フアル天然酵母
イリエル村は典型的な田舎の農村だ。
秋になると麦が生い茂り、黄金色の風景が続くそうだが、今はまだ青々とした麦しか生えてない。
そんな田舎の風景が続く、のどかな村である。
田舎とはいえ、オレを召喚したサーロレア王国が保有する領土の中では安全な方であり、肥沃な大地が続き、山と川、更に森の迷宮と呼ばれる資源の宝庫が近くにある。
国の連中もさすがに勇者の元教師を住みづらい場所に送ったりはしないみたいだ。
……人間と魔族が争っている世界とは思えない平和さだ。
今この瞬間、召喚された勇者と強大な怪物が世界の存亡を掛けて戦っているかもしれない。
しかし……そんな事、ほとんどの者には関係の無い事の様だ。
「あ、姫様」
「これはこれは姫様」
などとオレを呼ぶのはイリエル村の村人達だ。
この地の領主である侯爵から直々に話が行き、イリエル村総出でオレは迎え入れられた。
彼等からすれば、オレに何かあれば自分達の生命が危ういと考えているのかもしれない。
更に言えばオレ自身の容姿、天職もあってか『姫様』と呼ばれている。
正直、元男として姫様と呼ばれるのは微妙な気分だ。
まあ嫌われ者になるよりはマシか。
異世界、それも田舎の農村で嫌われ者になって村八分にでもあったら悲惨だからな。
後はロリコンがいないか注意しなくちゃな。
「ハシドさん、モルさん、こんにちは。今日は山に行っていたんですか?」
この村に住んでいる者のほとんどは村人という天職を持っている。
一部、農夫や鍛冶師、商人、などが少数暮らしているが、九割は村人だ。
ちなみに村長は村長という天職である。
話を聞いた感じ、あまり差がある様には感じなかったが、村長の天職を持っている人が村長をするのが一般的なんだそうだ。
尚、村長の天職を持っている人が二人以上居た場合、現在の村長と血縁が近い方が優先される。
そしてもう一人の村長候補は本人の希望によっては別の村で村長が居ない場合、そちらに移って村長をする、みたいなルールがあるらしい。
近くの村同士で嫁を出し合ったりしているみたいなので、近所付き合いみたいな感じなんだろう。
さて、彼等は背中の籠に果物を入れていた。
この辺りで取れるフアルという果物で、リンゴに似ている。
風味が若干違うが、味もリンゴに近い。
「そうだ、です。姫様、受け取ってくれ、さい」
変な敬語でフアルを渡された。
ここに来て一ヵ月程だが、相変わらず特別扱いを受けている様だ。
とはいえ、この辺りではお裾分け文化が根強い様で、余った物はすぐに周囲へ配る。
オレも後で何か配らないといけないな。
もらってばかりの奴は総じて嫌われるものだ。
つまり互いに与え合う関係が良いという事だな。
「ありがとうございます。大事に食べさせてもらいますね」
そう言ってお辞儀し、オレは生活用アイテムボックスのスキルを使用する。
するとオレの手元辺りの空間が歪み、穴が現れた。
穴に受け取ったフアルを入れていく。
そして全部入れ終わると生活用アイテムボックスを解除した。
「いやー、便利だなー、です」
「さすが姫様だ、です」
「そんな事ないですよ~」
極普通の村人的には生活用アイテムボックスでも凄いスキルに分類されるらしい。
オレも初めてこのスキルを使った時はビックリしたものだ。
しかし、オレの教え子達はアイテムボックスなるスキルを所持していた。
そのアイテムボックスというスキルはオレの生活用アイテムボックスと違い、中の時間が経過しない。
入れた物は入れた時と同じ状態を維持して取り出す事が出来る。
逆にオレの生活用アイテムボックスは時間と共に中も時間が過ぎる。
なので新鮮な物を入れて何日も経つと腐ってしまう。
完全に下位互換である。
まあそんな卑しい劣等感もこの村では刺激されない。
村人達のほとんどはアイテムボックスを使えないし、使えたとしてもオレと同じタイプだ。
しかもオレに比べて入れられる量が少ないので、多少の優越感に浸る事も出来る。
「それではあっし達はここで」
そう言って二人は去っていった。
まだまだぎこちない雰囲気だが、悪意は感じられない。
これから長い付き合いになるだろうし、がんばって付き合っていこう。
「……」
さて、今日はどうするかな。
実の所、暇だったので何も決めずに家を出て来たのだ。
子供心に身を任せ、肉体年齢に合わせて少年少女達と遊ぶのも悪く無いが、子供達にまでオレへの姫様扱いは広がっている。
子供に気を使わせるのはアレだろう。
そうだな……果物をもらったし、天然酵母でも作っておくかな?
昔、母さんがまだ生きていた頃、パン作りが母さんの趣味だった。
最初の頃は市販で売られているドライイーストを使っていたのだが、パン作りにハマった母さんは自作の酵母を使い始めたんだ。
その頃は『へ~……』程度の反応をしたオレだったが、この村に来てからその事を思い出し、パンを自作する様になった。
というのも、この辺りの飯は不味い。
オレの生徒達は中世中世と喜んでいたが、文化体系的に完全な意味での中世とは言い難い。
これでもオレは世界史の教師だったからな。
その辺りのこだわりはあるつもりだ。
どうにも、この世界はスキルや魔法という文化がある影響で、中世後期程度には食文化が進んでいる。
それも都市部、王城なんかの話ではあるんだが。
しかし、全体的な文化としては中世前期から盛期をうろうろしている感じだ。
この村でもパン食が基本である辺り、食文化は中世後期ぐらいは進んでいる。
まあ中世前期の農民みたいに、麦の粥と野菜片のスープなんて物を食べる生活じゃないのはありがたいが。
「おっと……酵母か」
パンを作る上で重要なのは酵母だとオレは考えている。
残念ながらドライイーストなんて便利な代物はこの世界には無かった。
いや、探せばあるのかもしれないが、昔の偉い人みたいに自分で見つけなければいけない。
王城で出されたパンはかなり工夫されていて美味しい物だったが、この村で食べられるパンは天然酵母さえ使われていない。
所謂、自然発酵パンである。
もちろん自然発酵パンも決して悪い物ではないが、自分の手を加えられるという意味では酵母から作る事を勧める。
ついでを言えば、この刺激の無いのどかな農村における暇潰しも兼ねている。
暇も潰せて美味しい飯も食えるのだから一石二鳥だ。
「……」
オレはぼーっと農村を歩きながら生活スキルEXと生活魔法EXを起動した。
生活スキルは生活における効果が上昇する、という抽象的なモノだ。
そんな抽象的なスキルだが、この世界に来てから何度も繰り返し調べた所、いくつかの効果を発見している。
例えば掃除だ。
このスキルを起動しながら掃除をすると、使用していない時よりも汚れが落ちやすくなるし、手際が良くなる。
専門に掃除のスキルがあるので、本職には負けるのだが自分の家を掃除する程度であれば十分役立つ効果だ。
比べて生活魔法はかなり優秀だ。
オレの少ない魔力でも使用出来るんだが、マッチ位の火を付けたり、少量の水を凍らせたり、扇風機ぐらいの風を起こしたり、物を浮かせたり出来る。
先程の生活スキルと併用すると浮かせた雑巾で掃除、なんて事も出来るのだ。
……本当、戦闘では役に立たないよなぁ。
まあいい。
オレは村人姫。ワンランク上の村人だ。
なんせスキルの語尾に『EX』が付いているしな。
EXという表示はまあ、凄い、位に考えた方が良い。
これが火属性魔法EX、とかだったのなら強力な魔物や魔族も軽々と火達磨に出来るのかもしれないが、オレのは生活スキルと生活魔法のEXだ。
精々異様に生活しやすくなる程度のものだ。
実際、生活魔法で消費する魔力は微々たるもので、息をしているだけで全回復する。
それこそずっと使用していても魔力は尽きない。
まあ端的に言えば魔力で使う事の出来るコンロや冷蔵庫、洗濯機みたいなスキルだ。
さて、最近気付いたのだが、実はこの生活スキルと生活魔法は生活用アイテムボックス内でも使用可能だ。
この効果を用いて 天然酵母を作ろうと思う。
まず、フアルを生活魔法で皮付きのまま裁断する。
切り分けたフアルを一個取り出して……口の中に入れた。
果物特有の甘い味がする。
……いや、なんか食べたくなっただけだ。
これは天然酵母作りとは関係無い。
生活魔法で生活用アイテムボックスに入れてあった井戸水を沸騰させる。
水が沸騰したら、その水を生活魔法で冷やす。
これまたちょっとした冷気しか出せないので、水が常温になるまで待つ。
水が常温になったら生活用アイテムボックス内に狭い空間を作成する。
そこに切り分けたフアルと常温になった水を入れて密封。
温度は……母さんは冷蔵庫に入れていたはず。
それ位の温度にしておこう。
さて、オレは魔力が低く、生活魔法しか使えないが、分類上であれば全属性に適性がある。
戦闘に使う事は不可能だが、生活カテゴリーであれば時魔法も使えるのだ。
もちろん生活用アイテムボックス内以外の所だと使えない。
世界や生物、自然現象にも魔法には耐性がある様で、オレ程度では時間を制御する事は出来ないらしい。
しかし、自身の領域内であれば使用出来る。
とは言っても停止する事は出来ない。
時魔法には逆行、停止、減速、加速の四種類があるそうだ。
生活魔法EXにおける時魔法はこの内の加速しか使う事が出来ない。
もしも停止を使えたら結果的に生徒達と同じアイテムボックスの効果になったんだが、世の中そう上手くは行かない様だ。
オレは生活用アイテムボックスの中にある酵母の時間を二日進める。
すると水と切り分けたフアルを入れた空間で少しだけ泡が発生していた。
ここで温度を……25度に変更。
再度生活用アイテムボックス内の時間を経過させる。
一週間程進めた所で、内部が泡立っているのが確認出来た。
これで酵母液の完成である。
「うん」
リンゴとお酒っぽい匂いがする。
酵母液は上手く出来上がっている様だ。
ここで新しい空間を作成。
事前に生活用アイテムボックスに入れてあった全粒粉と酵母液を投入し、生活魔法で風を発生させ、ミキサーの様に混ぜまくる。
そして再度時間を7時間程経過させると体積が二倍になった。
ここで温度変更。冷蔵庫ぐらいに調整。
時間を24時間程進める。
全粒粉と酵母液を足して、同じ様に混ぜる。
温度を25度に変更し、7時間経過させて二倍の大きさになったら再度温度変更。
以下、何度も繰り返す。
結構面倒臭い。
母さんはよくこんなのを魔法も使わずに出来たよな。
いや、逆に必要な手順が少ないから出来たのか?
ともあれ、何度か繰り返した所でやっと天然酵母の元種が出来た。
さて、天然酵母の元種が出来たので、後はパンを作って焼くだけだが……もう一工夫欲しいな。
またの名をもう少し暇を潰したい。
う~ん……そうだ。パンに胡桃とかを混ぜるのはどうだろうか?
胡桃を取りに行くとそれなりに時間を消費するだろうし、何より採取先は迷宮の森だ。
それに村の連中にお裾分けのお返しをしたいから丁度良い。
オレはそう決めて、迷宮の森に向かう事にした。