正妃の狂愛
ティエナはゼイオン王国にある男爵家の令嬢である。
建国以来の歴史を誇る名家なのだが、その実態は寒々しいものだ。
領地から得られる収入と支出がほぼ同等。蓄えがないのは有事の際に困るので両親は色々と副業に手を出して日々を過ごしている有様だ。
ティエナ自身も代筆などで小遣い稼ぎをしていたし、領内には男爵家より良い暮らしをしている商人もいる。
それでもティエナは自分が不幸だと思った事はない。
貴族らしくない素朴な家族に囲まれながらの生活は間違いなく満ち足りていた。
しかし変化は急に訪れた。
そろそろ嫁入りの時期かぁと呑気な事を考えていたらどういう訳か隣国ソルグレスの王へ嫁ぐ事になったのだ。
ゼイオンにとって大陸の西方に位置する大国シェルサディールへの防壁としてソルグレスは重要な意味を持つ。
国王からもこの嫁入りは国防上必須なのだと念押しされ、国費から持参金まで出してもらった(一応ティエナの実家も家を傾ける勢いで持参金を捻出していた)
一般庶民にとってお妃様というのは憧れの的かもしれないが、ティエナにとっては違った。
ティエナの扱いは複数いる側妃の一人であったし、恵まれた暮らしは出来るかもしれないが、後宮というのは陰謀渦巻く魔窟というイメージがある。
社交界への出席経験が少なく、政治に疎いティエナとしては不安を感じずにはいられなかった。
嫁ぐ相手が王位を手に入れる為に実母を幽閉したという事実も恐れに拍車をかける。
それでも我が儘を言ってどうにかなる問題ではない。
避けられない困難があるなら、それ以外の部分を精一杯楽しくしよう。元来前向きな性格であるティエナはそう結論付けた。
数日間馬車に揺られてソルグレスの王宮に登城。
目通りがかなった陛下は顔は良いのだが、どこか暗い。
ゼイオン王宮から付けてもらった侍女も「美形が台無しですよねー」と言っていた。
とても肉親を幽閉するような人物には見えない。
陛下と交わした会話に気恥かしくなるような愛の囁き等はなく、どれも事務的なもので、それさえも少ない。
政略結婚とはそういうものかもしれないが、それでもほんの僅かに抱いていた希望も消沈していった。
用意された部屋の家具や出された食事が実家とは比べ物にならない出来だったのは幾らか慰めになった。
“彼女”と会ったのはやる事もないので庭園でも見ようかと後宮内の通路を歩いていた時だ。
豪華なドレスや装飾品をこれ見よがしに纏い、護衛の女性騎士や女官をぞろぞろと引き連れた女性。
直接の面識はなかったが、何者かはすぐ分かった。
正妃ソフィア。
シェルサディールの王族で実質後宮の最高権力者らしい。
面倒な相手に会っちゃったなー、と思いつつティエナは通路の端に寄って頭を垂れる。
「……」
だが、何かが気に障ったのか彼女は立ち止まった。
洋扇で口元を隠しつつ、睨め付けるような視線をティエナに向ける。
「礼儀がなってないわね。正妃にしてシェルサディール国王の妹である私に対して」
「え……」
頭を下げるだけでは足りなかったのだろうか。
けれど事前に調べた情報ではこの国の妃に厳然たる身分差がある訳ではない。
母親に関わらず基本的に最初に産まれた男児が皇太子になる事が慣例化しているからだ。
「私は王妃だけでなく侯爵でもあるの。ただ親が貴族というだけのあなたと一緒にしないでちょうだい」
「……すみません。以後気をつけます」
高圧的な態度にむっとしたが、反論しても向こうの機嫌を損ねるだけだろう。
これから後宮という狭い空間で暮らす事になるのだから敵を増やすのは避けなければならない。
「はあ……前途多難だなぁ」
ソフィアが去った後に溜め息と共にぼやく。
いきなり将来に一抹の不安を感じずにはいられなかった。
「っと、駄目駄目弱気になったら。楽しい事も逃げちゃう」
自室に戻ったソフィアは部屋の前で待機する女性騎士に、しばらく眠るので一定時間が経ったら起こすように命じてベッドに身を沈める。
夢を見た。
数年前、兄はソルグレスに軍を進め、しかし一人の将軍によって撃退された。
国内の反乱を恐れた兄は即座に講和を申し出、その際にソフィアが嫁ぐ事になったのだ。
当初、夫となったウェルセス王子への印象はあまり良くなかった。
政略結婚が嫌だった訳ではない。
物心ついた時からそういう教育を受けているのだから、兄にウェルセス王子へ嫁ぐよう言われた時も当然の事として受け止めた。
理由はベッドを共にしながら彼が手を出す事がなかったからだ。
自分には女の魅力があると自惚れていたし、仮に好みでなくとも跡継ぎを作る事は王族の義務の筈だ。
潔癖なところがあるソフィアが義務を果たそうとしない相手に反感を持つのは自然な成り行きだった。
だから一月ほど経った頃にウェルセスを問いただしたのだ。
彼はしばらく黙った後に「我が子に辛い思いをさせたくない」と呟いた。
意味は分かる。兄が自分を嫁がせたのは外戚としての立場を手に入れる為だ。
征服して支配するより血縁を利用して緩やかに属国にした方が反発も少なく統治も楽になる。
兄の野心に思う所のあったソフィアはウェルセスの言葉でひとまず矛を収めたが、彼の真意がそれだけでない事を知ってしまった。
間もなく、ウェルセスは母親である王を幽閉して王位を簒奪。貴族や官僚の粛清を開始した。
あまりの苛烈さに苦言を呈したソフィアに対し、ウェルセスは自身の思惑を告げた。
曰く、全ての悪評を背負う。
即位前からウェルセスの評判は悪かった。兄の流言のせいだ。
払拭が難しいと考えたウェルセスはそれを利用する事にしたのだ。
軍や官僚機構の再編成や経済政策などの改革は始める段階で莫大な費用がかかり、効果が目に見えるようになるまで時間がかかる。
不満が集まる初期の頃を自身が断行し、効果が現れる前に失脚して改革を新たな王の功績とする。
それがウェルセスの狙いだった。
自身の目的を語った後、ウェルセスは機を見て国に戻るようソフィアに言った。
「嫌です! 私はどこまでも陛下と共にあります!」
思わずソフィアは叫んだ。
跡継ぎの事さえ除けばウェルセスは誠実は人柄であり、一緒に生活する過程でソフィアは惹かれていた。
故に自分を犠牲にしようとするウェルセスを放っておく事は出来なかった。
「不要だ。……ソフィア、国に翻弄された憐れな女よ。憐憫があれば害される事もないだろう」
拒絶されたがソフィアも引かなかった。幼い頃から妻は夫の傍らで支えるものだと母から教わっていた。
夫が悪意を背負って死ぬというなら妻である自分もそれに続くまでだ。
「ソフィア様」
部屋の外から自分を呼ぶ声にソフィアは目を覚ました。
ベッドから体を起こしてふと顔に触れると頬が濡れていた。
「先程侯爵領から報告書が届きました」
「入りなさい」
「失礼します」
シェルサディールから連れてきた護衛の女性騎士が両手には紙の束を抱えて入室。
部屋の中に用意された机の奥に置く。
「進展状況はまずまずね」
数分かけて眠気を覚まし、騎士が持ってきた報告書に目を通す。
ソフィアが治めている侯爵領は元々極めて小規模な領地が集まった地域だった。
これは領地運営の効率が悪いし、街道や河川の整備のような複数の領地に跨る事業は各領主の思惑がぶつかって難しい。
なので一つに纏めた。
後ろ暗い事情のある領主は取り潰し、そうでないものは王領への配置換えを行った。
先祖伝来の土地を手放す事を拒否する貴族も多く、説得には苦労した。中には爵位を捨てるから代官として雇ってほしいと言う者や、貢納金を納めるのが大変になってきたので年金を貰って隠居したいと言ってのけたふてぶてしい輩もいたが。
領地が欲しいと言った時、ウェルセスはただ一言どこが欲しいかを尋ねた。
数週間かけて王国内の各領地の面積、税収、特産品、領主のこれまでの事績などを調べ上げたソフィアは現侯爵領に当たる地域を要求して受け入れられた。
もしこの時ソフィアが国への貢献が大きい領地やシェルサディールと接する西部の領地を上げていたら、ウェルセスは即座にこの話を却下していただろう。
現在はゼイオンや王都にまで続く街道整備に取りかかっている。
苦役や増税で住民の負担は増しているが、完成すればそれに見合うだけの成果はある。
もっとも、それまで自分が生きている保証はないが。
「今回の輿入れでゼイオンとの関係が一層強くなったのも追い風になるわね」
「ですね」
「でも、あの子も性格の悪い正妃に目を付けられて可哀想に」
嫁いできた側妃は誰もが正妃に苛められる。今では王宮内だけでなく市街でも噂になっている。
情報操作はシェルサディール王族のお家芸だ。
もし革命が起きても側妃は難を免れる可能性が高くなる。
「あんな若くて綺麗な子を巻き込む訳にはいかないものね」
「ははっ」
途端に騎士が口に手を当てて小さく笑った。
「……」
「失敬」
おどけた態度で口から手を離す騎士にソフィアは強い視線を向ける。
「……醜いと思う?」
「女の独占欲など可愛いものですよ」
返答にソフィアは安心したように頷く。
「陛下と最期まで一緒にいるのは私だけで良いの」
超重いよ、この女!
嫌だな、こんな破滅思考の夫婦。
いずれティエナメインの話も書きたいな。