生きる意味について
初めから、生きる意味なんて与えられていないし、存在なんてしていないと分かった。
ずっと、生きる意味を探し続けていた。私たちに与えられた使命は何だろうか。私にしか出来ないことは何か。私の存在意義は何か。探していた。
ずっと、「心」と身体を別にして考えてきた。
いつも、生きる意味を自分の「心」に問うてきた。私の「心」は何を思うべきなのか。考えてきた。
ある日、分かったことがあった。親は、私の人生のことを何も考えずに生んだということ。
彼らの「子どもが欲しい」という漠然とした思いや、彼らの両親の「孫が欲しい」というぼんやりとした思いだったり、あるいは、世間体を保つなどの思いによって生まれた。
申し訳程度に、「優しくなって欲しい」という思いから優介と名付けられた。その10年後、画数が良かったという話があったことも分かった。
結局、生まれ落ちた私の身体には、願いなど何も込められていないということがひとつ。
さらに、もうひとつ分かったことがある。身体と「心」は同じであるということ。
これは常識だった。笑顔になれば気分はいくらか晴れて、悲しければ涙が出る。ただ、私は人生について、一向にこれを認めようとしなかった。
「心」というものは特別なもので、「思い」だとか「気持ち」といったことをとりわけ大切にする教育を受けてきたから、「これだけは確かだ」というものとして私に根を張っていた。
だからこそ、この「心」に、私を定義してくれる何かが眠っているのだと信じていた。
でも、友達と遊んで笑顔になり、擦り傷ができて泣いてしまう。その心と体の積み重ねが人生だとわかった。特別な「心」などは無かった。(そもそも、心は脳みそにあるらしい)
つまるところ、私の身体にないのだから、心に使命などはあるはずも無かった。
私はどうすればいいのか分からなくなった。
生きる意味が無いことは、私が死ぬことを止める理由がないことを意味した。
かといって、死ぬ理由もなかった。
死ぬ事で私にメリットがあるならば、死んだ方がいい。また、逆も然りである。が、それを知る術などないのは考えなくとも明白だった。
生に対しての意味がない上、死のメリットやデメリットも測れなかったので、私は何も行動を起こすことができなくなってしまった。
次に、生きるメリットやデメリットについて考えた。積極的に生きるための「意味」がなくとも、「メリット」があれば、消極的に生きることはできると思った。
でもメリットなんて分からなかった。
生きる利益など想像もつかなかった。
生きて得たものなんて、死んだ後何にでも変わりうると思ったからだ。
ユダヤ教の価値観では、生前に善い行いをすれば、最後の審判の際に、天国へ行けるらしい。
ただ、私は真逆の宗教を考えることも出来た。あらゆる悪行をして法に逆らい、自らの意志を貫いたものだけが、天国へ行けるなんて言い伝えのある宗教があったらどうだろうか。
そもそも、宗教なんて枠に当てはめずとも、死後、どんな行動を基準にして結果どうなるかなんて、無限の場合が考えられた。
私は、何を信じて、何を行ったとしても、それが死後に利益になるか判断できなかった。
私は生きている間だけでも、利益と思えるようなことをするしかないと思った。
失ったものと得たものに対して、得たものが多ければそれは利益だ。
必ず時間は失い、行動によっては他にも失う。
得るものは行動によって様々、捉え方によっても様々。
自分にとって、行動の価値が時間の価値を上回ることが何か分かれば、1歩を踏み出せると思った。