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閑話:炎の銭闘 FA編 前編

 メジャー8年目の俺は、これまでに本塁打王5回、3冠王1回を獲得してきた。

 それでも年俸は600万ドル。

 活躍の割に安すぎる。ずっと不満を抱えていた。


 だが、今年は違う。ようやくFA権を手に入れる。

 本来なら昨季末に取得できるはずだった。けれど1994年から95年にかけての大規模ストライキのせいで、FA権取得が1年遅れた。

 公式戦938試合が中止になった史上最悪のストライキだ。


 俺は今、恐ろしく金欠だ。

 原因は4年前に山本先輩と立ち上げた通販サイト SHOWZON にある。

 このビジネスは米国内だけで販売件数2000万件を誇る、インターネット上で最もアクセスされるWebサイトに育ったが、とんでもない金食い虫でもある。


 売り上げは毎年倍々で伸びているが、同時に毎年400万ドルもの赤字を垂れ流すまでに“成長”している。

 赤字の理由はインターネット広告だ。ユーザーを集めるため、あらゆるサイトに広告を貼りまくっているせいで莫大な費用がかかっている。

 いまや米国内のネット広告市場の8割を俺の会社が占有するまでになっている。


 立ち上げ時から共にやってきた山本先輩は3年間CEOを務めていたが、商才のなさが致命的で、今は技術担当役員に降格させた。ただし、本人は案外楽しそうだ。

 代わりに招いた新CEOは派手な経歴の持ち主で、成長を維持しつつ赤字を100万ドルに圧縮すると豪語している。



 そして、重要なことだが、SHOWZONの赤字は結局すべて俺の年俸から補填されている。

 株主割当増資という形で資金を突っ込み続けた結果、俺の資産管理会社が持つ株式は7割に膨らんだ。幸い企業評価は高い。上場すれば高値がつくはずだ。

 ……だが、目先の現金はすっからかん。

 資産総額は馬鹿みたいに膨らんでいるのに、現金不足のため銀行融資に頼らざるを得ない事態に陥っている。


 去年、阪神淡路大震災への復興支援として200万ドルを寄付したのも大きく響いた。

 俺が前世で最も尊敬していた選手は、「誠意は言葉ではなく金額」という名言を残した。

 この言葉を文字通りに捉えるなら彼は金に汚いだけのデブ、顔面一人ブラックマヨネーズ野郎だろう。


 しかし後に、彼は密かに100万ドルを震災復興に寄付していた事実が判明した。

 有言実行。まさに「言葉ではなく金額」を実践した男だったのだ。

 それによって彼の評判はうなぎ登りになった。

 俺は今でも彼をNPB史上最高の選手のひとりだと思っている。


 彼の影響もあって、俺は阪神淡路大震災が発生した時に、自分の貯金の3割、200万ドルを募金した。

 表向きは匿名だが、あえて証拠を残し、後から気づかれるよう仕組んでおいた。


 俺は彼のような聖人ではなく偽善者かもしれない。

 だが「やらない善よりやる偽善」だ。

 この寄付のおかげで日本のメディアは俺を絶賛し、最近なぜか広まりかけていた庄内サイコパス疑惑を吹き飛ばすことができた。



 まあ、いろいろ理由はあるが、要は俺は金欠なわけだ。

 今日はいよいよ最初の年俸交渉の日。


 玄関で見送ってくれる先輩。そして足にしがみつく子供の大輝。

 俺は人生最大の銭闘(たたかい)へと向かった。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇


 球団事務所に到着した俺は、形式的な挨拶もそこそこに切り出した。

「10年契約で12億ドルください」


 入室した瞬間から顔色が悪かったGMは、俺の要求を聞いた途端、うつむいたまま沈黙してしまった。

 今期のメジャー最高年俸が単年1100万ドルだから、その約10倍にあたる額だ。


 前世の某二刀流のスター選手は10年7億ドル契約を結んでいた。そう考えれば、俺の提示は必ずしも法外な要求ではない。

 実際、俺が加入してから球団は地域放映権や日本向けグッズ販売で1億ドル以上の利益を得ている。しかも前季からは、日本向け放映権料の大半が主催球団に直接入る仕組みになっている。

 俺が球団の財政を分析した限り、この年俸をギリギリ払えると試算している。


 そう説明したところで、GMは頭を抱えて俺の言葉を遮り、部屋を出るように告げた。

 こうして1回目の交渉は幕を閉じた。俺としては、今まで散々安くこき使われてきた分を正当に請求しただけなのだが。


 事務所前に停めていた古びたアコードに乗り込み、サンフランシスコの街を抜けて帰路につく。

 街は今や俺の顔だらけだ。ビルの壁や商店の看板に描かれた広告。年100ドルという破格の契約で、市内の店にはほぼ無条件に使わせているから、市内の至る所に俺の顔写真を使った広告がある。

 風俗店の看板にまで使われたことがあり、先輩が激怒して少し広告審査が厳しくなった。俺としては笑える話だが。


 家に戻ると、先輩が不安そうに尋ねてきた。

「来季の契約は、どうなりそう?」


 子育て中で引っ越しを嫌がる彼女は、安くても妥協して欲しそうだ。足元では大輝が俺の左足にしがみつき、飼い犬のウブントゥも「何かくれ」という目でこちらを見ている。

 俺は家族の生活費を稼がねばならない。


 今回の交渉の感触は芳しくなかった。となれば他球団にも声をかけるしかない。FA宣言前に他球団と交渉するのは規則違反だが、そんなのは建前に過ぎない。移籍先が決まらないFA宣言など、ただのセルフ戦力外に等しいのだから。


 実際、ニューヨークの某金満球団からは10年10億ドルのオファーが来ている。マーケティングデータを示し、投資に見合うと丁寧に説明した結果、異例のオファーを取り付けた。

 ただ、この情報は自球団にもなぜか漏れてしまったらしい。球団事務所内で堂々と電話していたのが悪かったんだろうか。

 GMが俺の顔を見る前から青ざめていた理由も、それだろう。


 俺には妻と子供、赤字を垂れ流す会社と500人の従業員、オフで暇そうなデータ分析チーム20人、その人生を背負う責任がある。

 FAという選手人生最大のイベントで、敗北するわけにはいかないのだ。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇


〈Side:球団ゼネラルマネージャー〉


 去年からGMを務めるソリアーノの頭痛の種は、常に一人の選手にあった。

 球団の看板選手、庄内。


 彼はまぎれもなくスーパースターだ。三冠王を獲得し、本塁打王の常連。ファンサービスにも熱心で、寄付活動にも力を入れる。カルト的な人気を誇り、街を歩けば彼の顔を知らぬ者はいない。


 だが、その輝きをすべて打ち消す致命的な欠点があった。――恐ろしいほどの銭ゲバであることだ。


 年俸調停権を得て以来、契約更改が円満に済んだ試しはない。保留、保留、また保留。一度は年俸調停にまで突入したことさえある。

 そんな彼がついにFA権を取得した。ソリアーノは要求の大きさを想像して身震いしていたが、実際に突き付けられた数字は予想を超えていた。


 10年12億ドル――年平均だと1億2千万ドル。

 現在のメジャー最高額を得る選手の、実に十倍以上である。


 メジャーの貧乏球団の中には、チーム全体の総年俸がわずか1500万ドルというところすらある。ソリアーノの率いる球団は裕福な部類だが、それでも総年俸は4500万ドル程度。庄内の提示は、一人で複数球団分に匹敵する水準だった。


 常識的には馬鹿げた要求。しかし否定できないのが辛いところだ。庄内は球団の財務資料を手に入れており、自らに関連する収益を綿密に洗い出した上で「ギリギリ出せる額」を突きつけてきたのだ。球団内部に内通者がいるに違いない。


 実際、日本市場でのグッズビジネスは大成功していた。

 放映権料も日本向けのものは、主催球団に優遇配分されるようになり、球団の経営はここ数年潤っている。だがそれでも、12億ドルという数字は常軌を逸している。


 さらに不気味なのは、庄内のFA交渉の情報がなぜかソリアーノの耳に入ってくることだ。通常なら極秘のはずだが、庄内が意図的にリークしているのは間違いない。

 彼は条件が合わなければ出て行くだろう。


 交渉の内容をオーナーに報告したソリアーノは、市外れの自宅に戻った。

 だが安息の地でさえ、庄内の影から逃れることはできない。家の周囲の商店はすべて、笑顔の庄内の看板で埋め尽くされていた。360度どこを見ても庄内、庄内、庄内。


 理由は明白だった。庄内本人がわざわざこの地域に営業に訪れ、「年100ドルで契約できますよ」と勧めていったのだという。年俸600万ドルの選手が、広告契約のために自ら頭を下げて回るなど常軌を逸している。

 ソリアーノは確信していた。自分に対する脅しだろうと。年俸を上げるために彼の家の周りを顔写真で埋め尽くしているのだ。


 もし「庄内を追い出したGM」という烙印を押されれば、この街では本当に自宅が放火されかねない。


 家に帰ると玄関には通販サイト SHOWZON の箱が置かれていた。妻が雑誌でも注文したのだろう。

 SHOWZON ――庄内が立ち上げたオンライン通販サイトだ。直感的な操作で欲しい商品が見つかり、送料は安く、配送は迅速。すでに全米で圧倒的な地位を築いている。

 野球選手の副業というには規模が大きすぎる。しかも庄内は株の大半を保有しており、オーナーですら「彼の方が資産を持っているのでは」と漏らすほどだった。


 テレビをつければ、《SHOWZON》のCM。笑顔の庄内がバットを片手に、サイトの便利さをアピールしている。

 もちろんこのCMは個人の契約なので球団には一銭も入らない。

 庄内、庄内、庄内――ソリアーノの神経はすり減っていった。


 追い打ちをかけるように、妻が声をかける。

「ねぇ、頼んでいた庄内選手のサインはまだ?」


 彼女は筋金入りの庄内ファンで、家中が彼のグッズだらけ。引き出しを開ければ庄内の顔写真入りの爪切りが何十個も並ぶ状態だ。

 なぜ爪切りを何個も何個も買ってくるのだ。ソリアーノは気が狂いそうになっていた。


 もしFAで彼が出て行けば、自分は離婚されるのではとソリアーノは暗澹たる思いに駆られる。

 ソリアーノは必死に笑顔を作り、妻をなだめた。


「ハニー、また今度ね。今はオフで大切な時期だから」


 結局、オーナーとも話したが、庄内に1億ドル級の年俸を払うのは避けられないだろう。問題はリスクの制御だ。

 庄内が怪我でシーズンを棒に振れば、日本向けの放映権に頼っている球団は破産しかねない。せめて出場条件を付け、年俸の半分を出来高に振り分ける――それが現実的な妥協点かもしれない。


 それでも厳しい。ソリアーノの苦悩は、なお尽きなかった。

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― 新着の感想 ―
年俸は野球選手としての価値そのものであるって考えを知ってるから読者は庄内のことを嫌いになれないけど、それが無かったら自分の会社持ってて金に困ってないのになおがめつい、足るを知らない金の亡者にしか見えな…
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