第20話 ヒョーゴスラビア連邦
県大会の終わりから近畿大会までは、一カ月ほど時間がある。
この期間、チームは徹底的に筋トレに打ち込んだ。
筋トレというのは、実のところ初心者ほど成果が出やすい。ボディビルダーが筋肉を5%増やすのに二年かかることもあるが、初心者なら一ヶ月以内でそれが可能になる。これはいわば“ビギナーズ・ボーナス”だ。
県大会で打撃が落ちていた三人衆も、近畿大会では本来以上の打撃力を発揮できるかもしれない。――まあ、他の練習を削ってまで打撃練習をしているのだから、そうなってもらわないと困る。
筋トレの成果は、打撃だけにとどまらなかった。
チーム全体のスイングスピードが目に見えて上がってきたのだ。
「バレルゾーン」という理論がある。いわゆるフライボール革命の中心理論で、打球速度158km/h以上、打球角度25~31度で飛び出した打球はバレルゾーンに入り、長打やホームランになりやすいとされる。
理論上、この条件を毎回満たせば5割がホームランになる。――もちろん、そんな人間は存在しない。
この打球速度を左右する最大の要素が、スイングスピードだ。
理論的には125km/h以上、実戦レベルでは140km/h以上のスイングが求められる。参考までに、ドラフト1位で即戦力とされた打者のスイングスピードはおおよそ155km/h、メジャーのトップクラスは160km/hに達する。
だが、スイングスピードを測る機械は日本では流通していなかった。海外製の高価なモデルはあるが、500万は高すぎるし、海外通販で買っても部費では落とせない。
そこで、俺はVHSとビデオカメラを使ったアナログな測定方法を採用した。VHSは1フレームあたりの時間間隔が一定なので、バット先端の移動距離からスイングスピードを逆算できる。
スイングスピードとは、ボールに当たる直前の速度を指す。VHSの性質上、最高速度の瞬間がきれいにサンプリングされるとは限らないため、数回測って最速の値を採用する方式だ。
結果、俺は150km/h、三人衆はそれぞれ140km/h前後を記録した。
もう少し伸ばしたいが、現時点でも十分だ。三人衆の伸びは目覚ましい。今後が楽しみだ。
俺自身の成長も著しい。体が出来上がってきたおかげで、フォームも安定しはじめている。今は182cm。もう少し背が欲しかったが、日本人の遺伝子的にはこのあたりが限界だろう。
ちなみにこのビデオを使った測定法はめちゃくちゃ面倒なので、実施したのはこの3人だけだ。
練習の合間には、対戦校の分析も進めていた。
寮の自室。壁に飾った田中選手のユニフォームを見上げながら、次の相手の映像とにらめっこする。
初戦の相手は近江実業。打撃中心のチームだ。壮絶な乱打戦になるだろう。
これを勝てば、二回戦は播磨商業。俺の地元、兵庫県の代表校だ。ベンチには塚口リトル時代の同級生もいる。
――とはいえ、尼崎市民にとって播磨地区はあまり“同じ兵庫”という感覚はない。神戸ですら滅多に行かない。兵庫県は文化圏を無視して無理やり5つの旧国をまとめた、“ヒョーゴスラビア”だからな。
準々決勝の相手は未定だが、十中八九PF学園になる。今の戦力では勝ち目は薄い。2回戦で当たらなくて良かったと心底思う。
つまり、分析対象は3校だけ。助かるぜ。何かの間違いでPFに勝ったら、そのときはそのときで情報をかき集める。滋賀は遠すぎて偵察部隊も送れていないしな。地図上では奈良と隣県でも、アクセスは絶望的に悪い。
ちなみに甲子園出場を見越して、有力校の情報収集とVHS交換も始めている。
今日もダビング機が火を吹いている。俺の寮の部屋の一角は、もう違法ダビング業者みたいな様相を呈してきた。
古いVHSも無駄にはならない。過去の試合を欲しがるマニアも多く、交換材料として価値がある。
一回戦――近江実業戦は、7-18x、5回コールドという凄まじい乱打戦を制して勝つことができた。
そして、俺たちは播磨戦に備えていた。
相手にはプロ注目の速球投手がいる。球速は150km/h近い。
俺はその対策として、練習の“投げ役”に任命された。全力で投げれば、俺もそれくらい出る。
しかし、4人に死球を当てたところで監督から全力投球禁止を言い渡された。理不尽だ。
感覚は掴めてきたので、あと数人に当てればコントロールが定まってくると思うんだけど。
140km/hじゃ彼らの練習にならない。そう抗議したが、安全の為だと言って撤回してくれなかった。
播磨のエースの球種はカーブとスライダー。テンプレ構成だ。
フォームは粗く、変化球はバレバレ。
正直、俺の意識はもうその先――PF戦に向いている。
播磨のエースは二年生。ここまで全試合を一人で投げている。
この球速で、フォームも悪く、球数も多い。肘が壊れていない方が不思議だ。いや、もう壊れているかもしれない。
速球を投げられるのは才能だ。
だがこの才能は、同時に選手生命を縮める諸刃の剣でもある。
適切なフォームと筋肉、そしてケアがなければ、150km/hという速球は投げてはいけない。少なくとも、高校生ではその水準を満たせない。
つまり、俺は高校生は150km/hを投げるべきではないと思っている。
――彼の春を、この試合で終わらせる。
そう、俺はひとり誓った。
◇◇◇◇◇◇◇◇
近畿大会は豊中球場で行われる。
相変わらず、うるさい球場だ。飛行機の騒音がひどい。
この時代の航空機はどんどん大型化が進み、それに伴ってエンジン音も巨大化していた。豊中は伊丹空港の進入経路にあたる。着陸寸前の飛行機が頭上すれすれを通っていく。
騒音への住民運動は日に日に過激化していて、やがて関空開設の大義名分になっていく。
まだこの球場はマシな方で、特に曽根の住宅街とか北伊丹あたりは本当に騒音がやばい。こんな状態を放置していたなんて、無茶苦茶な時代だと思う。でも、神戸空港も関空もなかったこの時代、伊丹は関西唯一の空の玄関口だった。
試合は、お互いのエースをぶつけ合う注目カード。
事前の予想は投手戦だった。プロ注目の速球派エースが飛鳥台の打線を抑えるだろうと。
――ところが、現実は真逆の展開だった。
中軸を担う俺と打撃特化の三人衆がホームランを打ちまくっていた。
7回表が終わった時点で、すでにチームは6本塁打。
俺が2本、キャプテンの宮内先輩も2本。点差は9-2。圧倒的だった。
俺は本来、ノーコン速球派のピッチャーは苦手だ。どこに来るかわからない球は、読みようがない。
でも、変化球のキレもなく、緩急も効いていない投手の150km/hのストレートなら話は別だ。
彼の変化球はバレバレで、スピードのある直球だけが頼り。その球速が逆に打球速度を上げてくれる。
個人的には非常に打ちやすかった。三人衆も同じ感想を口にしていた。筋トレの成果で、打球の飛距離が格段に伸びている。
球速と筋力の相乗効果で、相手エースはもはやバッティングセンター状態だった。
――まあ、俺ら四人以外はほとんど打てていなかったから、この球速が全く通用していないわけじゃないんだろうけど。
7回裏、ここを無失点で抑えればコールド勝ちが決まるという場面で、俺がマウンドに上がった。
先頭打者は4番、相手チームのエース。
ここまでボコボコに打たれながらも、最後までマウンドを譲らなかった。監督の覚悟か、それともただ何も考えていないだけか。
初球は俺のシンカー。
日本でシンカーと呼ばれるこの球種は、アメリカではチェンジアップと呼ばれることもある。つまり速球との球速差を活かした球だ。
次に投げた125km/hのストレートが、エースの目には豪速球に映ったのだろう。振り遅れた打球はフラフラとセカンドの定位置へ――アウト。
俺は思った。
――このエース、変化球をもっと磨けば化ける。スプリットも似合いそうだ。
そんなことを考えているうちに、試合は終わった。
9-2、播磨商業に7回コールド勝ち。
俺はこの試合、4打席3安打2本塁打だった。
試合後、トイレに向かう途中、通路の隅で相手チームの選手たちが数人かたまっていた。
その中に、塚口リトル時代の同級生・清水の姿があった。
「おーい、清水。」
声をかけると、彼は「久しぶり」と照れ笑いした。
周りの選手たちは、人外を見るような目で俺を見てくる。ちょっと心外だ。
少しだけ近況を交わし、尿意が限界を迎えたので立ち去ろうとしたその時、ふと思い出して言った。
「そうや、君のとこのエース。一回、肘の靭帯、ちゃんと医者に診てもらった方がええと思うで。伝えといて。」
清水は少し驚いたような顔で、「おっ、おう」と答えた。
投手にとって肘の靭帯、特に側副靱帯は消耗品だ。
消耗が進むと、投げるたびに痛みが走り、最終的には物を掴むだけでも激痛になる。
だが、いい投手ほどこの痛みに“慣れて”しまう。そして限界を超えてしまう。
根本的な対策はトミー・ジョン手術しかない。
身体の別の部位にある、あまり使われない腱を移植する大手術だ。
令和の時代なら健康保険適用の一般的な手術だが、この時代では事例も少なく、成功率も高くなかった。
一種の博打だった。だからこそ、この時代の投手は肘を大切にしなければならない。
これで、甲子園出場はほぼ確定だろう。




