしろへ引っこんだ。
和土佐は桔音の前に立った。
まるで周囲の喧噪から解き放たれたような、空気のしんとした、光の淡い、ときの流れすら静かになったような空間で、二人は対面した。
「和土佐、」
澄んだ沼のような眼で、相手の眼を見つめる。
――あのときの返事を聞かせてください。
澄んだ空気を、ありったけ吸いこんで、声を張りあげる。
「いままでいろいろあったけど、わたしと、結婚してください!」
「よし桔音よく言ったッ! ちょっと待て、なにイイイイイイイイイイイイイ!? いやいやいやいや、ねえ桔音! それはいくらなんでも飛躍しすぎじゃない? まずは告って、段階を踏んで、」
笑顔が引き攣る。でも、……
心地良い。
和土佐はすぐにうなずいた。
「もちろんですとも!」
言うなり法被を脱ぎ捨てた。
なかから現れたのは、忍装束。
いっぽう、桔音も浴衣を脱ぎ捨てていた。
下に着ていたのは、もちろん、忍装束。
「え、嘘、オーケー出ちゃった。ちょっと待って、どういう状況? これ」
爽やかな冷たい風が吹き抜ける。
黄金色の枯葉が、天に向かって舞いあがっていく。
秋は立派にその役目を終えて、逞しく次の季節を始めようとしていた。
和土佐は懐からひとつの団子を取りだした。
まるで示しあわせたかのように、桔音も懐から団子を取りだす。
互いに不敵な笑みを浮かべて睨みあう。
「必ず……逃げ切ってみせる」
「絶対に逃がさない」
これは、幼馴染みの忍者の物語である。
結末としては、ようやく向きあった二人の姿がそこにあるだけだった。
二つの団子が同時に口のなかに放りこまれる。
二人の忍者が土煙をあげて、勢いよく神社を突っ切っていく。
(完)




