中編 曇天と涙
時は夕暮れ。太陽は西に傾き、オレンジ色の柔らかな光が街路樹や建物を照らす。風が吹く度に、木々が囁くように揺れ、ザワザワと葉擦れ音がした。
天野 恵は友坂 悠と帰路を共にしていた。そろそろ冬も本番になろうかという時期。冷たい空気が二人の空間を覆っている。
二人は言葉を発することなく、沈黙に身を任せていた。遠くからは車の走行音や、子供達が遊んでいる声が静かに響き、町は賑やかな喧噪に包まれている。
天野は、ちらりと友坂の方を横目で見やる。お洒落などとは無縁の立ち振る舞い。自然体に伸びた髪の隙間から柔らかな顔つきを覗かせる。素朴な雰囲気を漂わせる彼の存在に、天野はどこか安心感を抱いていた。
彼の横顔を盗み見ながら、過去の記憶に思いを馳せていた。
――
私が10歳になろうか、という年頃の話。4歳年下、つまりその時点で6歳になる弟がいる。
夏のある日のこと。
私達は両親と共に河原へキャンプへ行く予定であり、夏休み中の一大イベントということもあり、前日には楽しみでなかなか寝付けなかった。。
そのせいか十分に眠ることが出来なかった。河原へ車で移動する最中、弟と共に車の振動を揺りかごに後部座席でぐっすりと眠っていた。眠っている最中目的地に到着したようで、私と弟は両親に着いたよ、と起こされ、いそいそと車から足を降ろした。
私はこの時、辺り一面に広がる、緑の世界に心を奪われたのを覚えている。
爽やかな風が吹き抜ける度、草木は心地の良いハーモニーを奏で、彼らを日差しと言う名のスポットライトが照らす。まるで、広大な自然で奏でられるオーケストラのような光景に、私はとても心が躍っていた。
その景色を見ている後ろで、あ、友坂さんこんにちは、とどこかで聞いた名字を呼ぶ母の声がした。声がした方向を振り返ると、母はどうやら近い年の女性と話しているようだ。散歩をしている時に挨拶をされた記憶があるが、正直その人が誰か、までは把握していなかった。
女性の足元に、私と似たような年頃の男の子が居るのが見える。どこか気まずそうな表情で、忙しなく二人の女性を見たりしていたのを覚えている。
その時の子供が、友坂 悠だった。しかし、その時の私は目の前の遊びに夢中でほとんど興味を持たなかった。
特に何が楽しかったか、といざ問われると何もかもが楽しかった、としか私は答えることが出来ないだろう。そのような感想しか思い浮かばないほどに、私の心は弾んでいた。
河原でバーベキューに勤しみ、宴もたけなわ、ということで片付けを行っていたときのことだ。川の側で遊んでいた弟が突然、川底の窪みに足を滑らせてしまい溺れてしまったのだ。それがあまりにも静かに、突然に生じたものだから私以外の人達は誰も気がつかず、私だけがその突然の出来事を認識している状態だった。
大人に助けを求めないといけない、だが、今溺れかけている弟はどうすれば良いのか。自身も葛藤の狭間に悩まされている。そんな中、走り出した子供が居た。友坂悠だ。
彼は全くためらうことなく、冷静に状況を判断して行動に移った。まず、彼は溺れかけている弟を助けるために、着ていた衣類を脱ぎ、その上着を弟の手に向けて放り投げた。弟は一瞬戸惑いつつも、慌てずにしっかりと上着を受け止めた。
その後、友坂悠は自らも急いで河原の際に近づき、溺れかけている弟の手を掴んだ。彼は弟をしっかりと岸に引き寄せると同時に、「大丈夫だからね」と弟を安心させるための声かけも忘れなかった。
あの時、彼がいなければ弟は、そして私はどうなっていただろうか。その日から、私は彼に興味を持ち始めた。
――
「……なに?」
友坂は困惑した表情を見た天野は、微笑みを浮かべながら「なんでもないよ」と言った。そして、正面を向きわざとらしく足を前に振りながら歩みを進める。彼は首をかしげながら、最終的には正面を向いて歩き出すのだった。
冷たく刺すような風が、二人の間を突き抜けていた。
まもなく、冬も本番だ。
☆
「それでは、本日の授業を終わります」
教師が締めくくりの言葉を述べる。その後、生徒が部活や放課後の遊びの相談など、それぞれ移動を始めていた。
天野は、友坂に授業の内容を確認しようと声を掛けようとするが、既に誰かに声を掛けられているようだった。それは、彼と同じ文芸部の後輩の女の子だった。
快活そうな少女は、友坂に親しげに話しかけており、彼自身もあまり満更でもないような表情をしている。
その姿を見て天野は、露骨に表情を歪める。恋人でもないのに、と頭の片隅では理解していた。しかし、迸る歪んだ筋違いな感情は収まることを知らなかった。
まるで仮面のように貼り付けた笑顔を作りながら天野は友坂に話しかける。
「今日は時間ある?」と天野が尋ねると、彼は申し訳なさそうに「部活があるから」と答えた。彼の後輩である少女は、戸惑った表情で友坂を見つめている。
天野は更に質問を詰め、「部活って何時くらいに終わりそう?」と尋ねる。しかし、友坂はますます困った顔をして目を逸らした。その瞬間、後輩の少女が天野に向かって「友坂先輩が困ってるじゃないですか。止めてください」と責めるよう表情で天野の方を見る。
そのまるで敵を見るかのような表情に、天野は何も言い返すことは出来なかった。彼女は踵を返しその場を後にする。後ろで「先輩、行きましょう」という後輩の少女の声だけがしていた。
天野は歩みを進め、無言で廊下を歩き続けた。
彼女は何か目的地を目指して歩いていたわけではない。ただ何もせずに居ると、頭の中に湧き上がる醜い思考に囚われてしまいそうだったからだ。だからこそ、彼女は無意識に足を進め、ただ歩き続けることでその深く暗い沼地のような思索から逃れようとしていたのだ。
冬という季節柄、日が暮れるのが早い。廊下は淡く明るく照らされ、時折通り過ぎる人影が床に揺れる。その影に視線を向けつつどこか遠くを見つめるような表情で、彼女はただ歩き続けた。
すれ違う人々がぎょっとした顔をして、彼女を避けるように動いていた。天野自身はなぜ皆がそう私を避けるのかを理解できなかったが、今だけは都合が良かった。彼女は静かに校庭を抜け、別棟に建てられた食堂へと入った。
少し前に勉強会をした席に腰掛ける。ふと前を見ると、友坂が授業の内容を解説してくれている光景が見える。しかし、それは現実の出来事ではなく、天野が生み出した妄想の中の光景であった。
徐々に妄想の光景は、元の現実の光景に統合される。気がつけば目の前には妄想の中の友坂は居らず、誰も座るものの居ない椅子だけがそこには佇んでいる。
天野はふと、頬に生暖かいものが流れていることに気付く。人差し指で頬を撫でると、湿った感覚が指先に伝わる。それが涙だと天野が自覚した瞬間、彼女の心は止めどない感情の奔流に呑まれていた。
悲しさと、切なさと、心苦しさと、青い、苦い、熱い感情が複雑に、顕著に彼女の中で絡み合う。その感情は抑えきれず、涙として現れ始めたのだ。
彼女が涙を拭う度、止めどなくそれは溢れ出す。自身の心の奥深くで渦巻く感情が抑えきれず、もはやどうすることも出来なかった。
私が先に友坂くんを見ていたのに。私が先に一緒に居たのに。
己の醜い独占欲が徐々に零れ始めた。なんで、なんで、なんで――。
――私って、こんなに汚い女だったっけ――。
冷たい雨が、今日は降りしきる。冬だからこそ、冷たい雨は身体により染みるのだ。
続く
文学的な文章を目指したい。頑張る〔 'ω' 〕