4. キャンバスの魔術師、ネコ吉の罠に嵌る
「それでね、楠村先生が言ってたの! 卒業して5年ぐらいでなくなっちゃって、とても残念だったって!」
「へえぇ……」
放課後の1年D組で、ひときわ高い声が響く。桃花の声だ。
光之介はその声の主に向かって、何の感情も篭らない返事を返し続けていた。
光之介が1年D組に入ると、教室内にいた女子たちから「キャー!」という悲鳴が上がった。
校内一の人気者が何の関係もない自分たちのクラスに現れたのだから、驚くのも無理はない。そして、この女子たちの反応が普通なのだと光之介は思う。
しかし、今回の騒ぎの元凶である女子2名は普通ではなかった。
光之介が近付いていくと、桃花はセットになった色鉛筆を、真夜は黒のマジックを顔の前にかざして、待ち人を歓迎したのだった。
「だから、あたしが頑張ってカテケンを復活させて、楠村先生を喜ばせてあげようと思って」
「桃花、ネコ吉の肉球の色がはみ出してるわ」
「そしたら、楠村先生もあたしのこと好きになってくれるんじゃないかって!」
「ふふっ。桃花ったら、ネコ吉のヒゲがお腹に生えてるわよ」
「それで楠村先生から愛の告白を受けるの! きゃああぁぁぁ!」
3人以外の生徒がいなくなった教室で、家庭科研究部の部員募集を呼びかけるビラの作成が進められていた。
他の生徒は光之介のことが気になるようだったが、この場で直接桃花や真夜に詳細を尋ねる者はいなかった。3人の邪魔をする勇気はなかったようだ。
チラチラと教室の外からしつこく観察を続けていた生徒もいたが、しばらくしたら姿を消していた。
おそらく明日の朝、クラスメイトたちがこの2人に事情説明を求めて殺到するだろう。
桃花は紙にネコのキャラクターを描きながら、家庭科研究部を立ち上げるに至った経緯を説明し始めた。もちろん、光之介からは尋ねていない。
想いを寄せる楠村の話をする度にその妄想が広がるのか、興奮するせいでイラストが無残な姿になっていく。そのイラストに、真夜が律儀に修正を加えていた。
他の女子に比べ、この2人は格段に可愛い。
高校生には見えない小柄な体型に、くりくりとした大きな目。ポンポンゴムで結んだ短いツインテールも、幼さの残る顔立ちも、無邪気に笑うその声も、彼女の可愛らしさを引き立たせるものだった。
天真爛漫な少女。それが桃花に対して抱いた印象だった。
対する真夜は、正統派美少女だ。
少し下がった目尻に、深い色をした大きな瞳。黒く艶やかな髪も、ふっくらとした頬も、笑みを湛えた桜色の唇も、彼女の美しさを一層際立たせている。
清純派アイドルとして活躍していると言われたら、思わず信じてしまうかもしれない。
見た目に関しては2人とも完璧だった――そう、見た目だけに関して言えば。
「楠村先生のために、カテケンを学校一の部活にするんだから!」
「そうね、私も桃花のために全力で頑張るわ」
ピンクの色鉛筆を振り上げて、桃花は高らかに宣言する。
恋する乙女は暴走機関車。楠村に対して激しい恋情を抱く桃花には、そんな言葉が相応しい。
それにしても、暴走を通り越して成層圏まで突入しそうな勢いだ。
そんな友人に対し、真夜はにっこりと微笑んで賛同した。
真夜という少女は、友人に優しすぎるのではないか。光之介は密かにそう感じていた。先ほどから甲斐甲斐しくビラの絵を直したり、桃花の描く絵を褒めているのだ。
曲線と楕円形の集合体にしか見えない図形も、楠村をモデルに描いたものだと真夜は一発で当てていた。さらには、その不可思議な模様を素敵だと絶賛していた。
そんな一風変わった彼女たちのやり取りを眺めながら、光之介はビラに書かれた文字を黒のマジックで縁取る作業を進めていた。
桃花の話を聞くに家庭科研究部というのは、楠村が生徒としてこの学園に通っていた頃に存在していた部活らしい。
あの楠村が、西尾ノ宮学園のOBだったことには驚いた。それ以上に、裁縫や調理を主な活動とする部活に所属していたという事実が衝撃的だった。
あのくたびれた中年サラリーマンのような数学教師からは、想像もつかない過去だ。
「そうだ! 吉良さんもネコ吉描いてよ!」
今までの会話の流れを無視して、突然桃花が光之介に話を振った。会話と呼べるほど、内容のあるものでもなかったが。
思わぬ振りに、光之介は「はぁ?」と言いかけて止めた。一番目立つ『家庭科研究部 部員募集中!』という文字を装飾していたところだった。
最後まで言わなかったのは、自分のイメージを崩すことを恐れたからだ。常に心に余裕を持ち、冷静さを忘れることなかれ。これが光之介の信条である。女子からの依頼に対して、「はぁ?」などと不躾な返答をしてはいけない。
そうだ。今までペースを崩されっ放しであったが、自分はパーフェクトなイケメン男子高校生なのだ。
こういう場合は軽く笑みを湛えて、『いいぜ』とクールに答えるべきである。
「いいぜ、ネコ吉ってのはどんなキャラクターなんだ?」
口の端を軽く上げ、切れ長の目を少し細めて光之介は答えた。
いつもならば、この笑顔で女子生徒の大半が興奮の声を上げる。彼女たちの目には、光之介の周りにキラキラした星が見えているのかもしれない。
しかし、目の前の2人はやはり普通の女子とは異なる存在だった。
光之介の問いに、真夜は使っていた下敷きをサッと上に掲げた。その下敷きに描かれていたのは、片手を上げて挨拶をするでっぷりとした白いネコの絵。その隅の方に『チィーッス!ネコ吉』という文字が載っていた。
桃花がビラに描いていたネコは、この『チィーッス!ネコ吉』というキャラクターだった。
光之介は詳しく知らなかったが、このネコ吉はファンシーグッズでとても人気のあるキャラクターである。ただただ軽い感じで挨拶をしているだけのぽっちゃり系白ネコだが、小学生から大人の女性まで幅広い層から愛されている。
「へぇ、こいつがネコ吉か。オレに任せな」
光之介は良家の生まれではあるが、敢えて粗野な口調で話す。あまり堅苦しい口調だと、近寄りがたい印象を与えてしまうからだ。
クールで心優しい完璧イケメンとしては、周囲に与える印象にも気を遣わなくてはならない。
真夜から下敷きを受け取って、光之介はネコ吉のイラストを入念に観察した。
複雑な絵柄ではない。ふくよかな体に、シンプルな顔。難しい模様もなく、至って分かり易いキャラクターだった。
芸術面に関しても他者より秀でている光之介ならば、簡単に真似できるレベルだ。
作成途中のビラに光之介は鉛筆で軽く下書きして、色鉛筆で素早く色を塗る。最後は黒のマジックで輪郭をなぞって完成だ。
先ほどの「オレに任せな」という言葉通り、造作もなく書き上げることが出来た。顔かたち、影の濃淡、そして人を食ったような表情までそっくりに描けている。
対面に座っていた桃花が「おー!」と感嘆の声を上げた。
紙に描かれた白ネコの絵を見て、光之介はフッと微笑む。自分でも怖いぐらいの才能を感じてしまう。
オレはまさしくキャンバスの魔術師だな。光之介はいつものように、自らを称賛した。もちろん、心の中で。
いや、この前はテープの魔術師だったから、今回は手品師と言った方が良いかもしれない。だが、手品師だと魔法というより宴会芸のように思えてしまう。
似たような言葉で表すならば、ペテン師か。ダメだ、それじゃただの詐欺師だ。吉良光之介は詐欺なんてあくどいことなどしない。清廉潔白かつ健全が売りの男子高校生なのだ。
自らを言い表す言葉に悩んでいると、満面の笑みを浮かべた桃花がビラを指しながら話しかけてきた。
「すごい! ネコ吉上手だね!」
「まぁな、これぐらいどうってことないぜ」
「吉良さんが書いたネコ吉なら、すごく良い宣伝になるね!」
「そうなりゃ、入部希望者が増えるかもな」
相手がちょっと変わった女子であろうと、褒められることに悪い気はしない。むしろ嬉しかった。
表情には出さないが、少しだけ気分が盛り上がってきた。
校内一の人気を誇るイケメンが描いたイラスト。それを載せたビラを人目の付くところに掲示すれば、生徒たちの間で話題になるだろう。上手くいけば、入部を希望する生徒が出てくるかもしれない。
ここまでやれば、光之介が破ってしまったビラの埋め合わせも出来たと言えるだろう。
自信に満ちた表情で答える光之介を、桃花がさらに褒め称える。そんな2人の会話に、真夜が入ってきた。
「なら、吉良さんが描いた証拠としてサインを入れた方が良いわ」
「そうだね! 吉良さん、ここに名前書いて!」
「オーケイ!」
「あと、サインが偽物だと言われないように、拇印を押した方が良いかもしれないわ」
「そうだね! 吉良さん、ここに親指つけて、紙にギュッて押して!」
「オーケイ!」
光之介は有頂天になっていた。他の女子とは違い、素っ気無い態度だった2人が、ようやく自分に目を向けてくれた。
そして、自分の描いた絵を褒めてくれたのだ。
調子に乗り過ぎて、無駄に良い発音で返事をしてしまった。浮かれていたから、真夜の語る内容を不審に思うこともなかった。
どうして朱肉をすぐに準備できるのか、という疑問に思い至ることもなかった。
光之介はうっすら目を閉じて、「そんなに褒められても困るぜ」というような表情をしていた。名前を書く時も、拇印を押す時も。
だから、全く気付いていなかった――自分が何の紙にサインをしていたか、ということに。
「それじゃあ今日からよろしくね、吉良さん!」
「カテケン入部、熱烈歓迎するわ、吉良さん」
「……は?」
にこやかな笑みを浮かべて、『入部届』と書かれた紙を差し出す桃花。そして、美少女の面影など跡形もない、邪神の如き笑みを浮かべた真夜。
その紙に書かれた自身の名前と拇印を見て、光之介は間の抜けた声を上げたのだった。