閑話:『先輩』からみた庄内毅 中編
私が神宮球場に来たのは初めてだった。
麻衣ちゃんは最前列で見たかったみたいだ。
二時間前に行って席を取ろうよと提案してきたけど、私は断った。
野球好きの父親からそう聞いていたからだ。明大と東大の試合はいつもガラガラだと。
六大学野球は、早慶戦が絡まなければ席にはかなり余裕がある、と。
「……って聞いていたんだけどね」
メガホンを持った学生スタッフが叫んでいる。
『当日分のチケットは完売しました!』
超満員。予想外だ。
「もう、彩香ちゃん。三十分前じゃ、いい席取れないじゃない!」
「ごめんね! このカードはガラガラだって聞いてたんだけど……」
「庄内くんが出る試合なんだから、空いてるわけないじゃん!」
麻衣ちゃんを宥めながら、もらったチケットを封筒から取り出した。
このチケット、どこから入場すればいいんだろう……。
チケットの裏側にはボールペンで何か書いてある。
……でも、文字が汚すぎて読めない。
『⊂¬ テケッKと 大会木部σ ス勺ッフニ 貝せτ<ナこ〃さレヽ 圧内』
とりあえず、『大会本部』と『庄内』という文字だけは読めた。
大声で案内しているスタッフに大会本部の場所を聞き、チケットを見せると、奥から男子マネージャーが慌てて駆け寄ってきた。
「広瀬さんと一条さんですね! 案内させていただきます」
男子マネージャーは広い神宮球場の中をすいすい進んでいく。
案内されたのは、内野の東大側応援席、その最前列だった。
最前列には、『VIP』と書かれた紙が貼られた椅子が六つほど並んでいた。
「すごい、いい席だね! 前に遮るものもないし」
麻衣ちゃんは無邪気に大喜びしているけど……。
私はこんな席に座っていいのだろうかと、ひやひやしていた。
だって、残りの席に後から来たのは、本当にVIPばかりだったから。
うちの大学の総長に学科長。次に来たのは、私でも知っている大企業の社長……。
どうして、ただの学生がこんなチケットを手配できるのかしら。
私は麻衣ちゃんの絶叫で現実に引き戻された。
「あ、見て庄内くんが手を振ってくれているよ!」
グラウンドを見ると、庄内くんが私たちの方を向いて手を振ってくれていた。
麻衣ちゃんは大興奮だった。とりあえず、私も愛想笑いを返しておいた。
庄内くんは変わった子だなぁ、と思う。
私もそこまで鈍感じゃない。
彼は私に多分好意を持ってくれているんだと思う。
不器用で、見ていて面白いし、顔はカッコいいけど、一旦は保留かな。字は汚いし、服装もちょっと変だし。
そんなふうに余裕ぶっていられたのは、試合が始まるまでだった。
顔のカッコ良さも字の汚さも、彼のほんの一部に過ぎなかったのだ。
彼が打席に立つと、超満員の客席がふっと静かになった。
そして、歓声が爆発した。
その瞬間、私は身動きができなくなった。
視界には、投手と彼しか映らなくなった。
まるでズームアップしたみたいに、彼の一挙手一投足がはっきり伝わってくる。
自分でも、おかしなことを言っているとはわかっている。
内野の最前列とはいえ、選手まではかなり距離がある。
それなのに、視界には彼しか映らない。時間が無限に引き延ばされたように感じた。
明大の投手は春だというのに滝のような汗を流し、決死の表情で球を投げる。
だが、庄内君は表情一つ動かさない。
内角ぎりぎり、身体に当たってもおかしくない球を、当たらないと確信しているかのように見送る。
変化球をきっちり見極め、ストライクになる球だけをファールで逃げていく。
それがひたすら続く。
永遠に続くかと思えるような攻防。彼は、まるで息をするみたいに、外野の前へふわりとヒットを落とした。
打席が終わると、金縛りが解けたみたいに視界が急に戻ってきた。
それでも一塁ランナーになった彼から目が離せなかった。
「ね、彩香ちゃん。庄内くんは凄いでしょ」
麻衣ちゃんの呑気な声で我に帰る。
「そ、そうね……」
彼の高校時代のことは、調べたことがある。
雑誌の記事には、『高校生の中にメジャーリーガーが一人紛れ込んでいる』と書かれていた。
でも、実際に見てわかった。彼はメジャーリーガーどころではない。
例えるなら大学生の中に『魔王』が混じっている。
禍々しいほどの才能の煌めき。
彼は、たった一人で球場を支配していた。
麻衣ちゃんは庄内くんが東大に来たことに仰天していた。
今となっては、その驚きも理解できた。
彼がウチみたいな弱小チームにいていいわけがない。
大学野球にいていいわけがない。日本にいていいわけがない。
そして、――現実にいていいわけがない。
と、さえ思った。
◇◇◇◇◇◇◇◇
明大戦の劇的な逆転サヨナラホームラン。
まるで物語のような姿に脳が焼かれた私は、翌週から庄内くんを探し始めた。
表向きは、麻衣ちゃんの趣味に付き合っていることになっていたけれど、この頃には私の中に新しい感情が芽生え始めていた。
私は肩を落としながら、ベンチに腰掛けた。
「いない……、庄内くんはどこにいるのよ」
「まぁまぁ、落ち着いて彩香ちゃん。きっと、そのうち見つかるよ」
一年生は例外なく駒場キャンパスで学ぶことになっている。
なので、庄内くんは広いこのキャンパスのどこかにいるはずなのに……。
それなのに、彼はどこにもいないのだ。
たまに『本郷キャンパスで見かけた』『真昼間の田園調布で見かけた』なんて話を聞くこともある。
でも、たぶんデマだと思う。
この時期の一年生が授業をサボってフラフラしているわけがないのだ。
一年の前期は必修が多いし、この時期の新入生は、まだそこまで要領よくサボったりもしない。
もう少しすると麻雀とかにハマって生活が乱れる学生も出てくると思うけど、四月からサボることはないだろう。
「あ、彩香ちゃん! 庄内くんいたよ」
麻衣ちゃんが指差す方を見る。
女の子たちの集団が見える。
確かにその集団の真ん中に背の高い人物がいるように見えるけど……。
「あの囲まれているのが庄内くんなの?」
「そう、庄内くんはサインを断らないことで有名なんだよ!」
そうなんだ……。なんかそういう印象はなかったけど、意外とファン思いなんだね。
じっと見ていると、集団は徐々に小さくなっていき、確かに庄内くんの姿が見えてきた。
色紙にサインをし続けている。
彼が集団から解放され、歩き出したところで声をかけた。
「先週の試合、すっごくカッコよかった! よかったら、一緒にお昼どう?」
麻衣ちゃんはあんなに話したがっていたのに、本人を目の前にすると、カクカク首を振るだけになっている。
ランチを食べながら、庄内くんと話してみる。
満員の球場を支配していた魔王。
話してみると彼は意外に普通だった。
スポーツ選手にはかなり珍しい、理系タイプって感じ。
かなり猫をかぶってる気はするけど。
話を聞いているうちに、彼が駒場にいない理由はわかった。
「僕、UCLAから内定もらってるんですよ」
「カリフォルニア! いいな〜。私も留学したい」
「(コクコク)」
なぜか、一言も発していない麻衣ちゃん。
UCLAは世界ランキングにも入る名門大学だ。
東大よりもランキングはかなり上だ。特に理系は強いはず。
なるほど、東大は九月までの腰掛けにするつもりなのか。
そういうタイプは、ごくたまにいる。
心配になって、英語を少し話してもらったのだけれど……
「サマーズ アー ユージュアリー ホット アンド サニー」
うーん、なかなかひどいかも。
現地では通じないほどのカタカナ発音……。
リスニングも、あまり得意そうには見えなかった。
これでアメリカに行くの? 心配だわ。
と言ってもリーディングとライティングはほぼ完璧なので、まったく通用しない、というほどではないと思うけど……。
心配だなぁ。
気づけば、私は彼の行動から目が離せなくなっていた。




