第3話 地雷原でタップダンス
「――おい、七海」
突然かけられた隣からの声に、私の心臓は文字通り、喉から飛び出しかけた。「ひゃっ!?」と情けない悲鳴をあげて振り返ると、そこには腕を組んだ赤茶髪のイケメン――黒瀬楓くん(たぶん)が、面白がるような顔で立っていた。
「スタッフがアイドルの練習覗き見か? しかも、よりによって一ノ瀬の」
「ち、違います! これは不可抗力というか、通りかかったら歌声が聞こえて…!」
「ふーん?」
黒瀬くんは、私の胸のネームプレートとレッスン室の中を交互に見て、意地悪く口の端を上げる。その視線がなんかムカつくんですけど!
「感心しないな。ま、あいつの今の歌じゃ、聞いても耳が腐るだけか」
――カチン。
頭の中で、何かがプツンと切れる音がした。
(……は? 耳が腐る、ですって?)
さっきまで、氷河期到来かと思うほど冷え切っていた私の血液が、一気に沸点に達する。確かに迅くんの歌は不安定だった。苦しそうだった。でも、彼の声には、心を揺さぶる何かがあった。それを、こんな風に……!
「そ、そんなことありませんっ!」
気づいたら、私は声を張り上げていた。しまった、スタッフは黒子だって心得に書いてあったのに!
「今の迅くんの歌は、確かにまだ荒削りかもしれないけど、ちゃんと心に響くものがありました! あなたにそんなこと言われる筋合いは――」
「……黒瀬。うるさい」
私の反論を遮るように、地を這うような低い声が響いた。レッスン室の扉が開き、氷のオーラをまとった一ノ瀬迅くん本人が登場。ひえっ、タイミング最悪……!
迅くんは、私とみつきちゃんのことなど存在しないかのように、黒瀬くんだけをキッと睨みつける。
「お、怖っ。聞かれてたか?」黒瀬くんは悪びれもせず肩をすくめる。「別に? 下手な歌が聞こえたから、誰かと思えば」
「何の用だ」
「兄貴の曲、歌うだけ無駄だって、忠告しに来てやったんだよ。お前には荷が重すぎる」
(な……!)
煽る、煽る! この赤茶髪、めちゃくちゃ煽ってくる! 迅くんの眉間のシワが、さらに深くなるのが分かった。やめて! 彼のライフはもうゼロよ!
私の心の叫びが通じるはずもなく、二人の間にはバチバチと火花が散っている(ように見える)。みつきちゃんが私の腕を掴んで「こはる、行こ!」と小声で促す。そうだ、逃げるが勝ちだ。私たちはただのスタッフ研修生。アイドルのケンカに巻き込まれてはいけない。
そう思って、そーっと後ずさりしようとした、その時だった。
黒瀬くんが、追い打ちをかけるように言ったのだ。
「大体、あの曲の一番難しいCメロのファルセット、お前に出せるわけないだろ。あれは天才だった兄貴だからこそ――」
――ダメだ、もう我慢できないっ!!
「違いますっっ!!」
私の声が、やけに静かな廊下に響き渡った。
迅くんと黒瀬くんの視線が、一斉に私に突き刺さる。みつきちゃんが「こはるぅぅ!?」と悲鳴に近い声を上げている。
でも、もう止まれなかった。私の内に眠る(眠ってない)ガチオタ解析エンジンが、フルスロットルで稼働を開始してしまったのだ!
「あの曲の肝はCメロのファルセットの高音だけじゃありません! 一番重要なのは、その直前のブレス! 一ノ瀬葵さまは、そこで意識的に息継ぎのタイミングをコンマ5秒ずらすことで、切なさのグラデーションと感情の機微を表現されていたんです! あれは技術だけじゃなくて、葵さまならではの繊細な感性があって初めて……あっ」
やばい。
めちゃくちゃ早口で、しかも超具体的なオタク知識を、ご本人の弟の前で披露してしまった。
しーーーーーん……。
廊下に、気まずい沈黙が落ちる。冷や汗が背中を伝うのが分かった。
黒瀬くんが、目を丸くして私を見ている。みつきちゃんは、顔面蒼白で「終わった…」と口パクしている。
そして――
一ノ瀬迅くんが、ゆっくりと、本当にゆっくりと、私の方に向き直った。
そのアイスブルーの瞳が、危険な光を帯びて細められる。
「……お前」
低い、静かな声。だが、その声には、絶対零度の怒りが含まれていた。
「さっきも言ってたな。兄貴のこと」
「え……あ、いや、それは…」
「あの時の変な鼻歌。カバンから見えたバッジ。……そして、今の、異常すぎる詳しさ」
一歩、また一歩と、迅くんが私に近づいてくる。私は後ずさることしかできない。壁際に追い詰められる。
「やっぱり、お前、兄貴の――ファン、なんだろ」
断定するような口調。それは質問じゃなかった。
「ち、違っ…! ファンというか、その、昔、ちょっとだけ、リスペクト、みたいな…!?」
「“葵さま”?」
私の口癖を、彼は聞き逃さなかった。
ああ、もうダメだ。墓穴掘ったどころじゃない。地雷原のど真ん中で、タップダンスを踊ってしまった。
迅くんは、私の目の前で立ち止まると、心の底から軽蔑するような、冷え切った声で言い放った。
「二度と俺を見るな」
「え……」
「兄貴のファンだって目で。……反吐が出る」
その言葉は、鋭い氷の刃のように、私の胸に突き刺さった。
彼は、それだけ言うと、私に背を向け、足早に廊下の向こうへと去っていった。
残されたのは、呆然と立ち尽くす私とみつきちゃん、そして……なぜか少しだけ面白そうな顔をしている黒瀬くん。
「へえ……。お前、葵さんのオタクだったんだ。ウケる」
黒瀬くんは、そんなことを言い残して、彼もまた反対方向へと歩き去っていった。
「………………」
私は、その場にへなへなと崩れ落ちた。
「こはるっ! 大丈夫!?」
「……終わった……」
「え?」
「完全に終わった……私のスタッフ人生も、人としての尊厳も……。推しの弟に『反吐が出る』って言われた……もう、私、生きていけない……」
床に突っ伏して、私は本気で泣きそうになっていた。これから毎日、この寮で、彼と顔を合わせるかもしれないのに。
一体、どうすればいいの――!?