きゅうけつきさん⑧-野外生活適正ゼロ
――その腕から、血が落ちる。
傷口から血が落ちる。
血を全て舐めてしまおう、地面に血が落ちてしまう前に。
一滴さえも無駄にはしたくない、細部まで――わしのものだ。
と、そんなことを、吸血の最中に思ってしまった。
「――――――」
綾がこちらを見ている。
その顔は――恥ずかしそうで、なんだか――
…………いや、今は――やめておこう。
これ以上は、考えないでおこう。
「――すまんな、ありがとう。……」
綾は傷口に絆創膏を貼り付けて、ブラウスの袖を下ろした。
「ま、いいですよ。それで、きゅうけつきさん。」
それで、と言うので、わしは謝礼のことかと考えた。
わしは綾に何も返せていない、情けをかけまくられている。
まあほんとに、情けない。
始祖たるものがなんたる様だろう。
「……あー……昨日も、今日もすまんな、礼もできなくて……」
「いいや、そのことじゃないです」
「――?」
綾はそれを否定する。
なんの用件であろうか?
「……まさか、わし、其方らにとって何か、無礼を働いていたか――――?」
「いいや、違います。」
綾ははっきりと、そう否定する。
「そんなに怯えないで、きゅうけつきさん?――と言うか、そんな人に綾は血を分けないわよ」
そうやってはっきりと、香登が言う。
「そうです。ですです。」
「なら、良いのだが……」
そして、その用件とは、わしが全く予想しなかったことだった。
「きゅうけつきさんって、やっぱり定住しているところ――とどのつまり、家がないんですよね?」
「そーじゃな、最近はもっぱら河川敷の下で雨風を凌いどるよ。」
「吸血させてくれる人間の目処は立ってるんですか?」
「……まあ、綾と――昨日言ったひとり、だけじゃな」
「じゃあ――」
綾は切り出した。
「――きゅうけつきさん、一緒にここで住みませんか?」
「な――――――」
――わしの聞き間違い……だろうか?
「聞き間違いかの?わしも歳を重ねたのう……」
「貴女……身体は実質的には少女みたいなものでしょう。」
突っ込まれ、わしはたしかにそうだと相槌をつい打った。
「……いやしかし、香登は良いのか?」
視線を香登へと移す。香登は特に動揺もしていなかった。
「私は構わないわよ〜?むしろ、賑やかになるし歓迎するわ」
「ね、森さんがこう言うんですし、一緒に住みましょう、きゅうけつきさん。ここなら東京で一番安全ですし、私が血を定期的に分けられますから」
綾はこう、誘ってくれている。が、しかし。
わしは綾に施しを受けるばかりで、なんの返礼もできていない。これ以上迷惑をかけることも――あまりしたくはない。
「…………いや、わしは大丈夫じゃ。これ以上迷惑をかけるのも――」
「あ、ゴキブリ」
「――――――!?どこじゃどこじゃ!?」
思わずわしは、そばにいた綾の腕にしがみついた。
「……あ、すいません。ただの黒っぽい紙切れでした。」
「おーどーかーすーなー!!!」
「虫、駄目なんじゃない。今は冬だけれど――夏は虫地獄でしょ?河川敷なんて」
「森さんの言う通りじゃないですか。室内だとそんな心配は――少ないですよね?」
「ぐ――っ!!」
た、確かに、そうだ。
香登の全くもって否定できない言葉に一歩後退する。
……わしは虫がまるきり駄目。
その点で、屋内に住めるというのは――!!
「し、しかしじゃ!そんなのはわしの都合で――!!」
と、言ったら。綾の呆れるような表情がわしに降り注いだ。
な、なんだあその顔は。
「――頑固ですね……本当に頑固です。仕方ない……最終手段です」
「な……なんだ。」
思わず……その気迫にたじろいでしまった。
「――私が貴女を助けた分働いて下さい!そう、ここで!そして勿論住み込みで!」
「Gu………………!!!」
そう言われると――何もわしは返せない。
何度も助けた恩を、働いて返せと言われたのだ、もう何だって反論のしようがないのである。
「……しかし…だな……………………」
しかし、大分気を…使われてはいないか。
「きゅうけつきさんは恩も返せないぐずぐず吸血鬼なんですか?其れともただのわがままロリっこなんですか?」
綾はこちらをじっと見つめる。
「…………………………………」
「………………………どうなんです」
しかし変わった人間だ。
こんな吸血鬼ひとりに、馬鹿節介なほど情けをかけるとは。
――負けた。私の、完全な敗北だ。
「分かった…ならばこそ、始祖の名誉にかけてお前に…一生分の恩を返してやる。覚悟しておけ、馬鹿節介女。あとロリっこは余計だ!」
それを聞けば綾はゆっくりと、その仏頂面からの笑顔の表情で口を開く。
この女…綾とは出会って間もない。
しかし、人よりも感情表情がへたくそだということだけは分かる。あまりに…あまりに笑わないこの女の、にこやかな顔を見るのはこれでも数えるほど。
しかも、それは綾がわしに対して何か、役に立つことをしてやることができた時、だけ。
その時だけ、この女は笑顔を浮かべるのだ。
「良かった。よろしくお願いしますね、これから。……そして馬鹿は余計です、きゅうけつきさん」
だから、もっと、自分で笑えるような人間にしてやろう。
あなた、笑えないの?
この耳にいまだ残っているその声を、そのいつかの記憶を、私は思い出していた。
「うふふ。新しいお布団用意しなくちゃね」
香登が、そう言った。
……こうして。
「……よろしく……じゃ…………」
「はい。よろしくお願いしますね。きゅうけつきさん。」
わしは、ここ。
『雀猫』で、働くこととなったのであった――。
***
「ねえ綾、どうしたの?普段ならこんな――そうね、人助けなんかしないでしょう。特に血を、吸血鬼に分けるなんて。私にもしてくれないのにさ、焼けちゃうわ〜」
森香登、秋葉原綾。
きゅうけつきさんと呼ばれる吸血鬼が、河川敷に隠しておいた荷物を取りに行った時の話。
ふたりきりになった、雀荘『雀猫』の玄関口で、言葉を交わしていた。
冗談を言う香登に対して、綾は真剣な面持ちで答える。
「……分かりません。私も――面倒だとは思って――いた、んですけど。……あの人は、なんだろう……世話が……焼けるというか」
「そう」
香登は一瞬、微笑んだ。




