♯06
たかだか、数時間――でも、わたしにとっての時間というのは、不定形にゆがむ、人生という名の翼でした。あの人と関係している時間というのは、流れ星でも見上げているかのように早く感じることもあれば、こちらがリードしている試合の終了間際のように遅く感じることもありました。
7/24(日)
わたしたち姉妹は、優子も連れ立って、ハッピーマウンテン市の中心市街地からやや南下したところにある総合体育館にきている。
40年以上前に建てられた此処は、全体的に古ぼけた木造で、2階席まわりの様子は昭和時代のドラマにでも出てきそうな光景だった。今日は中学生柔道の岡山県総体予選が行われる日だった。午前11時を回ったところで、2階席には数十組の親のグループを確認できた。特に母親は、デジカメを持ってるのがほとんどだ。
1階には観客席はない。全面板張りの試合スペース。開会式も計量もとっくに終わっていて、会場内には緑畳が敷き詰められている。畳の上は、今まさに熱戦の最中。男女ともに準決勝のあたり。
「優子、ここにしましょっ」
「うん、私こんなとこ初めて……」
「優子ちゃんは広島の方だもんね。あの総合体育館、アリーナとかすごいよね。ここって、ぼろいから」
「お、お姉ちゃん、確かにそうだけど……」
「わかってるわ、千璃ちゃん。ここは、わたしたちにとって大事な場所だから」
政令市のど真ん中にあるような体育館は、ここの5つや6つは楽に入る大きさだ。それを思い出して、しみじみとした気分になる。
わたしとお姉ちゃんは、この大会でも毎年の優勝候補である丘野中学校という学校の出身だ。わたしにとっては、卒業してだいたい4ヶ月になる。
先輩風ふかすわけじゃないけど、自分が去ったあとの母校というのは、どうしても気になる存在だった。
「お姉ちゃんも観戦にきたよね? 去年」
「きてないわ」
「えっ」
「だって、あなたはわたしを見てないじゃない」
あ、そっか。そういえば。
「今日は、乾さんも鴨中学校の引率で来てるし。よかったわね、千璃ちゃん」
「な、なんでわたしなの? 優子は?」
「私……別に、どうでもいいし……」
優子は、いつもと同じローテンション。はあ……。
「それにしても、試合を見てて思い出したわ。千璃ちゃん、惜しかったね」
嫌なことを思い出してしまった。
「千璃、すごく強かった。私、応援したかったけど」
「あんたは、自分の試合があったでしょ」
インターハイの予選が終わってから一ヶ月がたっていた。結果だけいえば、わたしは2位だった。粘ったけど、でも総合的に相手の方が地力があったと思う。お姉ちゃんは昨年の雪辱を晴らして優勝、優子は2連覇。地方大会、いや全国レベルでも、優子とまともに試合できる女子は少ないと思う。
ああ、来年は勝てるのかな。そのとき、わたしの肩を叩く感触が。
「千璃ちゃん」
「ん?」
お姉ちゃんが指さす方向をみる。
「ちょっと、いってくる」
「いってらっしゃい」
「いってらっしゃい……」
丘野中学校の試合が行われている。
先鋒戦は、あまりにも一方的な展開で丘野が勝利していた。わたしが引退したときから、すぐにレギュラーに選ばれた子だった。まだ中二だけど、中学生離れした精密感をもっている。
「さて……」
中堅戦が始まるところだった。わが母校の選手である井上が出て行ったところで、その間抜けそうな男は、
「まともな試合がみれそうだな」
なんて、愚かなことをのたまっている。
「それはない! ないですっ!」
まさか、と驚愕した表情で乾はのけぞる。
「じろじろみるなあっ!」
「痛てっ! こんなところで蹴るなよ、千璃」
不思議そうな顔で、わたしを眺める。男なんだから、首から下あたりをみても不自然じゃないのに。
「あ! もしかして。参加校のOBなんだよな、千璃は」
「……そ、そうですよっ」
「じゃあ、お姉さんの千奏ちゃんも?」
「来てます。ほらあそこ」
乾は観客席をみる。お姉ちゃんが、こちらに手を振っていた。
「一本! それまで」
「ああ、もう! なんで、千奏ちゃんは上にいるんだよ! 試合も見逃したじゃねーか!」
「ああもう、悪かったですね! ほら、隣、隣!」
次の試合の選手――草田という体重90キログラムの大きい子なんだけど、試合開始の声も気にせず、チラッとみただけで乾はすぐに観客席に向き直る。
乾は、じっと優子の方をみていた。視線なんて、ここまでの距離だと読めないけど。わかるんだから。
「ちょっと、お姉ちゃん見過ぎっ!」
「ひ、引っ張るなって! それで、どういうわけなんだ?」
「決まってるでしょ! 部外者は試合場に入れないんです!」
「え、じゃあお前は……」
乾の視線をかわす。
「分かったみたいですねっ、最近は厳しくて、たとえ保護者でも1階フロアには入れません。わたしとお姉ちゃんは丘野の出身で、知ってる人も多いから何とかなるんですよ? まあ、アレですよ。封建体質さまさまってやつ」
「さっきから人のしゃべり方、真似すんじゃねーよ……」
「それで。優子は、故郷は広島の方から来てるんで、さすがに1階の方には。でも1人だと不安がるんで、お姉ちゃんと一緒に観戦してるんです」
「じゃあ、お前も――」
ブザーが鳴る。
「技あり! 合わせて一本!」
草田の押さえ込みを逃れる女子なんて見たことがない。ここで乾が、横からトントンと腕を付いてくる。やめてよ、脂肪がついてるんだから。
「なんで、千璃は降りてきてるんだ?」
「……観戦、したかったから」
「そうか、間近で観戦したかったんだな」
「まあ、そういうことですから」
「じゃあ、次の試合もちょっと先だし、丘野の話をしてくれ。あの強さ、どうなってるんだ? はっきりいって中学生の柔道じゃない」
必然的に、わたしと乾は丘野中学校のメンバーを眺めることになった。わたしは、乾との距離が離れすぎている気がして、ちょっと距離を詰めてみる。
目と鼻の先では、丘野中学校の監督である|蒲原≪かばはら≫が檄を飛ばしている。時間が過ぎるにつれ、わたしの中を、あの日々の記憶がよみがえって――気分が悪くなる。
「蒲原っていうんですよ、あいつ」
「元先生だろ? なのに……」
「あいつ、パワハラにセクハラに、職権乱用しまくってるんです。でも、実績を出す力はある。だから悪いことを隠せてるうちは、ずっと丘野中学校の監督であり続けるでしょうね。転勤しても本質的なそれは変わりません」
「うむむ……まあ、確かになあ。そういう噂、聞かないこともないが」
乾は、微妙な表情で蒲原をみている。ふん、別に期待してたわけじゃないけど……。
「あいつ、あれでも柔道の強さは本物です。でも、個人が強いからって」
「名選手、名伯楽にあらず、か」
「そういうことです」
あいつに受けた、いたずらの数々を思い出す。思い出して、胸中に嫌な気分が込み上げてきた。吐き気がする。あいつのせいで大好きな柔道と決別した友達の記憶がよみがえってきたのだ。
「蒲原は絶対に許しません。わたしの友達は……今でも……」
「語りすぎだ。第一、それ。私に話していい話題なのか」
「……もういいっ」
悔しかった。嫌な記憶を思い出したことじゃない。こいつに期待しすぎたことだ。泣き顔をみられたくなくて、わたしは走った。