十一、百合色の風呂とくノ一の秘密
とぷん、と湯のなかに手首を落とした。
波紋がゆらゆら広がって、皮膚の壁に反射して返る。
上から水滴の粒が複雑な起伏を伝い降りて湯面と同化する。
わっしわっしと泡を立てて髪を洗っている朏の、肩甲骨から腰骨にかけて弦のようにしなった線の向こうに、籠った湯気にかすれた木の栫が見える。
屋上へ繋がる鉄扉の脇に、風呂場が出来上がっていた。
弁柄が朏に急きたてられながら、ときに囃したてられながら、どやされながら、三日三晩かけてつくったものだ。
もちろん包帯ははずしていたが、代わりに湯に浸からないようにあげていた髪をそのまま前に垂らして、桔音は顔の右半分をぺっとり覆い隠していた。
あれから、男女は決裂したままだった。
今夜これから、改めて前回うやむやになってしまった作戦会議の続きを行う、という約束になっていた。
「へぁ……ぶわっくしゅんぬ! ファック!」
「大丈夫?」
「んん、誰かに噂されてるのかもしれねえ。どうせあの天然パーマだな。腹立つわー」
「ごめん、朏。わたしばっかりお湯に浸かってて」
「んふふ、いいのよ、ちゃんとあったまってなさい。
……そうだ、ねえ、桔音にひとつ訊きたいことがあるんだけどさ。
ずっと気になってたんだけど。
ほらあの影薄い奴……名前なんていったかな、和、ナントカ?
まあとにかく、奴の耳にいなり寿司を詰めこんだ犯人は、あんたか?」
桔音はちゃぷ、と目を逸らした。
「……なんのこと?」
「やっぱりあんたかい!」
朏は風呂桶の縁に指を引っかけ桔音に詰め寄った。
「桔音、あたしの前で誤魔化すのはもうやめなさい。なぜならあたしのイヅチはね、超感覚『地獄耳』なのよ」
「え……」
「あんとき、桔音の鼓動がいきなり二倍速になったからね。そんでいまだってあんたの早鐘、ばっちり聞こえてるわけ」
朏は風呂桶から指を離すと、頭を差しだした。
「はい桔音、お湯かけてー」
ざばっと泡を落とし、水を切り、そして手早く手拭いを頭に巻くと、朏はこともあろうに桔音の入っている風呂桶にそのまま入りこんできた。
「ちょ……朏」
「ふふん、いいじゃんいいじゃん。案外二人でもいけるでしょ」
たしかに不可能というわけではなかったが、お互いの肌が隙間なくほぼ完全に密着している状態である。
「桔音ってあったかいね。ほら、桔音の鼓動、どくどくっていってるのが聞こえるよ。あ、だんだん速くなってきた」
「……せまい」
ざば、と逃げるように風呂桶を出た。
そしてしばらく猫みたいにぴたりと静止して朏をじっと見ていた。
が、そのうちふるふると肩を竦めて、
「は……、は……はっくしょん! 火炎放射」
ぶわっと目映い火の粉が舞って、一瞬風呂場の内側を明るく照らした。
「……洟火が出ちゃった」
鼻頭を押さえ、ずず、と洟を鳴らしながら、飛び散る火種を手で払った。
「……寒い。……やっぱり入っても、いい?」
「ふふん、よきかなよきかな近う寄れ。一緒にあったまろうぜ」
結局再び湯船に浸かって、ゆっくり身体を沈めた。
「あの……朏」
「ん?」
「イヅチ、わかったんだね。とりあえず、お、おめでとう……」
「あはは、なにそれ、これってめでたいことなの?」
「わたしは、わかるのに何年もかかったから」
「ふうん。そういえば桔音いつも水の入った桶を枕元に置いとくよね。あれはやっぱりイヅチ対策?」
桔音はちゃぷ、と首を縦に振った。
「寝てるあいだに、うっかりぼやが出るといけないから」
「……た、大変ね」
「イヅチって、そういうものだから。わたしは超生理現象『火呼吸』のイヅチを解禁した。だからその祝福と呪いを、どちらも等しく引き受けなきゃいけない。朏も、大変だと思う、これから……」
「あっはは。覚悟しとくわ」
「……朏のイヅチは、どんなものなの……?」
顎を湯面に沈めながら、遠慮がちに桔音が訊ねた。
「なんかね、いまのところは、耳を澄ませば相手の心音を聞くことができるくらいかな。耳を澄ませば。でもまあたしかに、聞こえちゃうんだよね。聞こえないようにすることはできないみたいだ。これがイヅチの呪いってやつかな?」
朏はそのまま腕をあげると、湯桶の縁に肘をついて頭を載せた。
「……で? どうして奴の耳に酢飯なんか突っこんだんだ?」
桔音はしばらくのあいだぶくぶくと黙っていたが、やがて観念したようにぽつりと言った。
「和土佐と一緒の座になるために……確実に同じ点数を取ることのできる唯一の手段だったから。……長かった。ようやく、ここまで辿り着いた。ようやく、会えた。できるだけ……親しげな笑顔を試みた」
「ははん? まあ、いったいどんな事情があって、桔音が和土佐にひと目惚れしたのかはあえて聞かないけどさ、」
「ちがう」
桔音は即座に否定した。
「ひと目惚れじゃ、ない。わたしと和土佐は、婚約関係にある」
「……それは桔音の、いわゆる一方的な思いこみ、じゃなくて?」
「ちがう」
とまた即座に否定した。だがすぐに弱気になって、
「……ちがう、と思う」
「そっかぁ」
朏はほんやりと、困ったように頬を緩めた。
「ヤンデレかあ……」
「でもさ、そのわりにはやけに遠回りなことするよね桔音って。そんな素振りぜんぜん見せなかったじゃない?」
「め、迷惑かもしれないから……」
「あはん、純情なのね」
そう、あと残っているのは、本人に直接確認することだけなのだ。
でも、怖かった。
これで、決定的な決別の言葉を告げられる可能性が、充分にある。
そう考えると、どうしても恐怖で動けなくなった。
「でも、わかってる。ちゃんと言わないと……何も、伝わらない」
朏はぽん、と桔音の肩を叩いた。
「あたしは応援するよ、桔音の恋! 青春よねっ!」
「……ありがとう」
桔音はうなずいた。
「大丈夫。こんどはうまくいくように、ちゃんと作戦を考えたから」
いっぽうこちらは男衆の群れる小屋のなか。
「は……は、はっくしょい! おっぱい!」
「……ちゃんと手で口を押さえろよ、あんぽんたん」
「だってよ、隙間風が入りこんでくるんだもんよ。すでにめちゃくちゃ寒ぃしよ。冬とかどうなるんだこれ」
「たしかに陽が落ちると急激に冷えこむな」
行火に火を点しながら貫は言った。
「もうすぐくノ一の二人が風呂からあがるはずだ。そうしたら、第二回底辺脱出作戦会議だからな。おまえ、今回は自重しろよ。前回はほぼおまえのせいで尻すぼみになったんだからな」
「ふん、理解できねーし理解する気もねー、くノ一のことなんてな」
「だがあの二人と協力しないかぎり、俺たちはここを脱出できないのも事実だぞ」
壁に生えたきのこと念で会話でもしているのか、向こうを向いたままの背中に、はあ、と溜息をついて、
「仕方あるまい」
ごそごそと自分の荷物を漁り、貫は一冊の本を取りだした。
頁のなかほどで開くと、中身を粗褐に突きつけた。
「たとえばここにこういうものがある」
粗褐は面倒くさそうに振り向いた。
「あん? なんだ……げっ! おまえそんなもん隠し持ってたのかよ」
「庶民にはまず手に入らないような代物だ。製本されているものはとても貴重なのだ」
貫が投げて寄越すと、粗褐は慌ててそれを受け取り、そこに描かれた光景を食い入るように眺めた。
弁柄も一緒に覗きこんできた。
「うわぁ、卑猥だお」
「な、なんじゃこりゃ……こんなすげえの見たことねえ……まさか蛸が……こんなところに……ちくしょう、どうなってやがる」
見る角度を変えてみたり目を細めたりしながら、どうにか解読しようと四苦八苦している。
「気に入ったか? それ貸してやるから、今回はおまえ黙ってろ」
「な……! ば、買収して言論を操作しようってのか……!」
「ふん。別にくノ一に譲歩しろとかくノ一について好意的な発言をしろと強要しているわけじゃない。ただ、喧嘩腰になるなと言ってるんだ。いちいち話が進まん」
「……なあ、前々から訊こうと思ってたんだけどよ、おまえの苗字、雲井ってあの名門雲井と何か関係があるのか?」
「じゃあいったいどうやって、庶民には手に入らないそれを俺が手に入れられたと思う」
「お、おまえは自分ちの名前を売ってまでこれを手に入れたのか?」
「うぃっす~、おまたせー」
突然小屋の引き戸が開いてくノ一たちが顔を出した。
粗褐は天井の隅を見ながらすっと背中に本を滑りこませた。
「ん? あんたいま何か隠した?」
「料理の本を見てたんだ」
「ふうん。あっそ」
朏は幽霊の内蔵でも見るような顔で男部屋のなかを見まわして、
「うっわ~、カオスな部屋ね。思ってたとおりだけど」
「あのな、俺たちは四人でひと部屋なんだぞ。人口密度二倍なんだぞ」
今宵も真っ暗闇のなか、炉にくべられた火と晩飯を囲みながら、弐拾壱座は会議を開く。
「今日は、くノ一の秘密を、話そうと思う」
開口一番、桔音はいつもの正座でそう言った。
「なにっ!?」
「あらまぁ桔音、作戦ってそれのこと?」
「仲間なのに、隠し事は、……やっぱりよくないと思うから。……だから、なんでも訊いて」
粗褐は隣の弁柄と顔を見あわせた。
しかしながら、いざなんでも訊いてくれと言われると、思いのほか具体的なものが思い浮かばない粗褐だった。
だがどうにかひねりだした。
「くノ一って……なんでいいにおいがするんだよ」
「シャンプーのにおいだよ天然パーマ」
粗褐が何気なく手を伸ばして、何気なく桔音の髪に触ろうとすると、桔音は目にも留まらぬ早業でしゅばっと横に飛び退いた。
拒絶するような仕草に、なんだか傷ついた顔をする粗褐。
「気をつけて」
と桔音は言った。
「髪の毛のなかによく切れる鋼の糸が入ってる。迂闊に触ると指がなくなる」
それから結びの片方を解くと、長い髪の毛のなかに手を掻き入れて、ぷつっと何か細くて長い針金のようなものをを取りだした。
床に立てて上から押すとしなって、その反発具合から強い剛性が示されていた。
くわんくわんくわわん……という共鳴音の余韻に、
「これは魂鋼」
と桔音は言った。
「すごくよく切れる。そのほかにも目潰しの粉やいろんな武器が髪の毛のなかに仕込んである。弱点だと思って掴んできた者を返り討ちに遭わせる仕組み。くノ一の髪には、触らないほうがいい」
そして、こくっとうなずいた。
「……ほかには? なんでも訊いて」
「くノ一って……普段何を持ち歩いてるのか教えろよ」
「わかった」
そう言うと桔音は自分の胸元に手を差し入れた。
そして取りだしたのは、極度に薄く研がれた手裏剣、くない、撒菱、火矢、輪の形になった麻縄、口紐の色がそれぞれ違う麻袋四つ、長さの違う針金五、六本、……しかしそれだけでは飽きたらず、続いて腰から、背中から、どんどん取りだしては目の前に並べていった。
液体の入った大壜、小壜、包丁、おろし金、やかん、竹筒、謎の黒い石くれが七、八個……。
「これで、ぜんぶ。……ほかには?」
「……、……いや、まだだ。これでぜんぶだっていう保証がねえじゃねえか」
「そんなに疑わしいなら、自分でやってみる?」
妖艶な流し目を送りながら朏が言った。
「なにっ!?」
「ほれ、あたしの身体好きに調べてもいいよ」
「ほ、本当だな?」
腰に手を当てて突きだされた朏の胸元に向かって粗褐はおそるおそる手を伸ばし、掛襟を掴んでそろりそろりと引くとぼわっと芥子色の粉が湧いて、目と鼻と口から思うさま吸いこんだ粗褐は顔面からすのこの上に落下した。
どっ……。
「やーい引っかかった。馬っ鹿だねえ~。あっはっはっは」
「痺れ粉だな。まったく、忍者がくノ一の基本的術策に嵌ってどうする。馬鹿なのか? おまえは」
ずず、と茶を啜りながら貫が一言すると、どうあがこうと身体がぴくりとも動かない粗褐は頬を床に押しつけたまま、たらこ唇でぱくぱく吠えた。
「っせえな、っちいち、っめぇはよ!」
「くノ一に欲情したら死亡フラグも一緒に立つからね」
「……ほかには? なんでも訊いて」
なおも桔音は同じ質問を繰り返し、なおも粗褐は食い下がった。
「くノ一って……くノ一だけでいつも何を勉強してるんだよ」
「たとえば、さっき粗褐が背中に隠した料理本」
粗褐の肩がぴくっと反応した。
「それは、くノ一の授業で使ってる教科書。みんな一冊ずつ持ってる」
「きょ、教科書!?」
貫と粗褐、二人の口から同時にすっ頓狂な声があがった。
「まあ例によってあたしたちは持ってないけどね!」
朏が軽快に笑うと貫はがっくりと肩を落として、
「希書だと言っていたのに……! くそ、つかまされた……! あの似非鑑定士め……!」
「く……くノ一っていったい……なんなんだ……何を勉強しているんだ……?」
粗褐は床に頬を押しつけたまま、目をしばたかせた。




