「先輩の裸を見せてください!」と懇願する礼儀正しい非常識な後輩は、お絵かき動画の配信者だった。
「せ、先輩……っ。水瀬先輩の、裸を見せてください!」
何を言っているのか、ちょっとよくわからない。
誰か俺に説明してくれないだろうかと懇願した所で。理由を説明できるのは、目の前にいる──見覚えのない少女だけだ。
目が悪いのだろう。なんの変哲もない黒縁眼鏡を掛けた少女は、高校生にしては珍しく。胸元あたりまでの髪を2つに結わえ、おさげにしている。自由な校風であることをいいことに、茶髪に染め、スカートを短くして人生を謳歌するキラキラ女子とは程遠い。地味な外見が返って目を引た。
クラスに居れば逆に目立つ女子が同じクラスなら。絶対顔と名前が一致するはずなんだけどなー。全然わかんねぇや。
「俺の裸見てどうすんの?」
「あ、え、えと……っ」
「いかがわしいことしたいってお誘い?俺のこと好きってこと?」
「あぅ……っ」
顔を真っ赤に染めた地味子がめちゃくちゃ可愛いと感じたとか。やべーな。これも全部スカート短くしたクラスメイトの女子が8割茶髪に染めて、休み時間にお菓子を食べながらパンツ丸見えの状態まで足を上げ。椅子の座面に踵を付けて、膝小僧を机の角に当てた状態で雑談しているのが悪い。
エロいとか通り越して、なんつーか。女子校のノリが日常的に行われているせいで、いまいち興奮しない。女として見れねぇんだよな……。あれでも興奮する奴はギャーギャー喚いてるけどさ。キャバクラの控室かよ。見たことねぇけど。
「名前も知らねー奴とそういうことするつもりねぇんだわ。ごめんな?」
「わ、私……っ。宮本白銀と申します!」
一方的に俺の存在を知っている地味子ちゃんを笑顔であしらったら、名前を名乗ってきた。これは名前を教えたから抱けってことか?そんなことある?AVじゃあるまいし……。
「シロガネちゃん?シロカネちゃん?めっちゃ変わってんね」
「白銀と書いて、白銀と読みます……!」
「あ、そう。で?本気でそういうことしたいわけ?」
「い、いえ……っ。ち、違うんです!そうした行為を……思いを通じあわせてたら……したい、けど……ぅう……そ、そうではなく……!」
今、思いを通じあわせたらしたいって言わなかったか?
何言ってんだよ。高校生だろ。学生の間は責任取れないことはしちゃいけねぇって親から教わらなかったのかよ。その地味な見た目でめちゃくちゃ遊んでるとか?やべーな……その発想はなかった。
「言いたいあるならちゃんと言った方がいいぜ。言い終わるまで待っててやるから」
「あ、ありがとう……ございます……。し、深呼吸、しますね……」
地味子ちゃん改め宮本は、スーハースーハーと何度も吸って吐いてを繰り返して気持ちを落ち着けている。
いちいち宣言しなくていいんだけど。
大丈夫か、この子。あがり症とかなのか?よくわかんねぇなぁ。俺、教室に忘れ物取りに来ただけなんだけど。教室に誰も居ねぇから声掛けて来たんだろうけどさ。あー。早く部活に戻りてぇ……。
「お、落ち着きました……。あの、私……。私は、美術部に所属している1年生です。水瀬先輩のことは一方的に知っているだけで、会話をしたことはありません……」
「そうなの?」
「は、はい……。すれ違ったことは何回かあって……。中学は同じでした。それで……私は。絵画コンクールに出展する絵の、モデルを探しています」
「絵のモデルを探してんのに、なんで裸を見せる必要があるんだ?俺の裸なんて見せびらかすようなもんじゃないだろ」
「わ、私……っ。先輩の泳ぎ、いつも見てます……。先輩の上半身って……すごい、ですよね……。惚れ惚れするくらい、綺麗な逆三角形……」
「あー。早く泳ぐ為に必要な筋肉つけるとこうなるんだよ。あんまりいいもんじゃないぜ?幅取るし。修学旅行とかマジ地獄だから」
俺は小さな頃から泳ぐのが大好きな水泳バカだ。365日温水プールに通い、汗を流す。家はジムを経営しているので、好きなだけトレーニングルームを使って身体を鍛え上げられるのだ。小さな頃から無理をすると身体に悪影響を及ぼずので、本格的に鍛え始めたのは高校生からだが。
修学旅行はどうしても集団でまとめて風呂に入る必要がある。人と違う身体付きをしている俺は悪目立ちしていた。
俺の身体は肩幅が広く胸板が厚い。腰に向かっていくに連れて細くなるので、逆三角形と称されているのだ。
あれはほんとに恥ずかしくて、どうしようかと思った。水泳仲間に身体付きを茶化されるのはいつものことなので、軽くあしらえるが。大して仲良くない奴らに身体付きを褒められても、身の危険しか感じない。
「絵画コンクールのテーマが……。その、ヌード、なんです。と、当然!全裸ではないですよ!?高校生限定のコンクールですから!卑猥な、いえ。全裸が絶対卑猥なわけではないのですが……!」
「裸婦画も芸術の一部だもんな。美術館で全裸の女性が描かれた絵とか飾られてるしさ。ああいうのも評価されるんだろ?」
「は、はい。もちろん。全裸を描けてこそ、一人前の人物画家と言いますか……。えっと。話を元に戻しますね。私は、水瀬先輩の美しい上半身を、作品としてこの世に残したいです……!」
いや。それ最初から俺に言えばよかったんじゃね?
めちゃくちゃ時間を無駄にした気がすると感じれば、なんだかどっと疲れが湧いてきた。俺、これからプールに戻るんだけど。
宮本の目には涙が浮かんでいる。今にも零れ落ちてしまいそうだ。
俺の裸を見たいと迫ってきた後輩に色気は一切感じられねぇけど。その素朴さが逆に唆るっつーか、なんつーか。
俺の好みは派手な女じゃねぇから、クラスの女子に興奮しているクラスメイト達と話が合わねぇのか。
地味系後輩に迫られてやっと気づくとか、人生無駄にしたわ。
これからは好みの女とお近づきになって、よろしくやれるように頑張りますかね。
「んじゃ、とりあえず連絡先から交換しようぜ」
「私、どうしても水瀬先輩の裸が描きたくて……!」
「だから、連絡先。俺、暇なとき大抵泳いでるからさ。宮本が暇なとき、連絡して欲しいんだけど」
宮本はまさか俺が了承するとは思わなかったのか、呆然としていた。俺の裸を描きたいって誘ってきたのは宮本なのに、その気になったらドン引きって……そりゃないだろ。
俺は連絡先を交換するために取り出した携帯を仕舞って、その場を後にしようとした。
「ほ、本当に……?モデルになってくれますか……?」
「信じらんねぇならもういいよ。やっぱ、さっきのナシな」
「やっ。だめ……っ!取り消さないで、ください……!」
今のは腰に来た。
その場を後にしようとした俺の腕にしがみついて懇願してくる宮本は、100人中100人が可愛いと太鼓判を押すほどの美少女ではない。100人中60人くらいが可愛いと言う、好みが分かれる顔達の少女だ。
彼女の魅力は顔ではない。
胸元が密着するとよくわかる、遠目ではよくわからないそこそこありそうな胸元と声だ。
特に声はやばい。必死になると、声が大きくなるせいか。ダイレクトに脳へダメージが及ぶのだろう。彼女の声を聞くと頭がクラクラしてくる。
天使の声と称されそうなソプラノボイスは、時には小悪魔のようにも聞こえる妖艶さも併せ持つ。普段は自信なさそうにボゾボソと話すので、宮本の良さに気づかず冷たくあしらう所だった。
どっかで聞いたことある声してんだよなー。どこで聞いたかは、そのうち思い出せるだろ。これからは丁寧に扱うことにしよう。
「連絡先。交換する?」
「は、はい!よろしく、お願いします!」
そうして俺たちは連絡先を交換し、宮本がコンクールの絵を描き終わるまで。関係を持つことになった。
*2
『みなさん、みやおつ……!し、シロガネミーヤです……!今日も、お絵描き雑談配信、やっていきますね……!』
スマートフォンの画面は、有名動画配信サイトのある番組を写し出している。
画面中央には、これから一枚の絵を完成させる為に必要な、ざっくばらんに書き込まれた鉛筆書きの線画。右側には左右に揺れる、銀髪の美少女キャラクターが映し出されていた。
彼女は2Dの美少女キャラクターに人間の動きを投影し、動画配信をしているのだ。
この技法が流行る前は、動画配信と言えば顔を出しか、声だけの動画が圧倒的に多かった。しかし今では、美少女キャラクターやイケメンキャラクターのアバターに自分の動きを投影して、配信をする若者が増えている。シロガネミーヤも、そうした配信者が増え始めた3年前にデビューした動画配信者だ。
この界隈は人の出入りが激しいので、3年前にデビューした彼女はすでに新人ではない。事務所に所属していない配信者の中では、中堅クラスの動画配信者だった。
声とキャラクターが合っていないと感じる配信者が多い中で、シロガネミーヤは俺にとってキャラクター外見と声が合致した唯一の配信者と言ってもいい。配信している内容が代わり映えのしないお絵かき配信なので、なかなか人気に火がつかないのは玉に瑕といえばいいのか……応援しているファンとしても、歯がゆかった。本人はもっと悔しい思いをしていることだろう。
『昨日の配信で一枚の絵を完成させたので……。今日からはひまわりを手に持つ女の子を書こうと思います』
彼女の魅力は何と言っても声が可愛く、人物画がうまいことにある。
彼女は完成した絵が撮影した写真なのではないかと見間違うほど。美しい絵を描くので、絵が完成する寸前は視聴者が尋常じゃないほど増えるのだ。完成した絵を見て満足するタイプの野次馬がいなくなると同時視聴回数ががくんと下がるので、普段の視聴者人数はあまり多くない。
『実は今日、とても嬉しいことがあって……。皆さんにお話してもいいですか……?』
シロガネミーヤの配信時間は23時から深夜0時までが殆どだ。
自宅のジムが一般開放されているのは22時まで。俺は彼女の配信時間に合わせて自宅のジムスペースに顔を出すと、美しい声をイヤホンで堪能しながら、トレーニングに明け暮れるのが日課になっていた。
『あっ。お花。ありがとうございます!まだ何もしていないのに……。応援頂いて嬉しいです』
視聴者は配信者にアイテムを購入することで投げ銭ができる。花は1000円、花束が1万、熊は5万、ダイヤモンドが10万……と上を見ればきりがない。配信者に投げ銭をするのは社会人なのだろうが、札束が飛び交う姿はいつ見ても心臓に悪い。普段は一銭も投げ銭が投げ込まれないことも多いのだが、絵が完成するとダイヤモンドが飛び交うのだから、配信者として絵を描く所を生配信している中の人も笑いが止まらないだろう。俺は何があっても応援の為に投げ銭はしないと決めているので、彼女の美しい声を聞いているだけなのだが。
無料でこの美声を聞けるんだったら、ファンで居続けるけど。『視聴者全員お花だけでもいいから私にください』なんて叫ばれたら、やめるよなぁ。ファン。
世の中にはランキングイベントと呼ばれるものが存在し、期間内の投げ銭金額上位3人に芸能活動ができる権利を与えて配信者同士を競わせる闇のイベントがあると聞く。
彼女はそうした争い事には一切首を突っ込まず、ひたすら一枚の絵が完成するまでの間。毎日1時間淡々と雑談をしながら配信を続けてくれるので、ありがたい。彼女が配信している間は、集中して身体を鍛えられる。
『憧れている人がいると、何度か配信でもお話したかと思うのですが……。今日は初めて、その人に自分から話しかけることに成功しました!』
今日もいい声だな。
入念にストレッチを行い身体を解した後、5分トレーニングに励み。1分間インターバルを挟んで次のマシンへ移動する。筋トレマシン巡りを始めた所、シロガネミーヤから衝撃的な単語が飛び込んできた。
性別不明の憧れている人と会話した?まじかよ。あの引っ込み思案で陰キャを自称するシロガネミーヤが?
思わず手を止めてスマートフォンの画面を確認する。コメント欄にはポツポツとコメントが書き込まれていた。
『みーやんすごい!』
『よくやった!』
『何がすごいの?』
『あ、ええと……。配信を初めて見てくださる方にもわかるように説明致しますと……。私にはこの配信を始めた当初から、だい……っ。あ、憧れの人がいて!ずっと、見ていることしかできなかったんです。でも、ようやくお話できて……。連絡先を交換できたんです……!』
コメント欄は祝福の声で埋まっていた。シロガネミーヤはお礼を言いながら下絵から線を書き起こし、視聴者に問う。
『連絡先を交換した後……。私から後日お礼の連絡をした方がいいのでしょうか……?私、家族としか連絡を取ったことがなくて……』
コメント欄には、SNSで繋がっている大人気漫画家の名前が上がっている。リアルでも交流があると以前配信内で話していたが……。大人気漫画家との交流は、家族との交流に数えられていたようだ。
『え、ええと。面と向かってお礼をするのは、恐れ多くて。まずは自分から、メッセージを送るのが……、いい、でしょうか……?あっ!熊さん!ありがとうございます!頑張りますねっ』
コメント欄を確認しながら、シロガネミーヤは5万円の投げ銭にお礼を言って覚悟を決めたようだ。憧れの人が同性なら問題はねぇけど……。これが男だったら笑えるな。勇気づける為に送った5万が、最悪の場合彼氏とのホテル代に消えるわけだ。
配信者はアイドルじゃない。
彼氏作ろうが既婚だろうが、誰かが咎められるはずもないわけだけど。彼女の気を引くために投げ銭をしているタイプの男は、そうなったら黙ってはいられないだろうな。
シロガネミーヤの場合は、趣味で雑談をしながら毎日1時間生配信をしているだけだ。一つ一つの作業を丁寧に行う彼女は、長いときで1枚の絵を完成させる為に半年を要した。
変わり映えしない画面を食い入るように見つめ、安くはない金を投げ続けるファンは尊敬する。俺には絶対できねー。投げ銭をしている奴らは、彼女に男ができたと知ったら。何事もなかったように、彼女へ大金を貢げるのだろうか。
『今日は皆さんに、私の今後について相談する回になってしまいました……。また明日、同じ時間に配信しますね!それでは皆様、オツミヤです……!』
シロガネミーヤを彼女にしたいから毎日配信を聞いているわけではない俺にだって、そんなの無理だとわかる。
彼女のように。美少女キャラクターの皮を被った女性配信者を、独身男性から金を巻き上げる悪女と認識するか。希望の星と崇めるかは、意見が分かれそうだ。
俺が社会人になるまで彼女が配信を続けていたとしても。大金を貢ごうなんて思わない俺が、投げ銭している奴らの未来を憂いた処でどうにもなんねぇか。
俺は首から下げていたタオルで汗を拭くと、ジムを後にした。
*3
『先日は連絡先をご交換頂きまして誠にありがとうございます。つきましては、放課後時間を取って頂きたいのですが。部活がお休みの日はございますでしょうか』
文章が硬い。
礼儀正しいと言えば聞こえはいいのだが、とても高校生が発信してきたメッセージとは思えず頭を抱える。
俺、いつから社会人とメッセージのやり取りしてたんだ?
そこまで固くなる必要ねーだろ……。クラスのグループメッセージなんて、顔文字で会話している奴らばっかりだぞ。
『文章硬すぎ(笑)平日は特別なことがなければ、下校時間まで練習してる。土日なら午後、空いてるけど。美術部って土日の練習ないだろ?』
『では、土曜日の午後から2時間程、お時間を頂戴致します。当日の午前中は、水瀬先輩の泳ぎを見学しに参りますので、よろしくお願い致します。つきましては、ご用意して頂きたいものがございますので画像をお送りいたします。大変お手数をお掛け致しますが、ご確認の程よろしくお願い致します』
だから硬いって……。本当に高1の書いた文章なのかよ。さすがは律儀に校則を守っているだけのことはあるな。
俺はメッセージアプリを通じて送付されてきた画像を表示させる。
『なにこれ』
咄嗟に返事を返してしまったのは、それが宮本から送信されてくるようなものだとは到底思えなかったからだ。
画面に表示されていたのは、男性用の下着らしきもの。しかも、ブーメランタイプのもので、かなり際どい。
初めて俺に向かって発した単語が「裸を見せてください」だもんな……。通販のサンプル画像らしきブーメランタイプの着画を送信してきたことに驚いている俺が悪いのか……。声が可愛くて好みのタイプじゃなかったらキモいと生徒指導の教師にチクっている所だぞ。捉え方によってはセクハラだろ、これ。
『本来、ヌードモデルは一糸まとわぬ姿でデッサンをするため、こうしたものは必要ないのですが……。水瀬先輩は水泳部に所属しておりますので、ブーメランタイプの水着を用意して頂きたいと考えております。デッサンモデル終了後も活用できるかと思うので。難しいでしょうか』
デッサンモデル終了後も活用できるって……。できるか?これ。布面積が狭いとか言うレベルじゃねーぞ。
ボディビルダーの大会に出るんじゃねぇんだからさ……。俺達水泳部は普段競技用の、スパッツタイプの水着を着用している。ブーメランタイプは馴染みがないのだ。
用意しろと言われても新しく買わなきゃなんねぇし、今日は木曜日だ。今すぐ購入しても土曜日に間に合うかは怪しい。サイズが合わないせいで中身が見えちまって大騒ぎ、なんてことにはなりたくねぇし……。
『事前に用意してサイズ合わなかったりしたら問題だろ。速攻で身支度済ませるから、その日だけは30分延長で』
『承知致しました』
宮本になぜ30分延長するのか。意味がちゃんと伝わっていればいいけどな……。微妙な所だ。意味が伝わっていればちゃんと、可愛い格好をしてくるだろう。伝わっていなければ制服で来る。
さあ、宮本はどっちで来るんだ?
「水瀬先輩!せ、制服では……ないのですね……?」
「いや、ほら。デートだから。気合入れるだろ」
「デート……!?」
制服だったかー……。
宮本にはこれからデートであることは全く伝わっていなかった。彼女はスケッチブックを入れるためだろう。学生鞄ではなく、黒いトートバッグだけを持って学校併設の温水プールに訪れていた。
先程までは、スタンド席で一心不乱にペンを動かしていたのだが。練習を終えて人気のなくなった温水プールに用はないのか、すでにスケッチブックは黒いトートバッグの中へしまい込まれている。
「土日の練習は制服で来るやつの方が少ねーよ。午前中練習して、午後から遊び回る奴が多いから。彼女とデートとかな?」
「彼女と……デート……」
「まー、俺には一生縁のない過ごし方だけどさ」
「縁が……ない、のですか……?水瀬先輩は……。いろんな方から、告白されていたような……」
「告白?誰かと勘違いしてねぇか?されたことねぇよ」
「でも。お兄ちゃんが……」
「お兄ちゃん?」
宮本は慌てて口を抑えた。どうやら口を滑らせたらしい。お兄ちゃんって……。兄弟がいるのか?いなかったら俺に際どい着画なんて送ってこないよな……。
「な、なんでもありません!」
「そうか?ならいいけど。水着屋寄ってからでいいよな?」
「はい。ご面倒をお掛け致します……。領収書を頂ければ、水着代は私が精算しますので!」
「水着代払えないほど、金に困ってねぇから」
「ですが。季節外れですし……。専門店だとお高いですよね……?」
「まぁな。下着の方が遥かに安いけど。下着姿に抵抗ねぇの?」
水着も下着も、同じ形をしている。水に浸けたら中身が透けるか、透けないかの違いくらいしかないだろう。水に入るわけじゃないからな。
男の下着姿を見慣れていなかったら、問題しかねぇよな。男兄弟がいるなら、見慣れているのか……?
パンツ一丁で彷徨くタイプの兄ちゃんかどうかなんて、現段階ではわかんねぇ。脱ぐのは俺だけだし、どっちもあんま変わらねぇだろ。
「あ……。お兄ちゃんと、事前に確認しました……。問題は、なさそうです……。ただ、お兄ちゃんは水瀬先輩の足下にも及ばない貧相な身体をしているので……。その、あまり参考にはならないかと思うのですが……」
「やってみなきゃわかんねーってことか。金銭面気にするなら下着、買ってみる?後々変質者扱いされんのだけは勘弁して欲しいんだけど」
「と、当然それは心得ています!間違いが起きないように、お兄ちゃんにも協力を要請したので……。きっと、大丈夫、の……はず、です」
本当に大丈夫なんだろうな?いざ履いてみてやっぱり駄目でした、はやめてくれよ。
少しでも不安があるなら、高い金を払ってでもお互いが安心できる格好をした方がいいだろう。俺は「でも、だって」を繰り返す宮本の声を適当にあしらいながら、水着専門店に足を運んだ。
「水着がたくさん……」
「ブーメランタイプの水着はあんまり種類ねーな。一番安い奴と高い奴。布面積が2倍位違うけど」
「布面積は、限りなく少ない方がいいです……!際どいVラインまで、余すところなく描き込みたいので……っ!」
「マジかよ」
季節外れの水着専門店には俺達以外の客は見当たらないが、男性店員が宮本を二度見していた。そうだよな。制服着てる女子高生が、男に布面積の少ない水着を買えと言っているのだから。何事かと驚くのも無理はない。
俺が店員なら水着専門店じゃなく、ジョークグッズを取り扱う激安スーパーに行けと思うだろう。
「着るの……。抵抗、ありますか……?」
「なんでもいいけどさ。ポーズにも寄るけど。動いたら中身見えたりしねぇの?」
「あ、えっと。サイズの確認は、して欲しいです……」
「わかった。試着室いこうぜ。下着の上からしか着れねーけど。試してみるかな」
「は、はい!よろしくお願い致します……っ!」
勢いよく発声された声に惚れ惚れしてしまい、思わず水着片手に立ち止まる。先程二度見していた店員が再度宮本を見つめて驚愕してんのがムカつく。下着の上から水着着ている所を見せるつもりはなかったけど、俺が試着室で諸々の確認をしている間にナンパされたら面倒だ。
下着の上から水着を着ている姿を見せれば、勝手に交際している高校生カップルだと勘違いしてくれるだろう。俺は店員に許可を得ると、試着室の中へ入る。
スラックスを脱ぎ、下着の上から水着を着用してから試着室のカーテンを開ければ、思ったよりも早いと思われたのだろう。驚いた様子の宮本が下半身を凝視していた。
「この絵面、いろいろと問題あるよな……」
「だ、大丈夫です。女性のお客さんはいないので……。後から入店されたお客さんに、水瀬先輩が犯罪者されてしまったら困りますし……。ええと、カーテンを閉めて、私だけが見えるような形で、失礼しますね」
しまった。試着室のカーテンを大きく開いたのは失敗だったか。
他の客に通報される可能性を、頭の隅に追いやってしまっていた。俺は宮本に指摘され、慌てて試着室のカーテンを一度全て閉めた。
話し方はオドオドしてんのに。積極的ではあるんだよな……。
カーテンの端から頭だけを試着室の中に突っ込み、ひょっこりと顔を覗かせる宮本は可愛らしい。地味な見た目に反して、変質者にしか思えない格好をしている俺の姿を見ても。恥ずかしがらず、堂々としている所が一周回って唆るのだ。
やべーな。露出趣味なんかねぇのに。目覚めちゃ行けねぇもんが目覚めそう。
何よりも制服を着た女子高生に情けない姿をガン見されているのがいい。宮本に誘われた時、「間違いなんか起きるわけねーだろこんな地味顔の女子高生に」と感想を抱いたのは間違いだった。
全然イケるわ。
下着の上から水着を履いている状態かつ、上半身に着衣の乱れがない状態でこれなのだ。パンツ一丁になった状態で2時間も一緒にいるとか……俺は宮本に手を出すことなく。最後までモデルを全うできんのか?精神力と性欲を試されてんな……。
「片足を、上げてほしいです」
「普通に上げるだけでいいのか?」
「足踏みをするときの角度で……。70度くらいが理想です」
無駄に細かいな。70度ってどのくらいだよ。
定規があるわけじゃねぇし……。適当に足を上げれば、宮本から指導が入った。
「もう少し上げてください。えっと、それは上げすぎなので……。し、失礼します……!」
宮本は俺の外旋筋に触れると、上げすぎた足をゆっくり下ろしていく。
男の素足に触れるのすらも抵抗がないのか……。ゆでタコになっている宮本の顔が見たかったんだけど。
「筋肉が発達していて……とってもいい足……」
宮本はゆでタコにこそなっていなかったが、うっとりと。恍惚とした顔で、艷やかな声をあげていた。
……前言撤回。ゆでタコみたいな顔なんて見なくていい。この声を聞けただけで満足だ。
「宮本?」
「……っ。ご、ごめんなさい!この角度、覚えてくださいね。デッサンをする時も……。必要となるので……」
「おう。覚えとく。下着、見えてないか?」
「だ、大丈夫そうです」
すごいアングルで積極的に確認しに行くな……。吐息が掛かるほど顔を近づけて、問題ないかを確認する。足の付根を凝視されると、襲われるんじゃないかと身構えてしまう。男女逆だったら本気でやべーことしてんだけど。宮本に自覚は……ないんだろうな……。突然「裸を見せてください」とか叫ぶ女に常識を説いても、首を傾げられて終わりだ。触れないでおこう。
「じゃあ、これ脱ぐから」
「はい。外で待ってます」
「男に声掛けられてもふらふらついて行こうとすんなよー」
「……男性、ですか?」
宮本は俺の身体から距離を取ると、カーテンから顔を覗かせたままきょとんと不思議そうな顔をした。見た目が地味だから、ナンパなんてされるわけがないだろって顔だ。宮本の声が特徴的で、声フェチには堪らないもんだってことを理解していないからこそ。危なっかしくて守ってやりたくなるんだろうなー。
「今日は俺とのデートだろ?浮気すんなってこと」
「うわ、き……?そんなこと!絶対しません!私は水瀬先輩一筋ですから!」
「ん?」
「あ……っ!」
俺達、交際しているカップルじゃねぇんだけどなー。俺が彼女扱いするから、すっかり舞い上がって交際しているつもりになってんのか?それともはじめから俺に気がある感じ?
どっちでもいいか。少なくともデートだって称して2人であれこれしたことに関しては嫌がってなさそうだし。脈アリなら、後はぐいぐい押してくだけだ。
「あ、う……っ。い、今のはなしです!記憶から消去してください!」
「水瀬先輩一筋ねぇ?」
「ち、違います!違わないけど、違うんです……っ!」
「取り消すの?言われて悪い気はしてねぇけど」
「う、ぅう……っ。水瀬先輩、いじわるです……水瀬先輩なんて知りません……!」
宮本は目に涙を潤ませて、カーテンの中から出ていった。
涙浮かべて睨まれても、可愛い以外の感想はねぇんだよなー。あのまま抱きしめて耳元でキザな台詞でも言っとけばよかったか。
慌てる必要はない。メインイベントはこれからだ。
宮本の裸が見られるわけではないのは残念だが……。彼女の目的を考えたら、文句など言っていられない。今すぐ宮本を落とす必要などないのだ。これからゆっくりと時間を掛けて、俺のものにすればいい。
「宮本ー。悪かったって。機嫌直せよ。この中から、なんでも好きなもん。買ってやるから」
「い、いりません。私は数百円で買収されるほど、安くはありませんから……っ!」
「いらねーの?じゃあいいや」
下着の上から着ていた水着を脱ぎ、スラックスを履いてからカーテンを開き試着室を出る。宮本は先程の会話が相当堪えたらしい。しょんぼりと項垂れている様子だったので、レジ前にあったお菓子を買ってやると言えば、施しは受けないと突っぱねられてしまった。
俺は無事に水着を購入し、明らかにテンションが下がった様子の宮本と共に水着専門店を後にする。どうすっかな。とてもこのあと、デッサンができそうな精神状態ではなさそうだが……。
「からかいすぎたな。今日は帰るか」
「……っ!嫌です……っ!帰りません!メインイベントはこれからです……っ!」
「無理してんだろ。明らかに」
「してないです!このまま家に水瀬先輩を連れ帰らず、別れたなんて知られたら……っ!家で待っているお兄ちゃんに、どやされてしまいます……!」
「ん?」
このまま家に俺を連れ帰らず?
このまま俺は、宮本の家に行くのか?
そんなまさか。そりゃパンツ一丁で絵画モデルとして2時間。密室で二人きりな所を誰かに見られたら、大騒ぎになるけどさ。女子が男子を自宅に呼ぶって……ありなのか……?
「お兄ちゃんは普段無口ですが、怒ると怖いんです!行きましょう、水瀬先輩!私が水瀬先輩を、自宅までご案内致します……!」
それはねえだろと固まっている隙に。
耳を真っ赤にした宮本は、俺の手を握って走り出した。
*4
宮本と手を繋ぎ、歩くこと約5分。
10階建てマンションの前に到着した俺は、宮本に先導されるがままにエレベーターに乗る。7階まで移動すると、廊下に出て彼女の住む部屋の前に立つ。鍵を開けた彼女に促されるがまま、マンションの一室に誘われた。
まじかよ。こんな簡単に女子の家にお邪魔していいのか?
絶対に良くないが、宮本は俺を自宅に誘っても手を離す様子がない。仕方なく俺は宮本と手を繋いだまま、靴を脱ぎ。室内へ足を踏み入れた。
「お邪魔します」
「お兄ちゃん、ただいま」
「遅い」
宮本がリビングのドアを開けると、目の前に長い前髪で目元が隠れて。表情がよく読み取れない、細身の高身長男性が姿を見せた。彼は全身黒で統一されたTシャツとスラックスに身を包み、低い声で宮本を非難する。
「遅くなるなら連絡しろ。30分枠で配信したら、いくら稼げたと思う」
「お、お兄ちゃんの実力なら、50万は確実だと……」
「弁償しろ」
「えっ!?ご、50万なんて払えないよ……!」
50万?5万じゃなくてか?
どうやら宮本の兄は30分の生放送で投げ銭を50万稼ぐ動画配信者らしい。詳細は一切不明だが、学生の妹に対していきなり「50万払え」はないだろ。闇金かよ。有名配信者ともなれば、億単位の投げ銭が飛び交うとは聞くが……。それにしたって、なぁ。生々しい金の話は、俺のいない所でしてくれ。
「お前の実力なら50万くらい余裕だろ。乳繰り合っていないで、早く絵を完成させるんだな」
「お、お兄ちゃん!水瀬先輩の前だよ!クラスメイトには自分が配信者であること隠しているって言ったじゃない!バラしていいの!?」
「そいつは俺がクラスメイトであることすら、覚えていない」
「水瀬先輩!お兄ちゃんはこう言ってますけど、クラスメイトの顔と名前くらいわかりますよね!?」
ええ……。このタイミングで俺に振るのかよ……。
宮本の兄は俺のクラスメイトらしいが、まったく身に覚えがない。こんなやつ居たっけ?宮本に指差しされていねぇと、存在感薄すぎて宮本の兄貴がここにいるってこと忘れそうなんだけど。
「俺とお前、会話したことなくね?」
「関わり合いになったことは一切ない」
「だよな。これからはちゃんと挨拶くらいはするわ。俺、水瀬鼓。クラスメイトなら、同い年だろ?宮本の兄ちゃんって呼ぶのは……変な感じだよな。下の名前は?なんて言うんだ?」
「貴様に名乗る名はない」
「お、お兄ちゃんは知金と言います……」
「こいつの名を呼べ。俺は名字でいい。手を洗ってさっさと絵を描け。二度目だぞ」
「ひゃっ。ご、ごめんなさいお兄ちゃん!水瀬先輩、トイレはこちらなので……。水着に着替えてください。私は手を洗ってリビングの折り畳みテーブルを片してきます……!」
兄ちゃん……宮本に凄まれた宮本妹……白銀ちゃんは、パタパタと一度洗面所に消える。手を洗ったのだろう。すぐに戻ってドアの前に立っていた宮本へ体当たりするように押しのけると、リビングに続くドアへ消えた。
「さっさと着替えてこい」と言いたそうにこちらをじっと見つめていそうな宮本の視線に耐え切れず、俺もまた指示されたトイレのドアを開け、スラックスと下着を脱いで水着を着用する。
これ、いきなり水着だけ着用した状態で出て行ったらマズイよな……?
「全部脱げ」
「あ、はい。すんません……」
水着の上からスラックスを履いた状態でドアを開け廊下に出たが、仁王立ちしていた宮本に低い声で唸られた。仕方なくもう一度トイレに戻り、ドアを閉めてから水着以外の服を全て脱ぐ。
対して仲良くもない後輩とクラスメイトのトイレを借りて、海パン一丁で部屋をうろつくとか……。変質者だって願ってもできないような体験だろう。
すでに宮本の姿はなかった。俺は恐る恐るトイレのドアを開け、ペタペタと素足で廊下を歩き始める。
めちゃくちゃいたたまれねぇ……。
俺は下半身を脱いだ服で隠しながら、リビングのドアを開けた。
「……逞しい胸板……、がっしりとした肩幅……。ひと目見ただけでもわかるほど鍛え抜かれた身体……素敵……っ」
白銀ちゃんは俺の姿を見るや否や、口元を抑えて恍惚とした表情で俺を見る。ボソボソとんでもないことを呟いていたけど、無視していいか?いいよな。宮本にもめちゃくちゃ睨まれているし。海パン一丁で女子に喜ばれる男って……いいんだか悪いんだかよくわかんねーな。
市民プールや海に顔出すとキャーキャー叫ばれる時、ワンナイト狙いの茶髪の女子が感じている感想を白銀ちゃんが抱いているんだとしたら、大分キツイ。俺、茶髪女子は嫌いだからさ。
「着替えてきたぜ。どうすればいいんだ?」
「バスタオルを敷いておきましたので……こちらへ、仰向けにお願いします。できれば、背泳ぎするような形で……片手を上に上げて欲しくて……」
「背泳ぎ?床の上で?」
「はい!」
元気のいい自信満々な声が返ってきて、俺はマジかよと絶句する。それから、心臓を撃ち抜かれた。ぼそぼそと自信なさそうな時と、ハキハキと白銀ちゃんが声を発する時のトーンが明らかに違うのが悪い。
彼女の声が好きすぎる俺の耳が死ぬ……っ。
「水瀬先輩!?どうしたんですか!?」
「……っ!」
「さっさとポーズを取れ。貴重な時間を何時間無駄にすれば済む?バカップルのイチャイチャに俺を巻き込むな。金取るぞ」
30分遅れた妹に対し、50万を要求した宮本のことだ。時間を無駄に消費し続けたら、1分間に約1万6千円ずつ請求されかねない。悲鳴をあげた白銀ちゃんが怯えている姿を見た俺は、これ以上彼女が怯えないように。用意されたタオルの上に横たわり、右手を頭の上まで高く伸ばす。
「手はピンと、まっすぐ伸ばすのではなく……。アーチを描くように伸ばしてもらって……。爪先で床に敷いたタオルの上に触れる感じで……」
「おう」
「手は揃えてくださいね。それから、左足を70度まで曲げてください。膝を立てるイメージです」
白銀ちゃんの指示は恐ろしく細かい。指先の一本一本まで、角度がイメージ通りではないとさり気なく直すように優しい声が飛んでくる。俺は彼女のイメージ通り、ポーズができるように。できる限り要望に堪えたつもりなんだけどな……。白銀ちゃんからのオーケーはなかなか出ない。
「顔を上げてください。あ、顔ではなく。顎をこう、上に。首元まで水の中へ埋まっているイメージなので……」
「白銀ちゃん、容赦ねーな」
「あ、ごめんなさい。辛いですか?」
「いや、腰辺りまでは床にくっつけてるし。無理ではねーけど」
「よかったです。この体制で、20分間動かないでください。できれば目線も動かして欲しくはないのですが……流石に無理があると思うので。最初の5分だけ。天井の電球を見ていてください。先に目から描き始めます」
白銀ちゃんの美しい声が絶え間なく聞こえて来るっていうのに……。俺は海パン一丁で、まな板の鯉みたいに何もできず。床で背泳ぎのポーズを取っていることしかできないとか。拷問だろ、これ。
あー、抱きしめてえ。耳元で囁いてくれねぇかな。
俺は視線すらも動かすことなく、天井に備え付けられた電気の点灯していない電球を見つめていた。
変化があったのは、白銀ちゃんが画板に下絵を描き始めてすぐのことだ。
「し、白銀ちゃん!?」
「動かさないでください!身体と目線、そのままでっ……!」
「あ、悪い。脚立に乗って見下ろしてくるなんて聞いてねーし……」
「あ、ごめんなさい。高い所から見渡さないと。うまく描けないんです。私がイメージする構図は、高い所からやや斜め横のアングルで描く構図なので……」
「やや斜め横ってどんなのだよ」
「完成したらお見せしますね」
大きく口を開けて歯の治療を受けるとき。どうしても医者や歯科衛生士と目があってしまう──感覚的にはそんな感じだ。白銀ちゃんは俺と目線を合わせたいわけじゃないけど、絵を描く為に仕方なく俺へ視線を向けて、目があってしまう状態だ。パチリと目を合わせるたびに、白銀ちゃんは恥ずかしそうな顔をした。
恥ずかしくて堪らないと。顔を真っ赤にするが、すぐに貴重な時間を一分一秒も無駄にはできないと思い直すのだろう。鉛筆を持つ手を止めることなく動かし続ける。
最初は拷問だと思ってたけど、これはこれで悪くねーな。
何よりも、白銀ちゃんの百面相を見られるのがいい。
真っ赤な顔をしたかと思えば、恥ずかしそうに俺の下半身を見遣り、真剣な眼差しでペンを走らせる。
容姿は地味だけど、表情豊かではあるんだよな……。絵を描いている時は、より一層表情豊かになるような気がする。特に、納得する線が書けた時の笑顔と言ったら……。白銀ちゃんの美声と同じくらい破壊力があった。
何だあれ、ヤバすぎるだろ。嬉しそうにはにかむ笑顔なんて見ちまったら、惚れないわけがない。
白銀ちゃんとまともに会話をするようになってから、まだ2日目だぞ?絵を完成させたら、縁が切れちまうかもしれねーのに。
ほぼ全裸状態の状態で恋を自覚するとか、自分でも信じらんねー。しかも、これが初恋だぜ?めちゃくちゃ笑える。
「水瀬先輩、駄目ですよ。無表情、キープです」
「俺、表情変わってた?」
「口角が上がってますよ。楽しいことを考えていたのですか……?」
「んー。まぁな」
白銀ちゃんのことが好きすぎて、どうやってこれから落としていくか考えていたなんて言えねーよな。宮本の前で。ただでさえイチャつくバカップル扱いされてんだからさ。
俺は鍛えてるし。ヒョロガリの宮本に負ける気はしねーけど。金にがめつそうだし、揉み合いになって怪我でもさせようもんなら慰謝料請求されそうだ。
「集中力が切れて来たなら、一度休憩にしましょう。今、ちょうど20分経った所なので」
壁掛け時計を確認した白銀ちゃんは、俺にポーズを取る必要はないと声を掛けてくる。20分間ポーズを取り、5分の休憩を挟むのがワンセット。これを6回繰り返すと、絵画モデルとしての役目は終わる。
「宮本はさっきから熱心にスマホイジってるけど。何やっての?」
「多分……FPSだと思います。お兄ちゃん、FPSのプロを目指しているので」
「あー。聞いたことあるぜ。ゲーム界のオリンピックだろ。ゲームにもプロがいる時代だもんな、今。宮本、プロゲーマー目指してんのか」
「はい。お兄ちゃん、名の知れた有名プレイヤーなんですよ。FPS歴は長いけど。大会で、1位になったことはないのですが……」
「へー。俺も2位か3位をふらふらしてっから。お揃いだな。一位にならなきゃオリンピックで金メダルなんか取れねーぞって、よく監督にどやされるんだけどさ。努力じゃどうにもなんねーこともあるし、今一位の奴が絶対本番でも100%の実力が出せるわけじゃねぇだろ?プレッシャーに耐え切れず、大事な本番でコケた一位から、栄光の座を掻っ攫えるように。毎日コツコツ練習を重ねて力を蓄えておくのが俺の方針だな」
「貴様の方針など誰も興味を抱かない」
「宮本は?なんか作戦あんの?」
宮本は俺の問いかけ答えることなくスマートフォンの画面をじっと見つめた。ガンスルーかよ。態度悪ぃな。
「水瀬先輩は、オリンピックで金メダルを目指しているのですか?」
「まーな。やるからには、頂点極めてぇからさ。叶いもしない夢みて全力で泳ぎ抜けるくらいの気持ちでいないとな!」
心優しい白銀ちゃんは俺に質問をしてくれる。宮本とは大違いだ。これからも宮本のことを反面教師に生きてほしい。
「美術の世界では、オリンピックって聞かねーよな。白銀ちゃんには目標とかねぇの?」
「む、昔は芸術競技と呼ばれる種目の中に、100点満点で点数をつける美術の審査項目があったみたいです」
「へぇ、詳しいな?」
「し、調べたことがあるので……。私は、画家になりたいです。絵を描いたり売ったりするだけで食べていけるような画家に……」
「5分経ったぞ。無駄口叩いていないでさっさとポーズを取れ」
宮本から一喝が響き、俺は再び床に横たわると先程と同じようにポーズを取る。自分では全く同じポーズをしたつもりでも、白銀ちゃんからは全く別のポーズに見えるらしい。3分ほど駄目ダメ出しをくらい、細かなポーズを修正する。俺のポーズが寸分変わらず初回と同じであることを確認してから、白銀ちゃんはペンを走らせた。
*5
20分身じろぎ一つすることも許されず、ポーズを取り。10分休憩を繰り返すこと5セット。約2時間が経過したが、休憩時間を通算30分取っているのであと1セット残っている。
「水瀬先輩。2つお願いがあるんです」
「いいぜ。白銀ちゃんのお願いならなんでも叶えてやるよ」
壁に背を向けて座り込む宮本は、スマートフォンでFPSをプレイするのに夢中だ。こちらを気にする様子もないからか、白銀ちゃんは頼み事をしたいと言ってきた。断る理由もないので、頼み事を聞く前から了承すれば。彼女の頼み事は俺の想定していないもので──二つ返事で了承するんじゃなかったと後悔した。
「それじゃあ、何枚か撮影しますね」
頼み事その1。海パン一丁の姿を写真に残したいと言われた。SNSにアップロードされて晒されでもしたら面倒なことになる。「なんでも叶えてやるよ」とさえ言わなければ、間違いなく断っていた。
この写真撮影を断ると、俺は明日も海パン一丁で泳ぎのポーズを取り。宮本家で絵画モデルをしなければならないらしい。しかも明日は用事があり、宮本が立ち会えない。白銀ちゃんと二人きりだ。身体目当てなら願っても見ない高シチュエーションだが、金にがめつい宮本が兄であると知ってしまった今は、後が怖すぎてとてもじゃないが海パン一丁の姿で二人きりになろうとは思えなかった。
30分の遅刻で50万を要求してんだぞ?間違いなんて起こそうもんなら、数千万円レベルの金銭を要求されそうだ。俺は外に写真を流出させないことを条件に、渋々写真撮影を了承した。
「ありがとうございます。惚れ惚れするような肉体を、これでいつでも。目にすることができそうです……っ!」
白銀ちゃんは俺の海パン一丁で背泳ぎをしているポーズの写真を、上空から1枚。横から2枚、頭の上と足下から1枚ずつの合計5枚を撮影してごきげんな様子で口を滑らせた。
男の水着姿を四六時中見て何が楽しいんだよ……アイドルでもねぇのに……。
やっぱり白銀ちゃんは変わっている。さすがは、時代遅れの文学少女みたいなおさげ頭に黒縁眼鏡で登校してくるだけのことはあるよな。
話し方は丁寧だけど、非常識な行動が目立つ。言い得て妙だ。
「そ、それはよかったな」
「はい!二つ目のお願いなのですが……っ。これはちょっと、は、恥ずかしくて……。受け入れてくださるか、わからないのですが……」
「ここまで来たら、もうなんでもいいぜ。かかってこい!」
「じゃ、じゃあ……。勇気を出して、い、言いますね……?水瀬先輩の大胸筋を、触りたいです……!」
頼み事その2。白銀ちゃんは俺の胸を触りたいと言ってきた。男の胸なんて触ってどうすんだよ。一瞬思考が停止したが、白銀ちゃんは期待の眼差しで俺の胸元を見ている。触りたくて堪らないらしい。
それは駄目だろ。色んな意味で。
お触り禁止だったから我慢できていただけで。お触り解禁されたら、こっちだって我慢のしようがねーぞ?色んな意味で。生理現象だから仕方ないで済ませられるならそれでもいいけど。俺だって分別くらいはつけられる年だ。
ゲームに夢中な宮本の居る前で、乳繰り合ったらどうなるかなんて火を見るよりも明らかだ。ぶん殴られるだけで済めばいいが、最悪の場合は犯罪者だぞ。欲望に負けた時のリスクが高すぎる。
「白銀ちゃん……」
「ひゃ、ひゃい。そ、そんな、捨てられた子犬を見るような目で、見つめられても……っ。こ、困ってしまいます……っ」
「あのな、白銀ちゃん。いくらゲームにも夢中になってるからって、部屋には宮本がいるし。二人きりでもねえ。それに俺達、付き合ってるわけじゃねえんだぞ?女が男の肌に触れるのは、金巻き上げるか、その気があるか、交際している男女が合意の上で触れる時だ」
「で、でも……。絵を描く為には確認しなければならない大切なことなんです……!触ってみないことには、質感を表現する為にどんな塗り方をしていいかすらも判断できませんし……っ。それに!そ、その気がなかったら、水瀬先輩にモデルを頼んだりしません……!」
おおっと?
「水瀬先輩一筋」発言に続いて、また微妙な発言が白銀ちゃんの口から飛び出て来たぞ。これでツーアウトだ。宮本が部屋にいるし、俺のこと好きなの?とは聞かないけどさー。
「お、おう」
「じゃ、じゃあ触りますねっ。し、失礼します……!」
そろそろ俺も、グイグイ行かなくても。好感度はMAXなんじゃねーのかって自惚れるぞ?いいのか?スリーアウト食らったらもう逃げられねーぞー。
心の中で白銀ちゃんに呼びかけている間の生返事を、同意と受け取ったらしい。彼女は嬉しそうにハキハキとした声を出すと、俺の身体に跨ってきた。
ちょっと待った!美声と馬乗りコンボはマズイだろ!?何考えてんだ!?
止めろよ宮本……!局部は水着で隠れているとはいえ、裸の男に女が跨っていい理由なんかねーだろ!今からそういうことするんだったらわかるけどさ!?しねーから!洒落になんねーって!白銀ちゃんは俺を犯罪者にしたいのか!?
「ちょ、ま、待った!なんで跨がる必要があるんだよ!?」
「横からだと、触り心地が違うかもしれません。やはり真正面からでないと……」
「やはり?真正面!?どう見たって俺が襲われる体制じゃねーか!」
「水瀬先輩……。私に襲われるのは、嫌、ですか……?」
さすがにハキハキとした美声を発してくることはなかったが、自信なさそうな地声だけでも充分に刺戟的だ。セリフがセリフなだけに。何よりアウトだと感じるのは、スカートの裾から覗く太ももが、俺の肌に直接触れていることだ。
白銀ちゃんは黒のタイツを履いている。布一枚挟んでるからセーフ判定しているんだろうが、布一枚挟んだって駄目なものは駄目だ。俺が手を伸ばせば、いつでも彼女に触れてめちゃくちゃにできるこの距離感で。うっとりとした様子を見せながら俺の大胸筋を見下ろしている白銀ちゃんがおかしい。
「い、嫌じゃねーけど。嫌じゃねーけどさ?どうなっても知らねーぞ!?」
スリーアウトチェンジ。
そっちがその気なら、こっちだって。理性で性欲を押さえつけるのをやめて襲うぞと。キレ気味に返答を返せば、白銀ちゃんは一瞬思考を停止させてから、真っ赤な顔で太ももをすり合わせてもじもじと恥じらった。
だからやめろって。アホか。冗談だと思ってんなら、一度痛い目見せるぞ。
「水瀬」
「なんだよ!?」
「指一本でも触れてみろ。500万で勘弁してやる」
「払えるわけねーだろ!?ふざけんな!宮本家は一体どんな教育してんだよ!」
「教育など受けたことがない」
「は……?」
FPSに夢中だった宮本が、遠くから低い声で釘を差してくる。なんで俺が手を出したら、慰謝料500万も要求されんだよ。誘ってきたのは白銀ちゃんだろ!?
まるで短いスカート履いていたのが悪いと被害者に責任転嫁する痴漢男みたいな言い分を飲み込んだ俺は、宮本の言葉に冷水をぶつけられたような気持ちだった。俺の勢いがなくなったのをいいことに、白銀ちゃんは俺の胸をペタペタと触り、時には揉んで感覚を確かめている。
「あれ……?こんなにムキムキなのに……。固くないです……」
「力入れてねぇと固くはなんねーよ」
「わっ。ほんとだ……。全然違う……」
俺が力を込めてやれば。むにむにと手で摘んで胸の感覚を確かめていた白銀ちゃんが、呼吸を荒くしながら優しく胸に触れてくる。
彼女は未知との遭遇に忙しくて、「教育を受けたことなどない」と口にした宮本の続きを聞ける雰囲気ではない。かと言って、天井の電球を見ることを強いられている俺からじゃ、宮本がどんな表情をしているかなんてよくわかんねーからな……。
いーや。ほっとこう。
胸を弄られている状態で「実は孤児院育ち」とか「親に捨てられた」なんて重い話をされても。どんな反応していいかなんてわかんねーよ。
白銀ちゃんは俺の胸に触れるのも、俺の上へ跨るのも全く抵抗ねぇみてぇだしな……。そのうちなるようになった時、お互いの家族について話せばいいだけだ。
「なるほど……。鍛えている若い男性の身体は、このようになっているのですね……。私、小さな頃。成熟した男性の胸に触れたことしかなかったら、なんだかとても新鮮でした……」
「成熟した男性の胸に触れる機会ってどんな時だよ……」
「お、お父さんが……。私が小さな頃。抱き上げてくれて……。その時に、触ったことがあるんです。その胸はとても逞しくて……。もう、何十年も前なのに。よく覚えています」
何十年も前?過去形……だよな。
親父さんが亡くなっているのかと聞く勇気は俺になかった。
昔を懐かしむように俺の胸に触れていた白銀ちゃんは、名残惜しそうに手を離す。俺の上から降りて、床に膝をつくと深々とお辞儀した。つまり、土下座だ。
「白銀ちゃん!?何やってんだ!」
「ぶ、不躾に……。水瀬先輩の上に跨り自由を奪い……。上半身を堪能してしまい、大変申し訳ございませんでした……!」
「500万」
「なんでだよ!触ってねぇだろ!?」
「頭を下げさせた時点で貴様の有罪は決定した」
「涼しい顔して俺にさり気なく罪を着せようとすんな!白銀ちゃん、俺は触れらんねぇけど、頭上げてくれ。白銀ちゃんは悪くねぇだろ?」
「ですが……。水瀬先輩は嫌がっていたのに……」
「い、嫌がってはねーよ……。理性が持つか心配だっただけで……」
「理性、ですか」
上半身を起こして背泳ぎの姿勢をやめた俺を、ぽかんと土下座の体制から頭を上げた白銀ちゃんが見上げている。全く想像もしていませんでしたと言わんばかりの顔をされると、俺も居た堪れないんだけど……。
「理性って……。何かを押さえつける為の働きをしますよね……?水瀬先輩は、私に自分を律しなければならないほどの思いを、抱いてくださったのですか……?」
「そ、そりゃ……な?男と女が密着すれば……。考えることは、一つしかねーだろ……」
「私を……性愛の対象に、してくださるんですか……?」
「な、なんつーか……。あー、これ、認めていいのかよ……」
「1000万」
「ちゃっかり金額上げんな!」
白銀ちゃんがびくりと肩を震わせる。違うんだ。白銀ちゃんを怒鳴りつけたいんじゃなくて、家買えるレベルの賠償金を要求してくる宮本に物申したいだけで。白銀ちゃんは悪くねぇのに……。これも俺の好感度を下げるための作戦なら、恐れ入る。
「わ、私……。地味で。おどおどしていて、自分に自信がないから……。私なんか、相手にされないって。思っていたのに……。水瀬先輩は優しいんですね」
「違うだろ」
「……違う?」
「白銀ちゃんが魅力的で、俺に対してだけは積極的なのがいけないんだよ」
「うぅう……っ、水瀬先輩!」
「うお……っ!?」
白銀ちゃんはぽろぽろと瞳から涙を流すと、邪魔になった眼鏡を床に投げ捨てて俺の首元に抱きついてきた。ちょ、待てよ。お触りは罰金500万だぞ!?俺から触らなくたって、適用されんだろ。俺は500万の支払いに怯えて、白銀ちゃんを抱きしめ返せない。くそう。なんだよ500万って。学生にそんな金額支払えるわけないだろ。
「水瀬先輩……っ。すきです……っ。ずっと前から、大好きでした……っ!」
「へっ!?」
やべぇ。予想外過ぎて変な声が出た。耳元で囁かれる美声と共に、俺のことが好きなんて告白されたら、黙って居られるわけもねぇよなぁ!?
500万でも1000万でも稼いでやらあ!オリンピックの金メダリストにでもなれば、獲得報酬だけでも約3000万だ。世界を相手に戦わなければいけないのだから、けして簡単には成し遂げられない。夢のような話ではあるのだが──。
俺を愛してくれる女からの告白を、500万程度で断るような男だと、舐めて貰っちゃ困るぜ!
「マジか。マジで嬉しい。初めて会った時は、そういうことするつもりねぇって断ったけど──今はめちゃくちゃしたい。俺も好きだ。誰にも渡したくねぇ」
「……ほ、本当に……?本当に、私のこと……。好きになってくださったんですか……?」
白銀ちゃんは俺から身体を離して、こちらを見つめ。彼女の顔には、信じられないと書いてあった。
それで気づいたんだけどさ……。
白銀ちゃん、眼鏡取るとめちゃくちゃ美少女じゃねーか!誰だよ地味子とか言ったやつ!眼鏡で魅力が半減してんぞ!
「今、俺は白銀ちゃんの魅力を再確認しているんだけどさ……」
「はい……っ」
「白銀ちゃんはまず、声が可愛い。地声はそうでもねぇけど、声を張り上げた時の声が一番好きだ。それから、絵を描いている時の百面相。喜怒哀楽が豊かで、この2時間の間に全部見た気がする。それと、眼鏡を外した時の顔超可愛いってことに今気づいた所。なぁ、髪留め。外してもいいか?」
「ひゃ、ひゃい。そ、そんなにたくさん……。私の好きな所を言ってくれると思いませんでした……。私、嬉しすぎて心臓が止まりそうです……!」
「こらこら。止めるな。死んじまうだろ。髪留め、外すな」
俺は白銀ちゃんに一言断って髪留めを外した。右側と左側の髪留めを外し、三つ編みの髪を解けばあら不思議。地味で野暮ったい昭和の女っぽい地味子ちゃんは、黒髪キラキラ美少女になりましたとさ。なんでだよ!?
「うわ……。めちゃくちゃ美少女じゃねえか……。なんで普段隠してんの……?」
「そ、そんな……。私なんて全然です……。友達は100人中99人が振り向く美少女なのに、私と来たら……。いつも友達よりも可愛くないねと言われるので、いっそのこと。地味な見た目の方が……。傷つかずに済むので……」
「それは白銀ちゃんの容姿に文句言ってきた奴らの見る目がなかっただけだろ。まじでめちゃくちゃかわいい。このままずっと黒髪で、デートの時は地味な格好なんてしてこなくていいよ。ああ、でも。目が悪いなら見えねえか……」
「い、いえ。ぼんやりとですか、完全に見えなくなるわけではないのです。遠くの文字は見えなくなりますが……。水瀬先輩が手を繋いでくださったら、街を歩くのも問題ないかと……」
「よっしゃ」
俺が小さくガッツポーズをすれば、床に投げ捨てられた眼鏡を拾った宮本が俺と白銀ちゃんの頭を叩いてきた。
調子に乗るなと言いたいのだろう。
怒りの鉄拳制裁を受けた俺は、頭を抑える。
「交際するからには、当然結婚前提の付き合いだろうな」
「そりゃもちろん……」
「浮気は許さん。不順異性行為も責任が取れる年齢までするな。それが呑めるなら、交際を認めてやってもいい」
「白銀ちゃんの兄ちゃんなのに、親父みたいなこと言うな……」
「こいつを養っているのは俺だ。当然、こいつの交友関係にも口を挟む資格がある。合意なくこいつに触れてみろ。犯罪でもなんでもでっちあげて、根こそぎふんだくってやる」
「お、お兄ちゃん!やっと思いを通じ合わせたのに!お兄ちゃんが怖いから、私とは付き合えないって言われそうなこと言うのはやめて!」
「ふん。こいつの取り柄は見た目だけだ。水泳選手の年収は平均200万~300万。妻と子どもを養えるとは到底思えんがな」
「お父さんだって私とお兄ちゃんを育ててくれたんだから、きっと大丈夫だよ!お父さんみたいな立派な水泳選手になれないからって、水瀬先輩を敵視するのはやめて!」
「俺よりもこの男を取るつもりなら好きにしろ。今後は自分の投げ銭収入だけで生きるんだな」
親父さんみたいな立派な水泳選手?自分の投げ銭収入で生きろ?
突っ込みどころは満載だが、一から百まで説明を求めるわけにも行かない。白銀ちゃんは宮本の態度が悪すぎることを気にして、「お願いだから嫌わないでください!」と絶叫しているし。美声で叫ばれると俺が無理矢理白銀ちゃんに酷いことしているような気持ちになって、正直理性が保てない。
絵画モデルの仕事は終わった。俺たちは交際する約束をして、後日宮本家の事情を説明して貰うことになった。
*6
「私のお父さんは、水泳選手だったんです。オリンピックに出場するような有名選手ではなかったのですが……」
翌週土曜日。顔を合わせた白銀ちゃんは、暗い表情で親父さんについての話を始める。俺が学校生活の中で暇な時間は昼休みくらいなのだが、水泳部の奴らが約束もしていないのにわらわらと俺のクラスに集まっては騒ぎ立てるので、なかなか二人きりの時間が取れないのだ。
美術部は運動部のように、放課後遅くまで残るような部活ではない。この1週間、メールのやりとりは何度か往復して。姿を見れば挨拶したが、カップルとして顔を合わせるのは今日が初めてでもある。
白銀ちゃんはお洒落なカフェでデートしたいと少女漫画のような希望があった。俺は個人経営の隠れ家的お店に彼女を引っ張り込んで、宮本家の秘密に迫ることになったのだ。
「私とお兄ちゃんは泳げないので、浮き輪やビート板を持参して。プールや海に出かけました。幼いながらに、凄く楽しかったと同時に、水が怖かったのを今でもよく思い出します。お兄ちゃんは早々に泳ぐのを諦めて、お母さんと砂浜で遊んでいたくらいですから。あの事件がなくても、お兄ちゃんは多分……。水泳選手になろうとはしなかったと思います」
「あの事件?」
「……お父さんは、海で溺れた私を助けるために……。亡くなりました」
命綱とも言える浮き輪から、身体を離してしまった泳げない白銀ちゃんは、バタバタと手脚を動かして死を覚悟したらしい。親父さんが白銀ちゃんの異変に気づき、血相を変えて飛んできたことだけは覚えていると言うが……。白銀ちゃんが再び目を覚ました時には、親父さんは帰らぬ人になっていた。
「お兄ちゃんには、お前のせいだと言われました。元々、あまり仲のいい兄妹ではなかったけれど……。関係が拗れて。どんなに仲裁しても喧嘩ばかりする私達を、女手一つで育てることになったお母さんも。身体を壊してしまったんです。お母さんが働けなくなって、子供達だけで生活しなければならなくなった時。お兄ちゃんは小学5年生でした。1年間学校をお休みして、お兄ちゃんはFPSを極め始め──お母さんが亡くなった頃には、お兄ちゃんは大人気配信者になっていました。投げ銭だけで、生活できるほどの収入を得られるようになっていたんです」
白銀ちゃんの話はにわかに信じがたい話だった。子どもたちだけで生活できるほどの投げ銭収入を、ゲームの動画配信だけで得られるようになった小学生。夢のような話にしか思えないが、シロガネミーヤの配信も、絵が完成した時は数十万から数百万の金が動く。その単位の金が毎日の配信で動くのなら、子どもたち2人で生活するだけの金銭を稼ぐことはそう難しいことではないのかもしれない。
「お兄ちゃんは、しなくてもいい苦労をしているんです。私が海で溺れなければ、死にものぐるいで配信なんてする必要がなかった。私はお兄ちゃんによく怒られていますけど、仕方ないと思っています。私のせいで、お兄ちゃんからお父さんを奪ってしまったんですから。大きくなったら、私もお兄ちゃんと同じかそれ以上のお金を稼げるようになろうと決めて──私も、中学1年生の時に配信者デビューしました」
「白銀ちゃん、配信者やってんの?」
「はい。私が一番得意なもの。胸を張って自信の持てるものはなんだろう?と考えて……やはり、絵しかないと思いました。外で配信者であることは、あまり言いふらしたくないのですが……。水瀬さんは大好きな人なので、私の秘密を打ち明けますね。普段は、顔を隠して……。この名前で配信者として活動しています」
「ま……っ!?」
まじかよ。心臓止まるかと思ったわ!
白銀ちゃんがスマートフォンの画面に、生配信動画リストのアーカイブを表示させている。その画面に表示されているのは──俺が毎日、トレーニングのお供に視聴している。中堅クラスの配信者。シロガネミーヤだった。
「水瀬先輩?」
「まじかよ……。通りで俺好みの声しているわけだ……」
「水瀬先輩、もしかして……」
「あー。俺、コメントとか投げ銭はしたことねーけど……。毎日欠かさず配信聞いてた……」
「……っ!?毎日ですか……?じゃ、じゃあ、憧れの人についても……!?」
「ん?ああ、聞いてたけど」
「ひやぁ!?」
穴があったら入りたいとばかりに、白銀ちゃんは悲鳴を上げた。
憧れの人が男っぽいなとは感じていたけど……。これだけ顔真っ赤にして恥ずかしそうにしているってことは、やっぱり男だったのかよ。
「憧れの人って男?」
「うぅ……。一番聞いてほしくない人に聞かれていたなんて……」
「マジで?」
「ち、違うんです。男性は男性でも、水瀬先輩以外の人ではありませんよ!?私はずっと。水瀬先輩のことをぼかして、視聴者さんに相談していました……」
白銀ちゃんは顔を真っ赤にして目を泳がせている。気持ちを落ち着かせる為だろう。すっかり冷めてしまった紅茶を一気飲みすると、店員を呼んで新しい紅茶を注文していた。
あれ、俺のこと相談していたのか。
あの話を聞いて、俺は投げ銭している奴らのこと馬鹿にしていたけど……。白銀ちゃんがシロガネミーヤと同一人物なら。大金貢いでいる男に刺されるのは俺なんじゃね?
「これってさ、視聴者が配信者と偶然繋がちゃったってことだろ?」
「え、えと。そうなりますね……」
「白銀ちゃんに投げ銭している奴らの中には、白銀ちゃんの彼氏面している奴らもいるわけじゃん。バレたら俺、刺されるよな?」
「ば、バレるわけがありません!顔は隠していますし、声だって変えています!」
「まーな?普段のぼそぼそ話す感じからは一致しないけどさ。そうやって声。張り上げるとすぐにわかるぜ?俺の好きな声」
「うぅ……っ。水瀬先輩。その顔はずるいです……。もっと好きになってしまいます……」
ハートマークが付きそうなほど甘ったるく発言すれば、どうやら白銀ちゃんはお気に召したらしい。
心臓が何個あっても足りないと、テーブルに突っ伏した白銀ちゃんの元へ。先程頼んだばかりの紅茶がやってくる。
白銀ちゃんはぱっとテーブルから身体を上げて紅茶に口付けると、深呼吸をしてからいっぱいいっぱいな様子で俺に圧をかけてくる。
「わ、私!水瀬先輩に思いを伝えるまで、5年近く掛かったんです……!結婚を前提としたお付き合い……っ。やめるつもりはありません……!」
「仕方ねーな。じゃあ、視聴者に見つからないよう隠れて付き合……5年?白銀ちゃん、俺のこと5年も好きなの?」
「は、はい……。水瀬先輩を好きになったきっかけは、お父さんがお世話になった水泳教室に……優秀な生徒が所属しているとかで……。応援に来てくれないかと言われて……お兄ちゃんと一緒に水泳の大会を見に行った時です。水泳教室の優秀な生徒さんよりも、成績は振るいませんでしたが……。引き締まった肉体と綺麗なフォームに目を奪われて……。応援しなければならない生徒さんそっちのけで、応援したのがはじまりです……」
5年前と言えば、俺が中2の時だな。白銀ちゃんは小6か?大きな大会には一通り出場して、万年2位か3位の成績を取っている。うちの家族は絶対見に来ねぇし。俺目当ての観客は、なんかよくわかんねーけど筋肉目当ての男ばっかだしさ。観客席なんて全然気にしてねぇからな……。
白銀ちゃんが俺を好きになったきっかけの大会が特定できないのが悔しくて堪らない。くそ。もっと早く見に来ていることを知れば、もっと前からお近づきになれたのかよ……。人生無駄にしたぜ……。
「一位になれなくてもいいのか?」
「一位ではないことを悔しがることなく。心から、一位の方を……祝福している姿が、とても印象に残っています。水瀬先輩が金メダルを首から下げて、キラキラと輝く姿はもちろんみたいですが……。それは、オリンピックで見せて頂ければと……」
「おお、言うねぇ。俺も気合い入れて、もっと練習しなきゃな!」
オリンピックまでの道のりは、長く険しい。水泳選手として活躍できる時間はそれほど長くないからな。今からだと、オリンピックに挑戦できるのは3回だけだ。日本人のトップスリーにまで上り詰め、代表選手として名乗りあげることは並大抵のことではない。
好きな女の子から、金メダリストになってくれと言われたらさ?なるしかねーだろ。金メダリストに!
「私の話ばかり……なんだか、すみません」
「いや、全然。言いづらいこと話してくれてありがとな」
俺が決意を新たにすると、一通り身の上話を終えて落ち着いたのか。白銀ちゃんは俺に謝罪してきた。気にすることねぇのに。俺がお礼を言えば、白銀ちゃんも嬉しそうにはにかんだ。可愛い。
「で、できれば……。水瀬先輩のお話も、聞いてみたいです……っ」
「俺の話?聞いたって面白くねーぞ?」
「だめ、ですか……?」
「だめじゃねぇけど……」
白銀ちゃんみたいにハードな人生送ってきたわけでもなければ、白銀ちゃんを好きになってから1ヶ月も経っていない男だぞ?大した話は出てこねえのに。白銀ちゃんは目をキラキラ輝かせ、俺へ質問してきた。
「で、では。家族構成からお願い致します……!」
「家族構成は両親と姉貴。俺の4人家族。両親はトレーニングジムを経営中。姉貴は……あー。キャバ嬢。あんま大っぴらに言えるような職業じゃねぇけどさ……」
「キャバ嬢、ですか……。ええと、夜の、蝶々さんですね……!」
白銀ちゃんはパタパタと両手を羽ばたかせてキャバ嬢を夜の蝶々と表現した。めちゃくちゃ可愛いけど、発言内容は可愛くねえんだよな……。
「そ。姉貴、金にがめつくてさ。月20万でなんか暮らしていけないって大騒ぎしたんだよ。高卒からずっとその道一筋。今じゃ往復2時間掛けて銀座まで通ってるとか馬鹿かよ。さっさと一人暮らししろっつーの」
「お姉さんとは、歳が近いのですか……?」
「5歳差だな。俺も、姉貴とはそんなに仲良くねぇよ。あのゴリラ女、ジムで鍛えた肉体ひけらかして、自宅までたらふく貢がせた客を連れ込んで、彼氏面させてやがる。一人二人じゃねえ。酷いときは10人近い人数同時進行してて、同居家族としてはいつ客同士が鉢合わせて流血沙汰になるか戦々恐々としているとこ。あー、早く家出てえな。無料でトレーニングできなくなるのはもったいない気がして、なかなか家出よう、バイトしようって気になんねえけどさ……」
「た、大変ですね……?」
「そう。大変なんだよ。客を連れ込まなくなったかと思えば、キャバ嬢仲間連れ込んでギャーギャー夜中に騒ぎやがるし……。安眠妨害だっつーの。姉貴のせいで、茶髪の女が本気で無理になった……」
茶髪は関係あるのだろうと不思議そうにしている白銀ちゃんは俺の癒やしだ。垢抜けたいからと無理して茶髪にするのだけはやめてほしい。
「あー、いや。茶髪の女が全員無理ってわけじゃねえよ?いいやつもいるってことは理解している。ただ、今の所……俺が知っている茶髪は全員地雷なだけで……」
「……私が茶髪に染めていたら。好きになっては貰えませんでしたか……?」
「そーだな。好みであることは間違いないけど。茶髪がネックになって、告白されても。俺が白銀ちゃんのこと好きな気持ちを伝えることはなかったぜ」
「く、黒髪でよかった……」
白銀ちゃんは心の底から安堵しているらしく、ほっとした様子で髪の毛先を大切そうに抱きしめた。ほんと、仕草がいちいち可愛いな。なんで彼氏いなかったんだ?あ、地味な容姿してたからか……。そうだよな……。眼鏡外して髪の毛解いたら美少女なんて、誰も信じねえって。
「白銀ちゃんの黒髪、よく手入れされていて綺麗だよな」
「あ、ありがとうございます……。私、本当は髪を銀髪に染めたくて。髪を染めると痛むので……。手入れはきちんとしなくちゃと思っていたから……」
「銀髪?なんでまた」
「私の名前。白銀じゃないですか。目を銀色にするのなら、コンタクトが手っ取り早いですけど……。目の中にコンタクトを入れるのは、抵抗があって……。だったら、銀髪がいいかなあと……」
「名前通りの見た目になる必要なくね?どうしてもって言うなら反対はしねえけど」
「お兄ちゃんにもそう言われたので、配信時のアバターを銀髪にしたんです」
「ああ。だから銀髪なのか!」
シロガネミーヤのアバターは全身銀色で統一されたデザインだ。名字も白銀だし、言われるまではそこから取ったのかと思っていた。
白銀ちゃんのあこがれを具現化した存在なのか。シロガネミーヤは。
俺はシロガネミーヤと白銀ちゃんの新たな一面が知れて、気分が高揚するのを感じる。
「なぁ。ずっと気になっていたんだけどさ。ついでだから、名前の由来も聞いていいか?」
「本名と、名字の二文字を取りました。そのままでは面白みがないので、伸ばしてみたんです。お兄ちゃんには、名付けのセンスがないと怒られてしまいました……」
「ちなみに、宮本の配信者名は?」
「金持長男です」
「なんだそれ」
白銀ちゃんの白銀はそのままに、宮本から宮の名前だけとって、間を伸ばしたのだと説明した。宮本の配信名はなにがどうしてそうなったのかよくわからない名前で、頭を抱えたくなってしまう。なんだよ金持長男って。そんな名前で呼ばれて嬉しいのか?
「お兄ちゃんも、自分の名前を入れたかったんだと思います。お金持ちになりたいから金持。長男はそのままで……聞いてみたことはないので、ご興味があるようなら直接聞いてみてください」
「いや、全然興味はねえからいいや」
宮本と俺は恐らく、タイプが真逆だ。何もしなくても筋肉目当てに男が寄ってくる俺と、自分から行動を起こしてもまともに他人との関わりを保てない宮本。この妹あってこの兄ありといいたくなるような兄妹には、決定的な違いがある。
宮本のことはなんとも思わないが、白銀ちゃんのことは愛おしくて堪らないのは。やはり彼女が、俺の好みどストライクの女の子だからなんだろうな。
「夢のようなひと時でした。水瀬先輩と、二人で他愛のないおしゃべりをしながら。カフェでデートが実現するなんて」
俺たちはたくさんのことを話し合い、まだまだ一緒に過ごしたい思いを抑えて帰路につく。白銀ちゃんを自宅まで送り届けて、さあ解散するぞと手を離す前に、彼女は嬉しそうな声を上げた。
「夢なんかじゃねーよ。予定さえ合えば。これから毎週。こうやってデートできるんだぞ?」
「は、はい!嬉しいです……っ」
「デートしすぎて、お互い飽きないように気をつけような」
「あ、飽きたりなどしません!何十回、何百回!何千回デートしたって、毎回喜んで見せます!私は……、将来。水瀬先輩の……っ。お、奥さんに。なる女ですから……!」
「おう。りょーかい、奥さん。将来的には、白銀ちゃんも水瀬を名乗るからさ。下の名前で呼べるようになれよー」
「ひゃ、ひゃい。頑張りまひゅ……っ!」
緊張しているのだろうか。白銀ちゃんは思いっきり唇を噛んでしまい、唇を抑えながら痛がっている。俺の彼女が可愛いくて辛い。唇を手で塞いでいなかったら、キスの一つや二つしてしまいそうだ。
あー。宮本に不純異性交遊はどこまでかって聞くの忘れた。
当然キスも入るよな。いかがわしいことしたら、5000万支払えとか言ってたか?キスは一体いくらなのかは聞くしかねーな。めんどくせえ。
「じゃあ、また来週な。一緒に行きたい所。考えとけよー」
「はい!水瀬先輩!自宅に戻るまでがデートですからね……!?」
それを言うなら、帰るまでが遠足じゃないのか?自宅に着くまで気を抜くなってことだろうけど。俺は不安そうに見つめる白銀ちゃんの頭を撫でてから、その場を後にした。
*7
パシャパシャと水を跳ねる音が、至る所から聞こえる。俺は心地よい水音をBGMに、25mを優雅に背泳ぎで泳いでいた。
誰よりも早くとタイムを競うより。のんびりダラダラ、ラッコのように。プカプカと水に浮かび、練習も終盤に差し掛かった頃から25mを泳ぎ切るのが好きだ。
貴重な練習時間にラストスパートを掛けるチームメイトからは、レーンを占領するなと怒られるけどさ。別にいいだろ。減るもんじゃないし。
そんなんだから万年2位なんだよとか、もっと真面目に練習しろと言われても。オーバーワークで身体壊して使い物にならなくなるよりはずっといいだろ。怒られる基準がよくわかんねー。
「鼓ー!」
プールサイドでチームメイトが俺の名前を呼ぶ。1つのレーンを占領してプールに浮かんでいた俺は、声を張り上げて何事かと問いかける。
「いつまでダウンタイム取っているつもりだ!クロールでもなんでもして上がってこい!宮本って奴がお前のこと待ってんぞ!」
宮本……。宮本!?俺は慌てて背泳ぎからクロールの体制を取ると、バタバタ手脚を動かして水を掻き分ける。
白銀ちゃんが温水プールにやってくることは、そう珍しいことではない。美術部の活動時間まではスタンド席に居て、一心不乱に絵を描いている。気づくといなくなっているので、美術部の活動が終わる時間に引き上げているのだろう。
こんな遅い時間まで残っているってことは……一緒に帰ろうってことだよな?こうしちゃ居られねぇ。さっさとプールサイドに上がり、俺は白銀ちゃんに謝罪しようとスタンド席に目を向け──
宮本は宮本でも、そっちの宮本かよ!
長い前髪で瞳は隠れ、何を考えているかはわからない。ただ、スマートフォンではなく仁王立ちで俺を見つめている辺り──宮本の存在に気づかず普通に部活をしていた俺を見て怒っている。
来るなら来るって言ってくんねーとわかんねーよ!
同じクラスなんだし、教室で声を掛けてくればいいだろ。なんで律儀に俺の部活が終わるまで待っているんだよ……!?俺はぐるぐるとめまぐるしく思考を繰り返し。更衣室まで引っ込むと、急いで着替えて宮本の元へと向かった。
「な、なんで居るんだよ……!?」
「1024万」
「24万?」
「貴様が俺に支払う額だ。時間を無駄に消費するごとに増えていく。覚悟しておけ」
「500万じゃねーのかよ!?」
「告白を受け入れた貴様が悪い」
「意味わかんねー。普通の高校生はそんな大金、ホイホイ稼いで貢げねーから……」
宮本は高い位置から俺を見下して圧を掛けてくる。無言だが、「お前も配信者デビューしろ」と言いかねない雰囲気だ。
そりゃ楽して金稼げるなら俺だってやりてえけどさ……。オリンピックで金メダル取る気で水泳に打ち込むつもりなら、片手まで動画配信とかやっている場合じゃねえだろ?筋トレ風景毎日配信とかで金稼げるなら、一石二鳥だけどな……。
「それにしても、宮本って身長高いよな。いくつ?俺、175cm」
「気にしたことがない」
「マジかよ。白銀ちゃんはちっちゃくて可愛いのにな……。細身で高身長とか、前髪短くしたらめちゃくちゃモテるんじゃねーの?」
「恋愛に現を抜かしている暇が、俺にあるとでも?子ども達二人で生きていくのは、簡単ではない。俺は女よりも生活を取った。今後も女に現を抜かして、生活を疎かにするつもりはない」
「めっちゃ棘ある言い方だな……。俺が白銀ちゃんに現を抜かして、生活を疎かにしているみたいじゃねえか」
「不真面目に生きることは許さん。貴様の稼ぎが薄給であればあるほど、生活苦に陥るのはあいつだ。あいつと生涯添い遂げる気があるのならば、あいつを不自由させないだけの金を稼げ」
「お、おう……」
なんかよくわかんねーけど、圧が凄いんだよな……。
宮本は白銀ちゃんのことを名前で呼んだり、妹と称することがない。低く唸るように呟く声がプールに反響して、何事かとに着替え終わったチームメイト達がこちらの様子を窺っていた。
そういや、あいつらの白銀ちゃんと付き合い始めたこと。まだ言ってねーんだよな……。
俺に彼女が出来たと告げれば。鍛え抜かれた肉体を持つ、ガタイのいい奴らが白銀ちゃんを一目見ようと団体で押し掛けるだろう。白銀ちゃんを怖がらせようもんなら、宮本が黙っていない。俺はチームメイトに口脱されないようにする為、宮本を温水プールから連れ出した。
「宮本がこんな時間まで居るの、珍しくね?」
「……進路相談だ」
「個別の?へー。大変だな。この後、帰るだけだろ?白銀ちゃんのことで話したいことがあるなら、話しながら歩こうぜ」
俺と宮本の帰宅方向は、途中まで一緒だ。宮本の住むマンションまで一緒についていったとしても、俺の自宅に帰る時間が20分程度遅れるだけで済む。無駄な時間消費を嫌う宮本は、俺に小さく頷くと肩を並べて歩き出した。
「こうして並ぶとさ。身長順だと俺がちょうど真ん中なんだよな。160cmくらいの白銀ちゃん、172cmの俺。180cm以上の宮本」
「身長差などどうでもいい。あいつは貴様に、父親の面影を重ねて。好きだと勘違いしているだけだ」
「あー、水泳選手だったって言ってたもんな」
「言葉を交わしてから、そう長い時間は経っていないだろう。どうせすぐにボロが出て、父親との違いに気づいて破局するのがオチだ。貴様は……父親の面影を重ねて探すあいつを……拒絶することなく。受け入れられるのか」
そんなの、やってみなきゃわかんないだろ。1ミリくらいは本気で白銀ちゃんが俺に惚れている可能性だってあるわけだしさ。宮本は一体何を心配しているんだ?白銀ちゃんが傷つかないように俺を牽制しているなら、「お兄ちゃんとは仲は悪い」と説明してきた白銀ちゃんの話とは随分違う印象になるけど……。
これは、直接聞いた方がいいな。
「あのさ。俺は白銀ちゃんから、宮本と白銀ちゃんは仲が悪いって聞いていたんだけど……。宮本ってめちゃくちゃ白銀ちゃんのこと心配してねーか?」
「妹を心配しない兄などいない」
「白銀ちゃんは宮本から……恨まれているって勘違いしているけど」
「なんだそれは」
「……親父さんが亡くなったの。白銀ちゃんを助けたからなんだろ?白銀ちゃんがピンチにならなきゃ、親父さんは生きていたって。宮本が白銀ちゃんに辛く当たるのは、恨んでいるからって言ってたぜ」
「俺はあいつを恨んでいない。両親がいない子どもと馬鹿にされぬように。礼儀正しく、心やさしい娘に育つよう。厳しく接しているだけだ」
「え、マジで。白銀ちゃんのこと恨んでいたり、嫌っていたりしてねーの?」
「俺の妹が、世界で一番可愛いに決まっている」
「お、おう……」
宮本はどうやらシスコンらしい。しかも、本人の前では絶対表に出ないタイプの。めんどくせー。ツンデレかよ。ちょっとでも気に食わないことすると大金ふっかけてくるし、扱いづらいと眉を顰めたら、次はシスコンが発覚するとかますます扱いづらくなってどーすんだよ……。
「貴様が世界で一番可愛い俺の妹にふさわしい男であるかは、俺もこれから見極めてやる。貴様があいつにふさわしい男であると認めるまで、婚姻など許さんからな。覚悟しておけ」
でもまぁ。兄弟仲が悪いってのは、白銀ちゃんの勘違いだってわかっただけでも大収穫か。お互いの言い分をすり合わせるのって大事だな。俺も気をつけよう。
「水瀬、聞いているのか。オリンピックで金メダルを獲得した後、貴様はどのように生活していくのだ。人生設計もしっかり立てて、俺に報告しろ」
「わ、わかった。わかったから、落ち着けって」
「俺は落ち着いている」
シスコンの宮本は俺が水泳で生涯稼ぎ続けられるわけがないと不安らしい。スポーツ選手なんて、現役引退したらただの人だ。ゆくゆくは実家のジムを継ぐなり、水泳の指導者になるなりするんだろうけどさ……。俺は宮本を納得させる為に、年密な人生設計表を作成しなければならないらしい。
宮本を納得させられるようなプレゼンとか。脳筋に作成なんてできんのか?
一抹の不安を感じながら。俺は宮本から白銀ちゃんのどこが可愛いか。これからの生活についての小言を、宮本家のマンションに到着するまで捲し立てられ続けたのだった。
*8
──3月下旬
高校を卒業し、大学入学を間近に控えた俺は白銀ちゃんに呼び出されて顔を合わせていた。
今日は白銀ちゃんが俺をモデルにして描いた絵が美術館に展示される日だ。
飾られた絵を確認するまで、白銀ちゃんも結果はわからないと言っていた。
「名前とタイトルの横に、賞の名前が貼られていたら1位ってことだよな?」
「最優秀賞が1位と同等の賞で、賞金200万円を頂けます。会場では出展された絵が、主催者の決めた値段で売買されるので……。絵の価値がどのくらいなのかも確認するべきポイントです」
「展示されている絵を買えるとかすげーな。美術コレクターみたいな奴らが品定めするってことだろ?すげーじゃん。すげー高い値段ついて、売れているといいな」
「そう、ですね。開場してすぐはそうしたコレクターの方が来場されるので……。この時間なら、ある程度落ち着いて出展作品を観覧できるはずです。売約済みでも、絵自体を見ることはできますから。ただ、販売表示価格が丸々私の懐に入るわけではないので……。その点は注意が必要だと思います」
白銀ちゃんによると、出展した絵画が売約済みになった場合のみ、支払われる画料の説明があるらしい。会場費や梱包費、購入者への対応を展覧会主催者に一任する形になるので、大金が白銀ちゃんの手元に転がり込んで来るわけではないらしい。
シスコンの宮本から、間違いが起きないように2時間で帰宅せよと厳命されている。展覧会は17時まで、現在の時刻は14時。白銀ちゃんの自宅からは往復30分程度なので、あまり時間がない。俺たちはそこそこ急いで、美術館の中へ足を踏み入れた。
「なんつーか、銅像っぽいポーズが多いな……」
局部を隠した状態ならば男女問わないらしく、会場内に展覧されている絵は圧倒的に水着姿の女性がモデルとなった絵が多かった。椅子の上に座り体育座りをしたポーズや、足を大きく開脚したポーズ。女豹のポーズなんかもあり、目のやり場に困ってしまう。女性の胸をいかに扇情的に描くか競っているのかと言わんばかりの絵画ばかりなのだ。
どんなに胸がデカかろうが、モデルとなった女たちよりも。当然、白銀ちゃんの方が可愛いけどな?
白銀ちゃんの絵は浮いているのはないかと不安になってしまう。
「なぁ、本当に俺でよかったのか?」
「は、はい。これほど女性をモデルとした絵が多くなるとは思ってもみませんでしたが……。女性をモデルにした絵では、埋もれてしまっていたと思います。私は、私らしく。水瀬先輩の魅力をたくさん詰め込んだつもりです。このエリアは女性の絵ばかりですが……。男性をモデルにした絵は、別の場所にあるみたいです。行きましょう」
俺が白銀ちゃんと手を繋ぎ。女性をモデルにした絵を見ていると、視線が突き刺さることに気づく。みんな俺と白銀ちゃんを見て、ソワソワしているのだ。女性をモデルにした絵の中には、すでに売約済みと書かれた札が書かれている絵が何枚かあった。この場に訪れて作品を見た客が、俺と白銀ちゃんを見て話しかけたそうにしているってことは……そういうこと、だよな?
「あ、ありました。水瀬先輩。一番目立つ所に展覧されています……!」
白銀ちゃんが歓声を上げるのも無理はない。彼女が俺を描いた絵は、華々しくライトアップされてたくさんの花と一緒に飾られていたからだ。
赤い造花には、長方形の紙がつけられている。紙には最優秀賞、審査員特別賞の文字が記載されており、30万と書かれた値札の上には手書きの紙が大量に重なっていた。どうやら、どんどん値段がつり上がっているようだ。
絵のタイトルは、俺が指定されたポーズと同じ「平泳ぎ」と記載されている。水など一切書かれていないのに、水を掻き分けて背泳ぎで進む。躍動感が評価されたのだろう。俺はまるで自分のことみたいに喜んだ。
「白銀ちゃん、すげーじゃん!なんだこれ。ほんとに俺を描いたのか?」
「も、もちろんです!先輩を描きました……っ」
「俺はこんなにかっこよく泳いでねーぞ?」
「そ、そんなことありません!水瀬先輩はかっこいいです。私の大好きな人ですから……。この会場に展覧された絵の中で。一番ステキだって言ってもらえて。本当に嬉しいです……!」
白銀ちゃんは目に涙を浮かべて喜んだ。当然だよな。最優秀賞だけだってすごいのに。審査員特別賞とダブル受賞だぞ?後はこの絵の付加価値をもっと上昇させる為に。俺がオリンピックで金メダルを取るだけだ。
「白銀ちゃん」
「はい」
「あのさ、俺の絵。また描いてくれよ。白銀ちゃんの為なら、何度でもモデルするからさ。たくさん白銀ちゃんの描いた絵を発表して、価値を上げようぜ。数十万から数百万。数百億で取引されるような有名人に、俺。絶対なってみせる!」
「はい!私、水瀬先輩の絵をたくさん描いて、水瀬先輩の魅力を伝えたいです……っ!」
俺たちは、白銀ちゃんの描いた絵の前で。ひと目も憚らずに抱きしめあった。
*9
──それから、数年後。
お絵描き配信界の有名配信者シロガネミーヤが、数年前にオリンピック水泳の金メダリスト、水瀬鼓を描いた絵を何枚か発表していたと大きな話題になり……。社会価値が生まれ。数百億で取引されたと世間を騒がせる日は、そう遠くない未来に訪れるかもしれない。
『応援してくださる皆様に大切なお知らせ』
そうして世間を騒がせた後、勢い余ったシロガネミーヤの動画配信ページでは、視聴者に大事な報告をする為の動画が配信されるだろう。
『私事ではございますが。動画配信者のシロガネミーヤは、オリンピック金メダリスト。水瀬鼓さんとの婚姻を発表します!』
二次元の美少女キャラクターと、金メダリストの水瀬鼓が二人で並んで婚約を発表する。バーチャルと現実が融合した生配信動画では、ご祝儀と称して。大量の投げ銭が投げ込まれた──。
2023.01.15 21:13 修正