第2話 昭和
物心ついた頃から、なんとなく思ってた。
今どき、居間が畳なんて珍しいなって。
でも一度それを母に言ったら、すごく怪訝な顔をされたんで、それ以来二度と口にしてない。
記憶が戻ったのは、草野球を見たときだった。
いつも夕方に散歩に連れていってくれる母が、たまたま少し遠回りしたらしい。
河川敷のグラウンドでやってた草野球を、俺は黙って見つめてた。
いや、動かなかったらしい。
最終的には母が俺を引きずって帰ったとか。重かったろうな。
俺は早生まれでちょっと小さいけど、それでも5分も引っ張るのは大変だったはずだ。悪いことをした。
記憶が戻ってから、世界の違和感がいっそう強まった。
テレビは縦長の古いアナログ型。野球中継では、55本塁打の記録を持つレジェンドが、まだ現役でホームランを量産してる。
昭和だ。間違いない。
俺はたぶん、死んだ。で、生まれ変わった。
でも、それよりも嬉しかったのは――右肩が生きてることだ。
前世じゃどうやっても治らなかった肩が、今は自由自在に回る。投げられる、打てる、走れる。
それだけで、嬉しくてたまらなかった。
俺は筋トレを始めた。
母は最初、「小学生がそんなことしないほうがいいわよ」なんて言ってたけど、毎日のように「俺はプロになる」って語り続けてたら、何も言わなくなった。
筋トレで身長が伸びないとか、成長線が閉じるって話は、今のスポーツ医学じゃ否定されてる。
もちろん、重り使ってガンガンやるのはまだ先だけど、自重トレくらいならやっておくべきだ。
今世の俺の故郷は兵庫県南部の街、尼崎市。
企業城下町で近くに工場が無数にある。空気は凄く汚くて、駅まではちょっと距離がある。
それが我が家だ。
父はもういない。母が言うには、俺が物心つく前に亡くなったらしい。
俺の記憶にも父の姿ははっきりとは残っていない。
ただ、母が語る大阪万博の話の中に、よく父が出てくる。
母と父が手をつないでパビリオンに並んだ話とか、観覧車に乗った話とか。
笑ってた父の顔だけは、ぼんやりと覚えてる。
母は今、父の遺族年金と内職で俺を育ててくれてる。
この街は、勢いがある。どこもかしこも工事中で、建物がどんどん増えてる。
駅前には商店街、銭湯、酒屋、パチンコ屋。道を歩けば、子どもたちの声が飛び交ってる。
活気のある町だ。俺は好きだ。
俺は母に頼んで、リトルリーグに入りたいと伝えた。
そして入団したのが「塚口ブレーブス」。
昭和ど真ん中のチーム名だ。
監督は、これまた昭和ど真ん中の親父さんだった。声がでかくて、髪が七三で、目が鋭い。
「2年生? 早生まれか。ちょっと小さいな。まぁ、1年の差はでかいからな。少年野球じゃ特に」
そう言いながら、俺を見て笑った。
希望ポジションを聞かれて、「セカンド」と答えた。
ピッチャーにも少し未練はあったけど、この時代の投手は扱いが雑すぎる。
連投、完投、登板間隔なし。肩を壊して終わるのが目に見えてる。
俺は怪我しないで、長く野球をしたい。だから、堅実にセカンドを選んだ。
チームは小規模だ。下級生は野手が10人、投手が3人。
監督は俺の守備を見てまずまずできると判断すると声をかけてきた。
「サードの子が熱出してな。悪いけど、週末の試合出てくれんか?」
「……」
「サードできるか? ……あー、無理そうやな。じゃあセカンドの畠山をサードに回すか」
そう言って、俺の返事を待つこともなく去っていった。
「お母さんに伝えといてなー」と手を振って。
まぁ、こういう空気の軽さは嫌いじゃない。
ノックを受けてみた。守備はまずまず。
球を取るのは問題がない。深い打球も飛び込まなくても捕球できる。送球は…、、まぁまだ2年生だ伸び代があるだろう。
打撃練習は参考にならなかった。むしろ、同級生のスイングのほうがずっと興味深かった。
トップの位置が浅くて、力を入れるポイントがずれてる。振り出しが遅れてる。
俺はそれを見ながら、自分のスイングの確認をする。
家に帰ると、母がすでにユニフォームにゼッケンを縫い付けていた。
仕事で針仕事してるだけあって、縫い目が美しい。
晩ご飯を食べて、片付けを手伝って、そして筋トレ。
それから素振り。
俺がやるのはアッパースイングだ。
投球の軌道に沿って、わずかに上向きに振ることで、ミートゾーンを長く取る。
ボールをすくい上げるというより、芯でとらえて角度をつける。
打球速度と打球角度。このふたつをコントロールできれば、ヒットは自然とホームランになる。
現代じゃ常識だったこの理屈も、この時代にはまだ浸透してない。
この打ち方にはスイングスピードが何より大事だ。
俺のスイングはまだ遅い。小学生としては悪くないが、目指す場所を考えれば、もっともっと速くならなきゃいけない。
今日は疲れてる。でもバットは握る。
明日のために、素振りの感触を身体に覚えさせておく。
フォームはまだ定まらない。でも、肩は動く。バットも振れる。
それだけで、今は十分だ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
試合当日、塚口東グラウンドに集まったのは昼過ぎだった。
対戦相手は、近隣から来た下級生中心の野球チーム。実力は――まあ、どんぐりの背比べってやつだ。
うちのチームもリトルリーグに所属してはいるけど、別に近隣で抜けて強いわけでもない。
俺の打順は7番、ポジションはセカンド。初めての打席は、2回裏だった。
我が打線はすっかり沈黙していて、唯一の出塁は3番バッターの当たりだけ。スコアボードにはヒットって記録されてたけど、正直あれはエラーだろう。
2アウトランナーなし。打席が来るまでベンチから相手投手を眺めていた。
プロじゃないんだから当たり前だけど、フォームはひどいもんだ。決め球のカーブは、捕手のリードを読むまでもなくモーションの違いで丸わかりだった。
「とりあえず、この身体に慣れなきゃな」と自分に言い聞かせながら、高めのボールをファウル。次の球は見逃してストライク。まあ、今のはボールだったと思うけど。
その次のカーブは、ストライクとボールの境目くらい。多分ボールだけど、この試合の審判はゾーンが広そうだ。仕方なくファウルで逃げた。
ファウルを重ねていると、相手ベンチからヤジが飛んできた。
振り返ると、叫んだ子が監督に頭をはたかれていた。監督はこっちに帽子を取って会釈してきた。
ピッチャーはだいぶイライラしているようだった。
次の球――高めのストレート。来ると思った。
振り抜いた瞬間、手応えがあった。
「入ったな」
俺はそう確信して、バットをそっと置いた。