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お母さん、ありがとう

作者: 浅倉灯

 母親は偉大だ。何をしていても見透かしたようなことを言ってくる。しかもそれが実際に的を射ているのだから不思議なものだ。そして、その中には愛が包み隠されている。恋人と育む愛とも、好きな俳優を見て感じる愛とも違う、母親という属性からしか与えられない愛である。お母さん、私は愛を与えられる母親になれているのかな。与えられた愛を無駄にはしていないかな。眩暈がしそうな夏の陽気の下で、瑠香は墓に花を手向け、思う。


 三十年前の夏は、まだ涼しかった。猛暑日になればニュースになったし、髪を下ろしていても首に垂れる汗に不快感はなかった。最後の夏休み前の最後の登校日、瑠香は悩んでいた。

担任から進路希望調査の紙を早く出すように、と言われていた。仲のいい友人たちは、みなとっくに進路を決めていた。しかし、決まっていないものは仕方がない。投げやりに進学希望に〇をつけ志望校を空白にしたまま、教室を後にした。晴れ渡る空が目いっぱいに広がる中、その下にいる瑠香の心は曇ったままだ。方面の違う友人たちに別れを告げ、真っ直ぐ誰もいない家に帰る。

 父は、瑠香が小学校三年生の時に家を出ていった。もともと喧嘩の多い両親であった。幼いために気付いていなかったが、思い返せば父が他の女といる姿を頻繁に見ていたし、喧嘩の原因は不倫だろう。当時は悲しかったが、由美が悲しむことが無くなると考えると、涙は流れなかった。由美との二人暮らしは、楽しかった。正社員として働いているため、あまり家で一緒にすごすことはなかったが、それでも数少ない休日は買い物に行ったり、料理をしたりと思い出もある。しかし、瑠香が高校生になってからの思い出は記憶にない。由美が仕事で忙しくなったことと、瑠香の遅れた反抗期が来たことが重なったからだ。

 誰もいない家に帰り、テレビをつける。静寂の中に、テレビの笑い声だけが響く。一人でいるには広すぎる空間を持て余しながら、雑誌に目を通す。流行の服を着たモデルたちが紙面を通して輝きを放っている。明るく、楽しそうな印象が瑠香には羨ましく思えた。

 瑠香の悩みは、進学先についてである。輝きを放っている東京の大学に強い憧れがあった。しかし、今住んでいるのは東京からは遠く離れた地方である。とても実家からは通えない。しかし、由美は進学するなら地元の大学にするようにと言うのだ。瑠香は奨学金などの説明もしたが、由美の許しを得ることはできなかった。結局志望校も定まらないまま、高校三年の夏を迎えた。由美の言うことに納得できない気持ちと焦りとを抱え、雑にカップ麺をすする。


「三者面談の日程なんだけど」

 瑠香は帰宅した由美に向けて切り出した。

「土曜日なら空いてるかって先生が」

 由美はコンビニで買った弁当をかきこみながら、

「いいけど、あなた進路希望出したの」

「まだ東京諦めてないから」

 仕事終わりでストレスが溜まっている部分もあるのだろう。それを仕事と関係のない瑠香の前では隠そうとした。だが、瑠香もそこまで鈍くはない。ため息から由美のいら立ちを感じる。言葉の抑揚からもそれが読み取れた。

「何度も言うけど、女の子を一人暮らしさせるのは危ないし、お金もないのよ」

「治安のいいところ選ぶし、奨学金だってある」

「そうはいっても治安いいところでもトラブルはあるし、奨学金だって簡単に借りられるわけじゃないのよ」

 いつもならこの辺りで有耶無耶になっていた。しかし、時期から来る焦りか、この日は一歩踏み込んでしまった。この言葉を言ってしまったことを、瑠香は一生後悔する。

「いつまでも子ども扱いしないでよ。大体お金がないのだってお母さんがお父さんと離婚したせいじゃん」

 由美はひどく悲しそうな顔をして、

「そんな言い方ないじゃない。私はあなたのためを思って…」

「その恩着せがましい言い方嫌い。やめて」

 苛立ちから、家を飛び出した。苛立ちがエネルギーとなり、足が勝手に全力で動いていた。くたびれて家に帰る会社員や夜遊びしている中高生を抜き去り、気付けば隣町の港まで来ていた。夏の夜は昼間よりも涼しいが、それでも汗が全身に滲み、身体がほてっている。海を見ていると悩みがちっぽけになる、なんて言うことがあるが、この時の瑠香にはそんな感情は湧かなかった。ただ、冷たい波風と時間は苛立ちを鎮めるには十分で、海を眺めているとだんだん落ち着いてきた。家を飛び出したことと言いすぎたことは良くなかった。帰ってもう一回話し合おう。そう決めて立ち上がったら、靴紐がほどけていることに気付いた。


 お母さんが交通事故で亡くなった。この事実を受け止めきるには、高校生には荷が重かった。家を飛び出した私を追いかけた途中でというのは、できれば知りたくなかった。そんなの、私が殺したようなものじゃないか。虚ろと化した瑠香は、近所に住んでいた祖父母の支援を受け、何とか高校を卒業し、フリーターとして地元近郊で働いた。東京を見ても輝きを感じることはなくなり、大学にも興味はなくなった。ただひたすらに同じことをして家に帰ってを繰り返す空っぽの生活を送った。なんの前進も後退もない、味のない人生だった。

 こんな面白みのない人生、いっそ終わらせようと自殺を考えたこともあった。しかし、いざ道具を目の前にすると、失敗した場合に残る痛みに恐怖し、行動に移すことはできなかった。そして、死ぬという決断すらできない自分の不甲斐なさに心底絶望した。


 塞ぎ込んだ暗闇を明るく照らしてくれたのは、優喜さんだった。コンビニでの人間関係に嫌気がさして、二度目の転職をしたショッピングモールに優喜さんはいた。慣れない業務と忙しい毎日に憔悴しきった私に対して優喜さんは取り繕った慰めをせず、ただ側にいてくれた。私はその包み込む雰囲気が好きだった。居心地が良かった。この人なら自分の過去すらも包んでくれるのではないか。そう思った頃には、すでに心を奪われていた。こちらからアプローチし、交際関係、一年ほどして結婚と人生がトントン拍子に進んでいった。これまでの人生との変わりように、運命を感じざるを得なかった。


「出会った時は、本当にびっくりしたよ 」

 食卓を挟んで向かいに座る優喜さんは、出会いを思い出すたびにそう言っていた。

「このまま溶けて無くなっちゃうんじゃないかと本気で思ったんだ」

「そんな私を守ってくれてありがとう」

 こんな会話を何度したことだろうか。それほど思い出を大切にしていると考えれば、夫婦関係は良好であることが伝わるだろう。優喜さんは本当に穏やかな人だ。私が悪いであろうことも自分に非があった、と丸く収めてくれる。大きな喧嘩をすることもなく、ここまでやってきた。

 三十歳という節目の年に、新たな家族ができた。唯依は、生まれた時からよく笑いよく泣く子で、幼いころの私にそっくりであった。唯依を見ていると、もういない由美との楽しい思い出が蘇り、嬉しさと同時に忘れかけていた罪悪感も思い出した。

 唯依は幼稚園、学校であったことを楽しそうに話すし、時には泣きながら帰ってくることもある、感情をよく表に出す子だった。時には喧嘩して代わりに私が謝りに行くこともあった。そんな娘の一挙手一投足に私と優喜さんは成長を感じ喜んだ。二分の一成人式では、サプライズで唯依が手紙を読んでくれた。私と優喜さんは大号泣して、唯依もちょっと引いていたくらいだ。しかし、娘に感謝を伝えられて喜ばない親などいないだろう。泣いていない親の方がおかしい。

 そして、この時からだろう。私は親への感謝を伝えていないことに気付き、それが心を締め付けた。親と言っても、どうしようもない父に対する感謝は特にない。この感謝の宛先は母だ。時には後悔が頭をめぐり、何も手につかないこともあった。そのたびに優喜さんが優しく、抱きしめてくれた。しかし、気はまぎれるものの、根本的な解決には至っていないため、思い出せばまた苦しくなる、そんな循環に陥って何年も悩まされた。

悩みの種は消えないまま、唯依の反抗期が来た。中学生あたりのことだったので、自分よりは少し早かった。それが、自分とは違う人生を歩み始めていることを感じさせ、親離れに悲しくなった。成長を素直に喜ぶことができなかった。

家庭での会話は減り、リビングから自室にこもることが多くなった。今まではよく見ていた笑顔も、徐々に見る機会が減っていき、成長した唯依の笑顔を思い出すことができなくなっていった。それでも、母として唯依のためにできる限りのことはやったつもりだ。朝練の前には早起きして朝食をつくり、部活で帰りが遅くなっても温かい夕飯を出して労った。いってらっしゃいとおかえりも必ず言った。そんな思いが伝わったか、高校に入ったころには幼いころほどではないものの、笑顔を見せるようにはなった。反抗期を乗り越えた。こうして大きな壁を乗り越えた、と思っていた。


 やはり娘は私の道に戻ってきた。歩んでほしくない私の道に。高校三年生の夏、娘が東京の大学に行きたいと言い出した。我が家は決して余裕のある家計ではない。そして、何より娘を一人暮らしさせるというのは心配だ。今になって母の気持ちが痛いほどに理解できた。厳しさやら心配やらの溢れんばかりの感情が頭を駆け巡る。母も辛かっただろうなと思ったが、私は私が言われたことと同じことを説明した。それはやはり同じように返され、決着がつかなくなる。結局有耶無耶にして終るのだが、このまま先延ばしにするわけにもいかない。

「唯依を一人暮らしさせるわけにはいかない。最近の東京は治安も悪いでしょ」

「そんなのこの辺だって一緒じゃん。こないだも強盗やらなにやらあったよ」

「でも目の届く範囲に住んでいるかは大きく違うじゃない」

 私は言い返す。口にはしないけれど大人の事情、金銭面での問題があることを唯依の方もわかっている。それでも、やはり娘には理解してもらえなかった。

「じゃあもういいよ、よその子に生まれればよかった」

 そういって家を飛び出していった。危ない。こんな夜中に。たるみ切った足を懸命に動かして、気付けば後を追いかけていた。その時、母の最期の姿、家出をする直前の悲しそうな表情を思い出した。お母さん、ごめんね。こんな気持ちになるなんて思ってなかった。

「瑠香!」

 交差点を駆け抜けようとする直前、大きな声で叫ばれ、声の方向を見ると優喜さんがいた。立ち止まった目の前を車が突っ切っていく。危なかった。

「大丈夫?どうしたの。そんな全力で」

 私は喧嘩して唯依が家を出たと伝えると、びっくりした表情をしたが、優喜さんは深呼吸しようか、と言った。言われるままに深呼吸し、身体に酸素がめぐるのを感じる。

「大丈夫、今回は僕がいるんだ。みんな守ってみせるよ」

 そう優しい口調で、かつ自分自身に言い聞かせるように言った。

「帰ったら、まずは甘いものを食べよう。ケーキ買ってきたんだ。じゃ僕はこっちを探してみるね」

 手に持ったケーキを見せ、それから住宅街の奥へと走っていった。走っていく優喜さんの背中が大きく見えた。そうだ、大丈夫。私には優喜さんがいる。冷静さを取り戻し、唯依の行きそうなところを考える。唯依は私に似ている。そう考えると、向かう場所は一つしかなかった。


 海をぼんやり眺める唯依を後ろから抱きしめると、自然と涙が流れてきた。

「ごめんね、唯依、ごめんね…」

「ママ、あたしこそひどいこと言ってごめんね」

 表情は見えなかったが、そう言う唯依の声は震えていた。謝れる子になったんだね。成長したんだね。そう伝えるとママとパパのおかげだよ、ありがとう、と返ってきた。さらに大粒の涙がこぼれてきた。この子はもう立派な大人だ。帰ったらそれ、パパにも伝えてあげてね。


 結局、唯依は実家から通える地方都市の大学に進学することになった。東京ほどの輝きはないが、日ごろの生活を見た感じは人生を楽しく過ごせていると思う。幼少期くらいよく笑うようになったから、母としてはやはり嬉しい。そんな大学生活もあっという間に終わり、卒業間近というところに、唯依の恋人があいさつにやってきた。優喜は一瞬複雑そうな表情を見せたが、それでも「唯依が選んだ人だから」と固い握手を交わした。


 あっという間に唯依が家を出る日が来た。唯依は「すぐに会える距離だから」と強がっていたが、その目が滲んでいることに気付かないほど、母の目は節穴じゃないよ。私と優喜さんはいっぱいの涙を流しながら、それでも笑顔で見送った。

「あの子ならきっと大丈夫よね」

 自分に言い聞かせるようにつぶやくと、

「瑠香と僕が見てきたんだ。大丈夫だよ」

と、優しく背中をさすってくれた。この人のこういう温かさが素敵なんだよな、と結婚して二十年以上たった今でも変わらない姿を愛しく思う。


 お母さん、今じゃお母さんより年上だよ。私は母親として上手くやれたのかな。お母さんに教わったこと、教わるはずだったこと、唯依に伝えられたと思うよ。これが正しかったのかはわからないけど、間違っていたこともあるかもしれないけど、それでも一生懸命に育て切ったよ。愛を注ぎ切ったよ。お母さんのおかげだよ。ありがとう。

 たんぽぽの綿毛が風に吹かれ、飛んでいく。このたんぽぽも隣町まで、飛んでいくのか。次は、唯依のもとに綺麗な花が咲くといいな。


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