初編 雨雲と涙
企画投稿用です。
「……は、……である。はい、では。ここから先を、君。友坂君、読んでください」
友坂君、と指名された男子高校生は嫌がることもなく、はい、と素直に立ち上がり音読を始める。その声は、周りに自分の声を聞かれたくない、という思いを感じさせる小さな声だった。
その少年の音読に教師は露骨に嫌そうな顔をする。もう少し大きな声でお願いします、と声を掛けるとその男子はやや不快そうな顔をしながら声量を上げた。
静寂の教室の中にその少年の音読する声だけが響き渡る。教室の中では、昼食後の授業で眠たげな様子をしている者、内職をしている者、真面目にノートを取っている者など多種多様だ。
少年が指定された箇所まで読み終わると、教師はよろしい、と頷き友坂 悠に着席するように促した。
彼ははい、と返事した後静かに椅子を動かし、着席する。
そして、再び教室内には、ノートにペンを滑らせる音をベースとし、教師の声をボーカルとするセッションが開始された。
☆
「はい、それでは本日のホームルームを終わります。気をつけて帰ってくださいね」
担当教師がそういうと、教室内の生徒達は各々疲れたー、とか帰りカラオケ行こうぜ、などと好き好きに話しながら教室を後にする。
中には学生服の中に体操服を着込んでおり、そのまま部活へと一直線に向かっていく人も居るようだが、僕にとっては関係の無いことだ。
手提げ式の学校指定の鞄を肩に掛け、教室を後にしようとすると、後ろから声が聞こえた。
「友坂君、もう帰るの?」
振り向かずとも誰が僕を呼んでいるのかは分かっていた。だが、答え合わせもせずに言葉を返すわけにも行かず、渋々僕は後ろを振り向く。
そこには、黒髪をおさげにまとめ上げた女子生徒がいた。幼なじみ贔屓をせずとも、客観的に見ても綺麗だと感じる端整な顔立ちをしている。
「どうしたの、天野さん?」
天野 恵は僕が小・中・高と同じ学校に通っている、近い言葉で説明するなら幼なじみだ。住んでいる家も近いが、さほど仲が良いかというとそうでもない。
天野は申し訳なさそうな顔をして眉をひそめる。その姿さえドラマのワンシーンのようで様になっているなあ、と心の片隅で感じていた。
「授業で分からないところがあったから、教えて欲しいんだけど……」
やはりそう言ってくるとは思っていた。彼女は容姿端麗・文武両道と周りの視線を欲しいものとしていたが、どこか完璧主義なところがある。授業で少しでも分からないところがあれば、こうして帰ってから勉強しかすることに能が無い自分に教えを請うのだった。
他人から――特に、天野のような美人から頼られることは嬉しくないと言えば嘘になる。だが、そんな自分をどこか認めたくなくて、ぶっきらぼうに言葉を返す。
「……友達に教えてもらえば?」
そう返すと彼女は泣きそうな顔をした。そんなこと言わなくても、と涙目で返されては僕の立つ瀬が無い。周りからあーあ、友坂が天野を泣かせた、女の敵、という言葉が耳に入り……僕はその空気感に耐えることは出来なかった。
「わ、わかった、それじゃあ食堂でいい?」場所を提案すると、天野は静かにこくりと頷く。
それでも周りの冷たい目線は収まらず、僕はその場の空気に耐えきれなかった。荷物を纏め、いそいそと教室を後にせざるを得なかった。
廊下を小走りで走り抜け、別棟にある食堂に足を運ぶ。ここは放課後も自由に開放されており、部活動などで自動販売機を利用したい学生達が各々やってくる。
昼休憩の時間では、学食に来る生徒が大半で座るところを探すのがやっとなのだが、放課後ともなるとそういう者達はおらず、スポーツ部の学生が飲み物を買いにくるか、学生の雑談場として使われる為の場所と化していた。
天野を待ち、教科書、ノートを広げる。そろそろ新しい付箋とペンを買わないとな、そんなことを考えながら待っていると、ローファーがアスファルトの地面を叩く時の独特な乾いた足音が聞こえた。
「待った?はい、これ授業料」
天野が両手にジュースを持ってやってきた。彼女に勉強を教えるのは今に始まったことではなく、何度もやっていることだ。ただ教えてもらうのは申し訳ないと思うのか、毎回律儀にジュースを奢ってくれる。最初は申し訳ないと思っていたが、天野はどうしても、と言って聞かなかったので仕方なく、比較的好みのジュースで或るコーラを買ってもらう、という条件で合意している。
見慣れたロゴであるコーラを僕の右手辺りの位置に置いた。彼女は彼女で自分用に買ったであろう緑茶を、自身の前に置いている。次はお茶を買ってみるのもいいな、となんとなく思った。
「じゃあ、始めよっか。……どこが分からなかったの?」
そう彼女の目を見て問いかけると、彼女は一瞬強ばった顔をした後、ふいっと目線を逸らしながら答える。えっとね、ここが分からなくて、と教科書の一点を指さしていた。そこは、国語の授業の心情描写を描いた問題だった。
確かに、ある程度本を読んでいればわかりやすいかも知れないが、そうでなければイメージすることも難しい内容だろう。
「なんで、悲しみを表現するのに雨が関係するの?」
天野は不思議そうに首をかしげた。なるほどなあ、と僕は自分の考えを述べることにした。
「天野さんは、悲しくて泣くことってある?」この質問をした後で、さっき涙目になっていた彼女の姿が脳裏を過ったが、その思考に知らんぷりをして彼女の目を見つめる。
彼女はまん丸な目をぱちくりさせた後、少し目をそらして、ある。と答えた。その様子に違和感を感じたが、それに気付かないふりをして言葉を続けることにした。
「雨って言うのは、空から降り注ぐ水滴のことでしょ、雨が降る理屈は分かるよね?」
「えっと、水蒸気が上昇気流に乗って……」と彼女が記憶を辿りながら答えようとしたところで、分かってるなら大丈夫、と彼女の言葉を遮る。
「雨って雲から降り注ぐものでしょ?その雲から雨が降る様子と、目から涙が零れる様子を連想させたものだと思うんだ」
「えっと、つまり、雨雲から、目から涙が出る姿を連想する。そして、涙が出るのは悲しい気持ちになっているから、という連想なんだね」
さすが成績優秀というだけはあるようで、僕の言いたかった言葉を要約する。僕はうん、と頷き言葉を続ける。
「その他にも、雨は涙を隠すからなんじゃないのかな、とは思うかな」
涙を隠す?、と彼女は明らかに「?」の顔をして首をかしげた。そして顎に手を当て、うーん、と唸った後で「確かに、雨が降ってたら泣いてるかどうか分からないもんね」と自分の意見を言う。
彼女の考えは概ね、ぼくが今言おうとした言葉と同じ答えだった。なんとなく悔しい気持ちはあるが、否定する理由もないので黙って素直に頷いた。
とりあえず、彼女の分からなかった問題〔問1.〕は解決したようだ。他に分からなかったことはある?と僕が催促すると、彼女は次から次へと分からない問題を提示していく。
天野が分からなかったところを一つ一つ解決している内に、気がつけば5時を過ぎようとしていた。
時刻は夕暮れ。僕と彼女の陰が気がつけば壁際にまで伸びきっていた。チャイムの音が校内に鳴り響く。
部活動生のかけ声と、吹奏楽部が練習している音だけが学校中に流れている。
その音を環境音として聞きながら、ペットボトルに口を付けるが、中身が既に空っぽになっていることに気がついた。そろそろ、時間も潮時のようだ。
「他に分からないことはある?」そう問いかけると天野はふるふると首を横に振った。
それじゃあ、帰るよ、と教科書を片付け、一足先に食堂を後にしようとすると彼女に服の裾を掴まれる。
どきり、と鼓動が大きくなる気がした。女子からのこういう行動には、僕でなくても弱いものだろう、と誰にでもなく言い訳を考えながら彼女の方を見る。
天野はどう言葉を紡ぐべきか、と考えているようだった。口を開こうとして、閉じて、また開いて、閉じて、と繰り返す。
自惚れでなければ、彼女の言いたいことは分かるかも知れない。間違っていたら恥ずかしいな、と思いつつ、おずおずと尋ねるように問いかける。
「……一緒に、帰る?」
「……うん」
彼女は顔を真っ赤にしながら頷いた。その様子に気がつけば鼓動が早くなっていた。顔も熱くなっている気がする、風邪かな、あはは……。
続く