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ろくでなし  作者: 藤本諄子
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第九章

第九章

銀杏の葉が黄色くなり始めた季節になった。同時に、秋雨前線が、雨をよく降らす季節でもあった。一日中ぐずついて、まともに晴れる日は少なかった。

その日も雨が降っていた。健太の夏休みも終わって、学校が始まった。健太は、志望大学ではなかったとしても、勉強に打ち込むようになっていた。その日も遅くまで補習を受けて、

帰ってきたときは夜の九時を過ぎていた。

健太は、家族とともに暮らしていたが、家族も健太がこのごろは勉強にしっかり打ち込んでいるので、入学したばかりのころと比べて、文句を言わなくなっていた。健太は、家族が用意してくれた夕食を食べて、食べ終わるとすぐに風呂に入り、自室に戻って寝た。

不意に目を覚ました。雨がものすごく降って、屋根をたたきつけていたのだ。起き上がって、枕元にある時計を見ると、二時五分を指していた。すると、誰かが自分の名を呼んでいる声がする。振り向くと、人が一人立っていた。こんな時間になんだと言おうとすると、その人は、

「今日はどうしても返してください。」

といった。聞き覚えのある嗄れ声であった。誰だと思って顔を見ると、尋一であった。

「あの時の十万をどうしても返してください。」

尋一はもう一度言った。健太は、返答しようと思ったが、失声症のために声を出すことができないことを忘れていた。金魚のように口を動かしたがどうしても声が出なかった。尋一は、そんな健太を馬鹿にするというか、あざ笑うかのように笑みを浮かべた。

と、そこで雨の音が止まった。なんだとおもったら、自分は布団の上で、仰向けに寝ている。つまり、夢を見ていたのである。なんだ夢か、とおもった健太は、そろりと起きだして、服を着替えだした。

しかし、健太はそれ以来同じ夢を毎日のように見るようになった。いつも夜の二時ごろに目が覚めて、尋一が現れ、どうしても十万を返せという。その顔とその嗄れ声は、まさしく死に際の顔と言ってよく、誰が見ても恐ろしいものだった。これが一週間続いた。

愛子は、時折健太にメールを送ったが、返事は全く来なかった。失声症がある以上、電話をすることはできなかった。もっと有名な治療者に相談しようと持ち掛けたが、健太はきっぱりと学業に専念したい、と、筆談を通して宣言し、それ以来愛子のもとには現れなかった。

美栄子は、尋一の世話係として毎日来てくれて、料理や掃除などをしてくれたし、和美も自身で作ったが作りすぎてしまったと言って、食べ物をもってきてくれた。しかし、それは自分のためではなく、尋一のためであるということはすぐわかるので、愛子は腹が立った。

それにしても、メールが来ないのはどういうことなのか。愛子は理由がわからなかった。ある時、メールを送ろうとしたところ、送信アドレスが無効と帰ってきて、LINEなどのSNSもすべてブロックされてしまった。これで健太との連絡は一切できなくなってしまったのである。怒り経った愛子は、尋一の部屋に行った。

「どういうこと、これ!」

ちょうど、美栄子が食事を片付けているところだった。

「どうしたんですか?」

尋一の代わりに美栄子がこたえた。

「あなたの出る幕じゃないでしょ。」

「いいえ、私が代わりに答えますから。何かあったんですか?」

「あなた、赤の他人のくせに、そうやって私たちの間に入るのはやめてくれない?」

ところが、美栄子はまるで尋一の親のように愛子を見た。

「赤の他人なのかもしれませんが、私は、彼に生きていてほしいから来ているのです。もし、そうでなかったら、こちらを訪れることはしませんよ。」

「へ!何よ、最初はいやいやながらやってた人がそんな偉そうなセリフを吐くの?」

「そんなことありません。まず、何があったか、あなたが説明するべきでしょう。いきなり、怒りをぶつけるのは、彼の体調上よくないんじゃありませんか?」

「あなたも、もしかしたらグル?健太さんから連絡が来ないのよ。」

「いいえ、私は何も知りません。もともとセラピストはクライエントの生活に関わってはいけないという決まりがあるのです。」

「そんなことはないわ。これまでの連絡はどうしていたのよ。」

「ああ、私は電話番号しかしりませんよ。」

「は?電話はできないはずなのに?」

「SMSという手があるでしょ。私は、スマートフォンをもっていないので、メールも短文しか打てないし、フェイスブックのようなものも使えないから、それしか聞かなかったのです。」

「だったら、彼に今どうしているのか聞いてちょうだいよ!」

「いいえ。お断りです。だってあの時、学業に専念したいといったじゃありませんか。だから、邪魔したくありません。」

美栄子はいつの間にかこの家の住人のような顔をするようになっていた。愛子はそれに嫌悪の情を抱いた。

「あなた、この家の住人でもないのに、偉そうなこと言う筋合いはないわ。」

「そうかもしれませんね。でも、この方のそばに誰が付いてやれるのですか?」

美栄子は尋一に目配せした。

「一人で何もできないって、かわいそうなことはないですよ。彼は誰かが手伝ってあげなければ、生きて行かれないんですから。」

「そう!生きている人間より、生きるしかばねのほうが大切なわけ!私のいうことは通らないで、この人のいうことは通るんだ。まったく、年寄りってのは、そういうところが強すぎるから困るわ。」

愛子は、そういうと、ふすまをピシャンと閉めた。しかし美栄子はすぐにふすまを開けた。

「どこへ行くんです?」

「どこだっていいでしょ。」

「それはなりませんね。必ず帰ってきてくれないと。」

「それはなりませんねって、あんたがやってくれればいいのよ。あんたのほうが、知識もあるし、技術だってあるわ。できる人にやらせておいて、できない人はさっさと引き下がるべきじゃないかしら。」

「愛子さん、あなた、いつまでも自分のわがままを押し通し続けるものじゃないわ。」

「うるさいわね!あんたは恵まれているんだから、それを私たちに寄付してもいいのよ!」

愛子はカバンをもって出て行ってしまった。美栄子は大きなため息をついたが、すぐに気を取り直して、尋一のもとへ戻っていった。

「ごめんなさいね。汚いところ見せてしまって。今お皿を片付けますから、、、。」

と美栄子は言いかけたが、すぐに表情を変え、電話台に直行した。尋一の顔は蒼白であり、マッチ棒のような左手で胸を押さえながら苦しんでいる。

美栄子から連絡を受けた和美は、仕事などそっちのけで大雨にふられながら、尋一の部屋に飛び込んだ。ちょうど医者がやってきて、診察しているところだったが、正面衝突しそうになったほどだった。

「尋一、わかるか、俺だよ。まだ早いぞ!しっかりしてくれ!」

と言ってその肩に手をかけた。

「和美か、」

ひどくしわがれた声が返ってきた。

「そうだよ。だから俺を裏切るのはやめてくれよ!」

和美が思わず涙を浮かべそうになった時、下駄の音がして亜希子も駆け込んできた。

「店長さん私、亜希子です!」

亜希子は長じゅばんのままだった。きっと勤務中だったのだろう。しかし、誰もそれを責めることはしなかった。医者が、片腕の和美を尋一から引き離して脈をとり、

「あの、皆さんお揃いで?」

といった。

「いえ、あと、彼の奥様がいますけど、でも、」

「先生、その必要はないんです。」

美栄子の言葉をさえぎって亜希子が言ったが、

「必要ないって、大切なご家族ですから、早く連絡をしてください。」

医者のその言葉に、誰もが今から何が起きるのかわかった。雨はさらに激しく強くなっていく。

「きっと、傘を持ってないだろうから、戻ってくるんじゃないのか。」

和美は吐き捨てるように言った。

そのころ愛子は、繁華街をうろうろ歩いていたが、車軸を流すような大雨に、嫌気がさしていた。すると、夏でもないのに大雨洪水警報が出たという放送があった。それでも愛子が繁華街を歩いていると、店を閉めにシャッターを下ろしにきた八百屋の店主が、

「あんた、早く家に帰りなよ。そのうち、川が氾濫するかもしれないぞ!」

と逼迫していった。愛子は反論したかったが、そうなりかねないすごい雨だったので、八百屋のほうが正しいなと感じ取り、八百屋に礼を言って、仕方なく家に向かって歩き出した。

和美たちが、涙をこらえている間、尋一は切迫した呼吸になった。声をかけても反応をしなくなって、美栄子や亜希子は涙を流し始めた。

と、その時、ガチャンと玄関の戸が開く音がした。

「ただいま、、、。」

愛子が戻ってきたのである。

「おい、尋一、しっかりせい、愛子さんがもどってきてくれた。今呼んでくるから、もうちょっと、頑張ってくれ、頼む!」

玄関先に、医者の靴と草履と下駄があるので、愛子にも何があったのかすぐわかった。部屋に入るとふすまはあけっぱなしになっていて、和美たちが尋一の周りを取り囲んでいるのが見えた。

「来てくれ、早く!」

和美の声に合わせて、愛子も尋一の部屋に行った。このときばかりは美栄子が愛子のためにスペースを作ってくれた。そして、尋一もうっすらと目を開けて、愛子が来たことを確認したようである。

「尋一、」

愛子は言いかけたが、尋一の顔は喜びの顔に変わった。

「お加減はどうですか?」

医者が静かに聞くと、

「もう、何も、、、。」

尋一は細い細い声で言って、愛子に笑いかけ、右手をさしだした。和美がほら、と愛子にも手を出せと合図したが、その手はつかむことはなく、畳の上に落ちた。

「尋一、まだ早いぞ!おい、お前嫁さんを残してどうするんだ、それにまだ、やることはいろいろあるじゃないか!」

和美が怒鳴っても、尋一は反応しなかった。亜希子がわっと泣き出し、美栄子が泣いている彼女の肩をそっと抱いてやった。医者が、何か言おうとしたが、

「その言葉はやめてくれ!俺は聞きたくない!」

と、和美は怒鳴りつけた。何も言わなかったのは愛子だけであった。

何も知らない健太は、大雨が降っていたその日も大学から家に帰ってきて、また風呂に入り、布団に入って寝た。というより寝ようとした。明日は大切な中間試験の日だったので、何とか寝ておきたいと思った。

また、目が覚めた。その日はいつもうなされる悪夢はなかった。目が覚めると気持ちのいい青空で、大雨警報は解除されていた。もうこの夢にうなされることはないのかと少し安心した。いつも起きるじかんより、一時間ほどはやかったが、中間試験の日であるから、勉強をしておこうと健太は服を着替えた。と、そこへ母親が入ってきた。

「ケンちゃん、あんた、藤井さんという友達がいたの?」

健太が、手を動かそうとしていると、

「あのね、藤井さんのご主人の尋一さんが亡くなったみたいよ。葬儀までじゃなくてもお通夜くらいは出てもらいたいって、今、電話が。」

と母親がさらりと続けたので、健太は目の前がまっさおになり、声にならない声で叫び声をあげ、カバンも持たず、靴も履かずに家を飛び出した。家族が追いかけているのも、何か呼んでいるのにも気が付かなかった。そのままイノシシのように踏切に行った健太は、声の出ない声で、

「神様、お許しを!」

と叫び、急行列車に飛び込んでわからなくなった、、、。


和美が葬儀社を呼んだ。葬儀社はすぐに来てくれて、まもなく和美のたっての希望で、尋一の遺体に経帷子を着せ、納棺の儀を始めることにした。納棺士が、尋一の遺体を持ち上げると、

「な、なんだこれ!」

という言葉が出るほど尋一はやせ細っていた。

「だから黙ってくださいよ。この人はちゃんとわけがあるんですから。普通の人と極端に重さが違っても、びっくりしないで下さい。」

和美が説明しても納棺士たちは、驚くばかりだった。

「医者がいてくれれば、説明できるんだけどな。」

「し、しかし、尋常じゃありませんな。戦時中とたいして変わらないような気がしましたよ。」

「だってあんた、戦時中を見たことないだろ?」

「そうですけど、たとえは例えです。だって、こんなにもひどい痩せ方をしている人は、私が、納棺士を20年やってきても、例のないことです。」

「ああ、もう!つべこべ言わずに早くやれ!」

「は、はい、、、。」

しかし、驚いているのは、納棺士だけではなかったらしい。美栄子もその体を見て、何か感じとったようである。

「単に、心臓の持病だけではなさそうね。何かわけがあったのかしら。」

愛子は美栄子をにらみつけたが、美栄子はかまわず続けた。

「私も戦争を経験したわけではないわ。でも、これは尋常じゃないわよ。」

「ご飯食べてなかったんじゃないですか?美栄子さんが来る前は。」

亜希子が口をはさんだ。

「だってこれ、餓死寸前みたいな感じですもの。単に心臓が悪いだけでもなさそうです。それに、心臓が悪くても、きちんと病院へ行っていれば、こんな若くして亡くなることもなかったのではないでしょうか。今はいい薬もあるし、いい医者もいるし。ねえ、和美さん、和美さんは病名知ってます?」

「うん、単心室症ってわかるかな?」

「知りません、私。」

「あのね、心臓って、二つの心房と二つの心室とあるんだよな。それは誰でもそうだけどさ、でも、尋一は生まれつき心室が一つしかなかったんだ。つまり、一人の作業員が、二人分の仕事をしているのと同じことだよ。だから、当然疲労するよな。そうなると、胸に激痛が来たり、呼吸がしにくくなったりするんだって。」

そんなこと、尋一本人からは一度も聞いたことはない。

「で、和美さん、それは治るものなんですか?」

「まあ、治るということはないけど、手術をすれば、かなりいい線まで回復するらしいぞ。」

「じゃあ、寿命は延びているのですか?」

「平たく言えばそういうことかな。かなり年をとっても元気でいるひとも今はいっぱいいるらしいぞ。」

「単心室症か。」

と、美栄子が何か考えながら言った。

「子供のころからそれがわかっていれば、あれは特定疾患の一つじゃない。医療費だって申し込めば、少し控除してくれるはずよ。そうすれば、治療だってできるし、手術も受けられたはずなのに、なぜ、こうなるのかしらね。」

「ちょっと待ってよ!みんな、推理小説みたいなことをしてるけど、今はこの人の葬儀の準備をしているんだから、そんなことを話している暇はないんじゃないの?」

愛子がそういうと、

「悲しいんだからこそ、誰かとしゃべりたくなるもんだよ。」

和美がそうかえしてきたので、愛子は発言するのをやめた。そうしているうちに、納棺は完了した。

「はい、できましたよ。これで納棺の儀は完了です。どうでしょうか、式場を手配しましょうか?」

「あ、おねがいし、、、。」

と愛子は言いかけたが、

「いや、最後までこの店にいたいと思いますし、さほど参列者も来ないと思いますから、ここでやったほうがいいでしょう。彼は、儀式的なことが嫌いな人ですから。」

と、和美が訂正した。

「菩提寺なんかは、僕が手配しますから。」

これを聞いて、愛子はえっ!と言いかけて周りを見た。みな、和美の意見に賛同する目つきをしている。

「どうしたんですか、愛子さん。」

和美が聞いてきたので、

「まって、葬儀は式場でやって。この店に葬儀のにおいが付いたら、売り上げは落ちるわ。」

愛子は急いで返した。

「いいえ、私は自宅でやるべきだと思う。だって、彼はきっと、本当ならもっともっと長く生きられたはずだし、この店をやっていきたかったんだと思う。だから、最期の最期まで、この店にいさせてやりたい。」

美栄子もそう意見を述べ、亜希子さえも、

「なんか、式場を借りちゃうと、この店の店主さんであることから引き離されて、店長はがっかりされてしまうと思います。」

と発言した。愛子は、娼婦の女にそのような発言をする権利はないといいたかったが、

「自宅でという意見が多いので、こちらにしましょう。確かに商売をしている方は、店が一番の財産であるとはっきり主張しますし、これまで納棺をしてきた方で、店を心から愛しても、店がどうなっているのかわからずに亡くなってしまった方も多いですからな。店で息を引き取れるなんて、今時珍しい話ですからね。」

と、納棺士がまとめてしまったので、発言はできなかった。

「じゃあ、僕が菩提寺に、すぐやってくれるかどうか、連絡してみます。」

「あ、和美さん、連絡なら私がする。だって、スマートフォンは持てないでしょ?番号を言ってくれれば、私がするわ。」

愛子は、美栄子たちが自分のことを邪魔しているように見えた。しかし、菩提寺の番号など、愛子は全く知らなかった。

「じゃあ、美栄子さん、ここへかけてみてくれませんか。」

和美は申し訳なさそうに、携帯電話を取り出した。片腕であるから、スマートフォンではなく、携帯電話を所持しているのである。実業家がそんなもの、と愛子は馬鹿にした気分だっだ。

「わかったわ。」

和美から携帯電話を受け取った美栄子は、ダイヤルを回して、電話をかけ始めた。

と、そこで亜希子が咳をした。

「どうしたの亜希子さん。」

和美が聞くと、

「いえ、なんか風邪っぽくて。私、風邪をひきやすいタイプなので、風邪薬をいつも持ち歩いているのですが。」

と、答えた。

「和美さんちょっと、電話を手伝ってくれる?」

美栄子が言うので、和美は

「愛子さんに水をもらって、飲ましてもらえ。」

とだけ言って、美栄子と一緒に、電話をかけたり切ったりしながら、葬儀の日程や払いの膳の内容などを決め始めた。

「ちょっと、コップかしてくれませんか?」

と、亜希子が言った。亜希子に、あまりこの家に入ってほしくはなかったが、亜希子の顔が熱っぽく見えたので、風邪を持ち込まれては大変だと、愛子は彼女を台所へ案内した。






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