十三、女ったらさず
霧が、ふいに視界を覆って、通り過ぎていった。
びゅうっとつむじ風が巻いて落ち葉を根こそぎさらっていく。
桔音の眼球に映りこんだ葉っぱが、くるくるまわって同じ速度で落ちていく。
芒の穂がふわふわ揺れる。
「見ーつけた」
呟くような声が神社の静寂に小さく谺した。
再びざあっと風が吹いて落ち葉が舞い、神殿の前に忍者の背中がふっと現れた。
木の葉が螺旋を描いて天頂方向へどんどん舞いあがっていく。
「わたしには、和土佐の気配消し、効かない。……種を知ってるから。またどうせつまらないこと考えてる気配を、さぐればいいだけだから」
忍者は背中を向けたまま、首だけ僅かに曲げて横顔を見せて、声を発した。声は裏返って震えていた。
「よ……やあ……、げ、元気だった?」
まるで取り繕ったような笑顔も一緒に引き攣っていた。
それに釣られたかのように、桔音の声も引き攣る。
「あ……うん、……あ、な、なんか、懐かしい……よね。和土佐と、こうして神社で会うのって。そ、それで、……」
それきり二人は黙った。
どちらの口からもそれ以上言葉は、相手に何かを伝えるための仕草は、出てこなかった。
和土佐の目線が、奥の、さわさわ揺れる無数の芒の穂に向きあってしまう。
「あ、あの……、今日のごはんは、ほうとう、だから……」
「ああ、うん」
時間が、行き場を失って途方に暮れたようにとぼとぼと流れる。
二人の会話の行き先のように覚束ない。
「あ、秋って、せつないにおいするよね」
落ち葉と一緒に風に流されて、桔音の発した会話の種は芽吹かなかった。
そして再び泥の深みへ嵌っていく。
桔音は俯いた。
言う。
言葉にする。
とても、簡単なことだ。
でも、和土佐は自分のもとを離れていったのだ。
だから、ひょっとしたら自分は嫌われてしまったのかもしれない。
それがとても濃厚で、だから、
一顧だにしない和土佐の背中に向かって、
とりつく島もない人間の背中に向かって、
それをたしかめるというのは、怖くて仕方がない。
「また、私と一緒に」。
また、私と一緒に、修行したり、帰り道を歩いたり、勝負したり、してください。
桔音の手が震えて、脚が震えて、奥歯が震えて、肺が震えて、ぎゅっと目を瞑って、
――芳しい返事など、望むべくもないではないか。
そんなのは、夢物語だ。
どうせうまくいかない。
――結局、そういう言葉になる予定のあらゆる感覚が降り積もって背中を圧し潰していく。
「和土佐は……っ……」
喉が引き攣って、桔音の言葉が途切れた。
「どっ、どうして和土佐は、あのとき、婚約式に来なかったのっ」
男の背中がばあんと痙攣した。
雲が割れて、赤みが二人の影法師をちりちり焼いた。
やがて、ぼそぼそと呟く声が聞こえた。
「……き、桔音はさ、もっともっと幸せになれる可能性があって、もっともっと楽しく人生を過ごせる素質があるよ。……俺なんかと一緒にいたって、つまらないよ。……俺はこんなに、つまらない人間なんだから」
そう言って、もぞもぞと肩を動かした。
言葉が完全に途切れて、二人で、黄昏のなかへ、ずぶずぶ沈みこんでいくようだ。
――ここで泣いてたまるか。泣くのは、もうさんざんやっただろ。
和土佐の背後に忍び寄り、桔音はすっと腰を落とした。
指が、ぬるぬると動いて、
忍の印を結んだ。
次は目にも留まらぬ速さで動いて、
和土佐の肛門を突き刺した――!
「馬鹿和土佐!」
「ほんっ!」
受身を取ることもかなわず、そのまま膝から崩れ落ちた。
桔音は走り去った。
「こらーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
ぱかーんと景気よく賽銭箱の蓋を吹っ飛ばして、神様が威勢よく飛びだしてきた。
「なにやってんの!? なにやってんの……破局して、ど う す ん の お お お お お お お !?」
神様によって吹っ飛ばされた微妙に閉じない三角柱は、盛大な音を立てながらようやく芒畑のさなかへ消え入った。
和土佐は尻を突きだしたままの体勢で固まっていた。
「それからその情けない格好はなんだ!」
「急に浣腸が来たので……」
「馬鹿者っ、いまの流れは、仲直りして、それで元の鞘に収まる流れだっただろうが! 何やってるんだよもう! あーあ、終わったよ。終わっちゃったよ……何もかもが!」
神様は和土佐のそばまで降りてくると、腰に手を当てて睨みつけた。
「この馬鹿、屁垂れ、間抜け! そこへなおれ! 何か言うことはないか!」
和土佐は尻の穴をかばいながら膝でずごずご移動し、
「……ごめんなさいでした」
「ごめんなさいじゃないよ。ごめんなさいじゃないんだよ。ごめんなさいとかすいませんとかを超越した概念を使って反省しろ」
「……すいません」
「なんだ、座布団みたいな顔しやがって」
「はい……」
和土佐は目を閉じた。
瞼の裏に、先ほどの情景が浮かぶ。
久しぶりに異性というものと会話をしてみると、自分の卑小さが改めてよくわかる。
そして自分の卑小さがとても哀しい。
それは哀しいものだった。
なにせ、いまのいままでそんなこと、忘れていたくらいなのだから。
頭に言葉がなんにも浮かばない。
ああ、あらゆる事情を考慮すると、俺はもう死んだほうがいいんだろう。
本気で。
ああ、消えたい。
この世からとてもいなくなりたい。
「あーあ、もう、せっかく二人っきりになって、仲直りする絶好の機会がやってきても駄目なんだったら、じゃあいったいどうすればいいんだよ……おまえらをひっつけるのって、どうしたらいいんだよ……このままじゃ縁結びの神様の名折れだよ……」
心底哀しそうな顔をして、神様はぽすっとうしろの賽銭箱の前の段差に倒れこむように腰をおろすと、足をぶらぶらさせた。
「なんで桔音の気持ちを受けとめてやらなかったんだ」
和土佐はようやく上半身を起こして立て膝になった。自分の影法師をじっと見つめる。
「……俺と一緒になっても……桔音は不幸になることが確定しています。そんなの、どんなふうに想像したって。……どんなふうに想像したって……俺と一緒になった場合の桔音の人生には、想像を絶する我慢と退屈が待ってるんです」
「……つまり、おまえはそれが怖いのか」
「いや、だって……大事な人の一生を、俺なんかにかかずらったおかげで……潰してしまうなんて、重すぎるじゃないですか」
神様は深く溜め息をついた。目の前の影法師の先を、じっと見つめる。
「どうしておまえらは離ればなれになっちゃったんだ……。なんでひっつけないんだ。お互い腹の内をまったく知らぬ他人というわけでもあるまいに」
「……だから、たぶん桔音も、わかってると思います。俺がこんなにつまらない人間になってしまった、ことについて。人と何を喋ったらいいのかわからない、うまく会話ができない、こんなつまらない……」
「会話? 会話が、そんなに重要なことなのか」
「……いつの間にか、それがすべてに、なっちゃったんです」
和土佐は自嘲気味に笑った。
何を話したらいいのかわからない。
これは、喜劇だ。
どれだけ長いあいだ何ヶ月も何年も考えても、結局何を話したらいいのかわからない。
これは、悲劇だ。
「世界は……陽気さと明るさでまわってるんです。こんな暗い人間に生きていく場所なんてどこにもありません」
「なんだ、じゃあ、おまえがもっと明るい人間だったらよかったのか? おまえはもっと明るい人間になりたかったのか? そういう話なのか? これは」
「……そうかもしれません」
「……しっかりしろよ」
親指と人差し指で髭をつまんでぐりぐりいじりながら、また深いため息をついた。
「おまえらに結婚して子供つくってもらわないと困るんだよ……。結婚して、子供つくって、それでいついつまでも幸せに平和に暮らしたらいいじゃないか」
「ああ~あ」
ついにそのままうしろにべったり寝そべってしまった。
「……このままじゃあ、ひつじごっこだよ」
「……どういう意味ですか」
「不毛って意味だよ。まったくもって、不毛だよ。そりゃイヅチだって、そんなイヅチになるわけだよ……」
ぽつりと、そう漏らした。
「え」
和土佐はその言葉を聞き漏らさなかった。
「か、神様、ひょっとして俺のイヅチわかるんですか? 本当に?」
急に食いついてきた男の顔を、幼子は興味のなさそうな顔で一瞥した。
「イヅチなんてそんなもん、おまえの守護霊の申し訳なさそうな面見れば一発でわかる」
和土佐は思わず背後を振り返った。
「……俺のイヅチってなんなんですか? ……いや、三宅丸はもうずいぶん前に食べたんで、イヅチはとっくに解禁されてるはずなんですけど、さっぱりわからないんです。いろいろ試したんですが……超筋でも、超能力でも、超感覚でも、どれでもなかったんです。……もし知ってるなら、教えてもらえませんか?」
神様はしばらく黙って自分の髭をみよん、みよんと毛づくろいしていたが、やがて、
「しってるけど、おしえない」
と言った。
「だってすごく言いにくいんだもん、おまえのイヅチ」
「……それは、舌噛みそう、っていう意味で?」
「気の毒だ、っていう意味で」
「……」
「ああもう! そんなことより、わたしは怒ってるんだからな! 縁結びの神様の初仕事に、こんなややこしい縁を押しつけやがって、心が痛まないのか!」
言ってからはっとして、取り繕うように、ご……ごほん、と咳払いをして、
「と、とにかく、次こそちゃんと桔音と向きあって、話しあえ! 馬鹿もやし、狼藉者、女ったらさず!」
そしてわかりやすく、ぽんっと消えてしまった。




