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 井(いど)  作者: 紫李鳥
1/2

前編

    




 昔ながらの井戸ってぇのは風流なもんで、


 『朝顔に釣瓶とられてもらひ水』


  (加賀千代女)


 なんて俳句もあったりして。その上、西瓜やらもぎたてのトマトやら、ビールやラムネやらを冷やしたりと、夏には欠かせねぇアイテムだったわけだが、何も夏に限ったもんでもねえ。


 吹き荒ぶ北風に、(むしろ)をバタバタさせてる井戸や、降り積もった雪ん中にひっそりと眠ってる井戸もまた、おっかねぇぐれぇに絵になるもんよ。





 秋も深まったある日のこと。北国の、とある村を旅の途中にしていた一人の若い男がおりまして。


 観光客なんてぇ上等なもんじゃねぇ。宿の予約もしねぇで野宿なんぞで金を浮かしてる、いわゆる、貧乏旅行って奴だ。




 腹減った男は、なんか食うもんは無いかと、ヨレヨレのぼろっちいリュックの中を手探りしてみたが、チョコレートの一欠片も残っちゃいなかった。


 かといって、近くにコンビニなんてぇ気の利いたもんもねえ片田舎だ。


 はて、どうすっかと思案橋。そこで目にしたのが、野中の一軒家だ。こりゃあ、渡りに船とばかりに喜び勇んだ。


 晩飯代ぐれぇの金はある。何かごちそうになったら金をやりゃあいいや。


 ま、そんな安易な考えだったわけですな。


 もうじき日が暮れるってぇのに、古い家には明かり一つなく、廃墟のように佇んでいた。


 留守でもしてんだろうと思いながら、木製の古びた表札に、〈知名石〉と書かれた家のブザーを押してみた。


ブ~


 だが、家ん中からはなんの応答もねえ。無意識に引き戸に手をやると、


ガラガラ


 と開いた。なんだ、居るじゃねぇかと、戸口に顔を入れるってぇと、


「こんにちは」


 と声をかけてみた。だが、やっぱり何の返答もねえ。玄関を見るってぇと、女物のサンダルが一足揃えてあった。やっぱ、居るじゃねぇかと、


「こんにちは。どなたか居ませんか?」


 と、もう一遍声をかけてみた。しかし、返事がねえ。無断で入るわけにもいかねぇし、どうすっかと思案橋。結局、その辺をウロチョロすることにした。



 家の裏手に行くってぇと、使った形跡のねえ古びた井戸がポツンとあり、その傍にはたわわに実った柿の木があった。


 一個ぐれぇなら頂いてもいいだろうと、適当な熟柿をもぎ取ると、


ガブリッ


「ん~、うめぇ」


 男は満足げに頬張った。と、その時、


「あのう……」


 若い女の声がして振り返った。そこにあったのは、





 暮れ泥む薄明に、淡く仄かに浮かんだ女の顔だった。男が目を丸くしていると、


「……どちら様ですか?」


 女が尋ねた。


 男が事情を話すってぇと、女は快く家に招いた。



 22~3歳だろうか、化粧っけのない顔は地味だが、清潔感があった。入院中の母親を見舞っていたと言う女は、夕飯を作りながら、男が話す旅のエピソードに耳を傾けていた。クスッと笑ったりすると、口許から覗く八重歯が印象的だった。

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