♯08
「愛を吐瀉する魔物」では柔道描写が出てきます。分からない点は、こちらをご覧下さい。
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今でも、あの車中のことを思い出します。フロントガラスの色調は、街路灯からの明かりを受けて、さながら白単色のプリズムのようでした。空は暗黒です、星はありません。わたしにとっては、なけなしの勇気というのを、人生で初めて振り絞った夜でした。でも、あの人との思い出で一番心に残っているのは、やっぱり――あの時の、初めての出会いでしょう。それは瞬きほどの間でしたが、あの人の顔が――わたしの心に、まるで名画家が初めの一筆を振るったかのように刻み付けられてしまったのです。
8/19日(金)夕方
定例試合の次鋒。それが今日のわたしに与えられた役割だった。赤畳の外で、乾が退場するときにすれ違う。良い表情をしていた。
今日も優子との対戦だった。今回の試合結果までを合算すると、0勝2敗2分になっている。毎回、初戦をこの組み合わせにすることが決定事項らしい。
ま、盛り上がるんだし当たり前か。そう考えたけど、優子の負担まで考えると、それはちょっとという感覚も浮かんでくる。
白いテープで示された開始線。そこに付いて目の前をみる。相手はもちろん、男。体重でいったら80ぐらいかなあ。道場内では、あんまり強いほうじゃないけど、でもパワーはすごいって言われてる人だ。柔道とは別の格闘技もやってるらしい。
「はじめっ」
すごい勢いで突っ込んでくる。片襟の大外刈りが、わたしの足首をかすめる。それが不発に終わると、わたしは自分から組みにいく。
そこまでの想いはなかった。だって男の人だし、負けても仕方がない。道場内試合で男子選手にまともに勝ち越してるのは優子だけだし、律子先生やお姉ちゃんは引き分けが多い。
わたしは――どうせ、負け越してるし。
どうやら、組み手はわたしに分があるようだった。でも、組み手で上位に立ったものの、決定的な技がない。足技なんて効かないし、無理に投げにいっても返されるに決まってる。
ドン、という畳を蹴る音。相手が強引に身体をひねり、わたしの引き手が切り離される。わたしの爪で胴衣を引っ掻くようになってしまった、指先に痛みが走る。
相手は、そのまま殴りつけるように釣り手を取りにくる。わたしの胸部に突き刺さる腕力は、女子のそれよりも痛かった。
わたしは釣り手を取られる瞬間、反射的に引き手を取っていた。ここで相手を引き出しての小内刈り。ほぼ効いていないけど、相手がわずかに後ろに下がる。次に対戦相手は、自然と下がった体を戻す動きをみせ――
「やあああっ!」
それに合わせて、わたしは背負いを打つ。
しゃがみこんで投げるタイプの低い背負投。まあ、ほとんどの選手は、この型の背負いしか使わないんだけど。
ただで負けるもんか。負ける可能性は高い試合だけど、そんなばかな柔道してるやつに未来なんてあるわけないじゃない。
「……!」
だめだ、背負いは効いてるけど……投げるまではいかない。こいつ、なんて馬鹿力なの。立ち上がって、体勢を立てなお――!
わたしの膝裏を大外刈りが挿す。しかも、釣り手は背中にまで回されている。もう、だめ――
「まて」
その声の直後、完全に仰向けに落ちた。審判役である志上先生が、なにやら男の方に伝えている。
「だめだよ、奥襟以上はもってはいけない。対女子戦でのルール、思い出しながらやってね。慣れてないのは解るけど」
首の皮一枚つながった。さっきのは、たぶん技あり以上の威力だった。一本じゃなくても、そのまま袈裟固めか縦四方で押さえ込まれていただろう。
「はじめ」
もう、何分たったろうか。あれから、わたしは組み手の完成に徹した。組み手さえ征すれば、男子選手だって何とかなる。腕力をより有効に使える者が優位に立つという、この柔道という競技の美点のひとつだ。試合時間はあとちょっと。少なくとも引き分けまではもっていく。
現在の状況は、わたしが釣り手、引き手とも良いところを持っていて、相手は釣り手の位置がやや下の位置といったところ。不自由そうだ。それはちょうど、わたしの胸部付近。ごつい指が不快なくすぐったさを呼ぶ。
何度も大外刈りに入られるも、釣り手が不十分だからぜんぜん効かない。体力差なんて関係なかった。6度目の挑戦もはかなく潰え、目の前の男は体勢を崩す。
ここで、さらに相手の釣り手を下げ、その意味をもたなくした。そのまま下方向に力を加える。絵面だけみれば、わたしがパワーで対戦相手を圧倒しているように見えるだろう。
一瞬。力を完全に抜き、相手の自由にさせた。敵の重心の位置が上方向にずれるのを上体のセンサーが感じる。いまだ、の「い」の発音で、わたしが最も得意とする技――袖釣り込み腰でもって、対戦相手の股下へと侵入する。
「やああああっ!!」
効いてる、間違いなく効いてる。とどめとばかり、うまく跳んだら投げられるかもしれない。
その直後、背中に悪寒が走る――もし、失敗したら?
残り時間はゼロに近い。この男は、ダメ元で寝技という手段を取るだろう。失敗直後の体勢は分かっている。こいつに押さえ込まれるところを想像し、精神的な吐き気をもよおす。
もしも失敗したら。わたしは寝技から逃げられない。まともに力で争ったら負ける。でも、このまま投げるのをやめて、相手と背中越しに密着していれば――?
わたしは、諦めた。そしてブザーが鳴る。
「それまで」
自陣への帰り際、乾と目が合う。泣くなわたし、泣くな、泣くな――
「気にすんなって……千璃」
もしかして……わたしの名前、呼んだ?
「……うるさいっ!」
泣き顔をみせたくなくて、そっぽを向いた。わたしって、なんでこんなにバカなんだろう。
あれから1時間以上が経過している。
定例試合は志上チームの勝ちだった。副賞は焼肉店のチケットだった気がする。おそらく税金だけど、いいんだよね。
「どうしたの? 女に圧倒されるのが趣味なの、乾さん」
「ぐぬぬ……」
今日は飲み会がある。参加者は、乾、志上先生、宇野先生。あと、わたしを含めた星河学院の3人だった。今は、自由練習の時間だった。飲み会の始まりは9時ジャスト。今は、7時45分。
「はい、私の勝ち。あとでおごってね、乾さん」
他の練習生も、大概は帰ってたけど、残って技の研究をしている人達もいる。一週間という短い時間のなかで、道場という施設を最大限に使い、実力を伸ばそうとしているのだ。
そのなかで……そのなかで、こいつらときたら……。
「しょうがねーな、目閉じろ」
「う、うん!」
お姉ちゃんと乾が、組み手の乱取りをしている。
我ながら、憤怒を帯びる顔付きだったと思う。お姉ちゃんは乾に言われるがまま、その瞳を閉じた。
「かかったな、このアホがあーーっ!!」
乾は、大内刈りでお姉ちゃんを転がした。脚同士を絡め、動きを殺す。そのまま――千奏お姉ちゃんのお腹の上に乗った。
「なにやってるの、乾さん! 恥ずかしいからっ! 恥ずかしい!」
「ここに残ってるのは、今日の飲み会に参加するメンバーだけだ! 諦めるんだな!」
「いやあ、嫌あー! 志上先生助けて!」
「志上はなあー、車を用意してて居ないんだよ! 諦めな」
「わたし、まだ、とにかくだ……」
「お姉ちゃんになにやってるんですかああああああ!!」
「ほげげええあああっつ!!」
お約束の回し蹴りが、乾賢太朗のわき腹を響かせた。自分でも、ちょっと痛かった。
今日の怒りがいつもと違うのは、それが乾だけでなく、お姉ちゃんにも向けられていることだ。ほんとに、乾のことが好きなの? お姉ちゃん、あの人は、あの人はどうするの――?
柔道場の入り口付近。宇野先生が大笑いしている。外見的に、あらゆるゴツさを兼ね備える宇野先生だけど、普段は気さくで明るい人だ。明るいを通り越して、むしろチャラいくらい。
更衣室の前、優子の方をみる。着替えようとしているのだ。さっさと着替えて飲み会に行こう、というメッセージを送っている。彼女は、さっきまで退屈そうにTシャツ姿で足をぶらぶらさせていた。退屈が限界に達したに違いなかった。
「乾! なんで、お姉ちゃんにいつもセクハラするんですかっ」
「しらねーよ、そういう人間関係なんだよ」
「不愉快でしょっ、お姉ちゃんが」
「え、まあ……」
複雑な顔を浮かべるお姉ちゃん。嘘だって言ってよ。
「嫌がってないだろうが! 法律にはな、セクハラかどうかは相手の主観によるって書いてあるんだよ!」
「……え!?」
「その様子だと知らなかったみたいだな、名誉毀損の罪は身体で払ってもらうぞ!」
頭の回転が追いつかない。恥ずかしながら、勉強はけっこう嫌い――
「ちょ、それこそセク……」
なんとか反論を紡いだけど、その間にこいつに接近されていた。そのまま組み付くモーションをみせる。
でも、そんな邪な気持ちでは、いかに奇襲だろうと十分な効果を発揮するはずもなかった。わたしは、あっという間に自分の組み手を完成させる。当の乾も、辛うじて組み手を組み手を作れたようだ。位置は悪いけど。
苦し紛れの内股。左足を、ひょいっと右脚の後ろに隠す。こんな内股なんて、簡単にすかせる。わたしは――今度こそ、袖釣りで投げる!
自分の技がすかされた影響で、乾の肉体は宙に浮いていた。
「いけえ、千璃!」
お姉ちゃん。もしかして、さっきの試合中も応援してくれていたのだろうか。
「せいやあっ」
感触。真っ先に付いたのは、乾の爪先らしい。でも、まだ諦めるタイミングじゃない!
「やあああああああああっ!!」
また、悪寒が走った――今度は、ある意味もっと強い悪寒だった。失敗すれば寝技を受けるというところまでは、一緒だった。でも実際に想像したのは、乾からの寝技を受ける光景、そして――あろうことか、彼に犯される光景だった。
わたしは、そこから何も考えられず、黙って畳に伏せる。どうして? なんで? 心配そうに、わたしを見つめてくる乾や、他の人達のことも――気にかける余裕なんてなかった。