陽炎
その日、朝の訪れと共に手紙が一通やってきた。
差出人の名前は掠れていて、判読はまともに出来なかった。
草臥れたブランコに腰を降ろし、木の葉に遮られた蒼穹を扇いだ。
夏も盛りの7月中旬。名も無い会社の昼下がり。
小高い丘の、寂れた公園。
例年以上の日射が産んだ、陽炎の街を見下ろした。
忙しなく街を行き交う人々。
その背中を、排気ガスに塗れた街路樹が見つめている。
眼下の街に街路樹以上の緑はない。
無表情な灰色の壁だけが隣列している。
「より一層の生産を」
「より一層の向上を」
資本主義が生み出したモノは、そんな感情のない街並みだった。
きっと明るい未来があった。
誰もが笑える世界があった。
───────あったはずだったのに。
雇用に囚われ、賃金に囚われ。
恋愛すら忘れ、夢さえも忘れ。
ただ生きるだけの人形に成り下がった人類を、俺は他人事のように見下ろした。
温い風が啼いている。
今日も何処かで人が死ぬ。
生きる事に疲れたのか。
はたまた全てをやりきったのか。
陽炎に揺らめく街は、きっと明るい未来を見せたいのか。
それが一種の幻覚だとしても、そこにはきっと違う世界があって。
誰もが当たり前に生きている今を。
誰かが生きたいと願った今を。
そんな平凡を大切に思える世界があって。
……そんな事を、思ったりして。
温い風に背中を押され、俺はブランコを漕いだ。
錆びた鉄が干渉し、耳障りな音がする。
思えば、日々の世間の関心は核心から離れていて。
俳優やアイドルが電子的に映し出された画面と。
それに一喜一憂する豚小屋のような世界。
それが今の社会の縮図。
マスコミから餌を投げられ、そこに目を向けるだけ。
きっと本質は別の場所にあるはずなのに。
このままブランコから飛び出して。
眼下の陽炎に飛び込んだなら、新しい世界に行けるだろうか。
誰もが笑い、幸せで、争いのない世界。
そんな世界に行けるだろうか。
見えない重圧に怯えることも無く。
世間の視線に怯えることも無く。
慣性に任せ、ブランコを止める。
ポケットから、角の折れた手紙を取り出した。
四つに折り畳まれたそれ。
「拝啓 10年後のぼくへ」
手紙は、そんな書き出しで始まっていた。
『拝啓 10年後のぼくへ
お元気ですか?
ちゃんと生活していますか?
お父さんとは、仲良くやれていますか?
お母さんには、おん返しできていますか?
はずかしいけど、同じクラスのほのかちゃんと
結こんできていますか?
今、ぼくはとても楽しいです。
10年後も、笑ってすごしていたいです。
ぼくもがんばります。
10年後のぼくもがんばれ!
10年前のぼくより』
「ばかやろう……敬具、抜けてんじゃねぇか……」
無邪気な未来を夢見る過去に、狭間の現在は思わず声を詰まらせた。
そう。
きっと夢見た未来があった。
好きな人がいたのだろう。
楽しい過去があったのだろう。
人には人の価値観がある、と。
そんな言葉を逃げ道にして、俺はここまで生きてきた。
眼下に広がる陽炎が、そんな俺を笑っている。
もう昼も終わる。
胸は張れずとも、見栄を張ろう。
再び俺は資本主義の波に沈んでいく。
生産性の忘れた社会で、精一杯の夢を産もう。
丘を降りる脚は軽い。
───────拝啓 10年前の俺へ
───────その楽しさを、どうか忘れないでください。
何気なく鼻歌を歌えば、その音色は10年前のもので。
変わらない『好き』があるじゃないか。
なんて、面白くもない感想を覚える。
───────両親を、大切にしてあげてください。
───────結婚は…まだ早いと思うな。
───────大きくなったら考えようか。
温い風が啼いている。
昼は終わりと言わんばかりに背中を押した。
───────ごめんな、今俺、本当に辛いんだ。
───────でも、頑張るからさ。
豚小屋の中でも、足掻いてみるから。
死を逃げ場にせず、生き抜いてみせるから。
大切な思いを、どうか忘れずにと願おう。
───────俺も頑張るから。
「─────がんばれ、俺!」
気付けば、そう声を上げていた。
どうかこの思いよ、あの陽炎を超えて行け。
人生半ばで這いずる男の戯言だ。
過ぎ去った時は戻らない。
失くしたものは還らない。
戻れないなら進めばいい。
飛べない俺でも脚はある。
これからの俺の行動が、いつか過去の僕に届きますように。
さぁ、過去と向き合おう。
逃げ続けるのは、もう終わりだ。
ポケットから携帯電話を取り出して、久しく見なかった番号を押す。
通話ボタンを押して、数回のコール。
「─────もしもし?」
懐かしい声に、ふと笑みが零れた。
「やぁ、久しぶり───────」
なぁ、過去の俺。
笑えてるよ、今も。
大変だし、辛いけどさ。
確かに笑えてるよ、俺も。
その日、朝の訪れと共に手紙が一通やってきた。
差出人の名前は掠れていて、判読はまともに出来なかった。
眼下の陽炎は、未だ消えない。
了