♯05
「愛を吐瀉する魔物」では柔道描写が出てきます。分からない点は、こちらをご覧下さい。
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畳を蹴る音が響く。
先鋒戦は、乾賢太朗と久間野優子との試合だった。出来すぎている、とまでは思わないけど、もしかしてズルでもしたんじゃないかと疑わせるだけの要素は揃っている。
まだ序盤だけど、試合内容は互角にうつった。乾は、前回の試合がまるで嘘のように組み手のいいところを持たせないし、優子も取られそうになったら素早く身を切って組み手を解除する。
「まてっ」
今回の審判は志上先生だ。両腕をくるくる回し、両選手を指さす。教育的指導。もっと組んで技を掛け合うように、という意味の反則だ。
「はじめっ」
組み手は、即座だった。
あっという間に優子が組む。さっきは、組み手にこだわっていたから反則を取られたけど、組み手の位置を気にしなければ、こんなものだろう。
乾は、まだどこも取れてない。その身体を振って、乾の反撃が始まると思った刹那――乾の股下に優子の脚が挿され、その身体は真横に吹っ飛ぶ。優子の内股が炸裂したのだ。腹ばいになって、真下に落ちる乾。
「……」
志上先生は、なにもコールしない。腹ばいだったんだから、当たり前かあ。
「はじめ」
手早く組み合った、と思った次の瞬間。乾が、優子の背中を掴む。たぶん一気に引き付けるつもりだ。2人の顔が接近している。ほんとに睨み合ってる……。
「こらああっ、優子にセクハラしないでくだっさいっ!」
「千璃ちゃん、落ち着いて……」
思わず叫んでいた。だってセクハラじゃない。乾の吐息、くさいんだろうなあ。どんなにくさいんだろう。
「有効ーーっ!!」
ああもう、なに考えてるの!
「お、お姉ちゃん……わたし見逃しちゃった……」
「大内刈り。内股とみせかけたフェイント。乾さんも、けっこうやるんだけどね。優子ちゃんのセンスは、それ以上……」
そのまま寝技にいくかと思ったけど、さっきの内股と同様、当然のように何もしない。あの子は寝技がすごく苦手だ。嫌いというわけじゃないんだけど。
乾が勝つとしたら、そこを狙うしかない。勝つとしたら、だけど。チャンスがきてもアドバイスなんて送ってあげないんだから。
号令とともに、乾が優子の背中を取りにいく。がっつりと組み合った状態から、優子が仕掛けたのは大内刈り。ひざ裏に掛かった右脚、そのままステップが運ばれていく。でも押し切れなかったようで、諦めて足をはずす。
そうなるやいなや、乾は組み手を上下に振ることで相手を前傾姿勢にさせるのだった。悔しそうに身体を起こす優子に、お返しとばかり大内刈りが命中する。ぜんぜん効いてなかったけど、姿勢を崩す程度の役割はあったみたい。
乾は、組み手の開始時から優子の背中を掴んでいる。それをさらに持ち替えて――相手の帯を背中越しに握った。乾の顔はその髪の毛に埋まっている。
そうか、そういうことなんだ。
優子は抵抗をみせるけど、この姿勢からじゃ無理だ。乾は、引き手を優子の腿に添えて――自分の身体を真下へと、捨てる。右爪先をひざ裏に引っ掛けて――放つ、帯取り返し。
ふたりの体勢は完全に極まっている。優子は、抵抗すらできず乾の腹上に落ちる。
「だりゃああああっ!!」
こうして背中を床に付けた状態から、乾が帯を取っている右手、腿を握っている左手、ひざ裏に噛み付かせている右の爪先でもって――優子の身体は、フワッとした軌跡を描いて青畳を転がっていく。
真っ先に畳に付いたのは乾の身体だけど、自分の身体を捨てる類の技というのは、自分が先に落ちても最終的に相手の背中が畳に付いていればポイントになる。
そして投げのモーションに重なるように、乾は優子の上にかぶさっていく。
「有効ー! 抑え込みっ!!」
帯取り返しは、一本を取ることが不可能に近いという弱点の代わりに、投げたあとの体勢がすでに押さえ込みになっているという利点がある。
いま極められているのは上四方固めだった。相手の身体と反対向きに覆い被さった状態から、両手で帯を握って固定する。はっきりいって、こういう体勢はやめさせたいけど、それでも試合だから。わたしは、黙ってその様子を観察していた。
5秒がたった。
優子が、押さえ込みを解こうとして、2本の腕を互いの間に挿入しようとしている。でも、全然だめだ。乾は、畳に付けた両足の位置で安定を確保している。
10秒がたった。体勢はさっきのままで停止している。優子は、もぞもぞと体を動かすばかりだ。
15秒がたった。優子は、ちょっと迷ったような様子で手のひらを――乾の大腿骨に付ける。なんだろう。急に、乾の身体がよく跳ねるようになった。
そうか、痛いんだ。ここからだとよくみえないけど、優子は、乾に痛みを与えてる。腰周りへのグリグリ攻撃。
「解けたっ!」
20秒がたっていた。悔しそうな表情を浮かべながら開始線まで戻っていく乾。
それからずっと試合は白熱していた。優子が内股で有効を取り返したかと思えば、乾も見事なフェイント小外掛けで技ありを取り返す。
残りの試合時間は40秒。ここまでのポイントは、乾が技ありに有効ふたつ。優子は有効がふたつ(ギャグじゃないですからねっ。念のため)。
いま、乾は逃げ切り戦略を採っている。このままやり過ごせる公算が強い、とわたしは思う。優子が勝った方がいいに決まってるけど、別にそこまで嫌な気分じゃなかった。
わたしは、黙って視線を乾に移す。いまも、優子の激しい攻めをかわしつつ、小技の連続で状況を凌いでいる。
今回の試合をみて、思った。乾賢太朗は間違いなく強い。初段なんてウソだ。もしくは段位を取らなかっただけで、学生時代は実績のある選手だったに違いない。ここで彼の顔を眺めて、あることに気が付く。
ああ、そうか。レーニンだ。どっかで見たことあるとは思ってたけど、社会科の教科書だったんだ。レーニンよりは、だいぶ緩い顔つきだけど、それでも禿げの感じとか、目付きとか、口元とか。正直いって似ている。
って、ああもう、そんなことより!
「優子……」
わたしは、半ば諦め気味に彼女に視線をやる。ちょっとバテてるみたいだ。長期戦タイプじゃないから、しょうがないけど。なんだか姿勢にムラがあった。いい角度で技に入られたなら、いくら優子でも吹っ飛んでしまう。
ここで、乾の右足払い。これは投げるためじゃない、タイミングを計ってるんだ。乾は大外刈りをするつもりだろう。そして、決まらなかったら払い巻き込みに変化する。
すっかり不安になっていた。でも、目を逸らしたくなかった。
わたしは、乾をみた。その左足が踏み出された時――すでに優子の姿はなかった。優子は、自分の身体を真下に捨てていた。蹴り込まれるように、その右脚が乾のみぞおちを捉えている――横巴投げ。
空中で、乾の身体が静止したようにみえた。「こういうのって、腕力の駆け引きの結果として力学的な均衡が起こっているだけなんだよ」と志上先生が言ってたけど、これは何度みても不自然な動きに思える。
だって、乾は右に逃げようと身体を捻っていたのに、すぐに動きを翻して、そうしたら、空中で一瞬の静止が起こったのだから。
そのまま、乾は左側に回避しようとして――優子と正面衝突した。お互いのおでこがぶつかったのだ。でも、それ以上に驚きだったのは――
「押さえ込み!」
優子が、乾を押さえ込んだこと。
縦四方固め。相手を真正面から押さえつける。こないだ宇野先生が、この寝技の姿勢についてエロいこといって、律子先生に怒られたのを思い出す。
でも、本当に驚いた。優子が試合で押さえ込みを決める場面なんかみたことない。その拘束は不十分だったけど、腕はちゃんと背中ごしに回してあるし、腹部は完全に密着している。それに片足だけど、きっちりと乾の同じ側の足に絡みつけてある。これなら一本を取れるかもしれない!
5秒がたった。
わたしは、複雑な気分になっていた。
「お姉ちゃん、あれ……」
「気にしちゃだめよ。真剣勝負なんだから、千璃ちゃん」
「……」
優子の胸の片房は、完全に顔の上に乗っていて、しかもその上にいる優子の形相があまりにも必死で。多分、乾はこのままでは呼吸が一切できない。動いてくるはず。
10秒がたった。
乾の左腕は、両者の間に入った。でも、これだけなら全然耐えられる。
15秒がたった。
あと10秒で技ありになる。ここまでいけば、一本になる可能性濃厚だ。優子の勝利。ここでふと、乾の方をみる。真剣な面差しだった。諦めていない。瞳は、これでもかというぐらいに燃えていて――眩しかった。自分でも、よくわからない気分になる。
「乾さん、ピンチよ。千璃、寝技はここの女子で一番強いでしょ」
「……ああ、もう」
わたしに思考はなかった。
「乾ーー! 右に回りこめますよっ」
乾は、全力で左に逃げようとしていた。でも、左腕が優子のお腹に入っている以上は、どちらかといえば右に逃げる方がいい。縦四方の場合は、押さえ込まれている状況によって逃げる方向を総合的に考える必要がある。
乾のブリッジ。優子の体は、あっという間に浮き上がる。体勢が入れ替わり、今度は乾が攻める。
優子は、そのまま乾の頭頂部を押さえ付ける。ただでさえ時間がないのに、寝技なんてやってる時間はない。
「まてっ」
また開始線に戻ると、志上先生の右手が斜め下45度線を指す。優子は20秒間、押さえ込んでいた。
「有効」
引き分けの線はなくなった。これで、優子は残り10秒ちょっとで決着を付ける必要がある。
「アドバイス、するんじゃなかったかも……」
「はじめっ」
優子が、走り込むように乾の襟を取る。まるで相手を殴っているかのよう。組み手の位置は……うん、悪くない。ギリギリ及第点。
乾も同時に組んでいた。ここで優子は、両腕で乾の身体をちょっとだけ押す。乾に無意識の反発力が働く。次の瞬間、乾の右くるぶしを――優子の小内刈りが捉えたのだった。
ここで小技とは! 乾の体が真後ろに傾く。刈られた足が、大きく後ろに跳ばされ――すかさず乾は、その足を畳に付けて耐える。刈られた右足は、再び正面へと戻される――優子が狙っていたのは背負投げだった。
「うおおおおおおおおおおおっ!!」
すごい叫び声。まるで獣のような。
乾の体躯は、タオルの切れ端みたいに吹っ飛んで、なにかが弾けるような音をともない、めりこみように畳へと落下する。その直後、優子も勢い余って、その身体はごろりんと、仰向けに倒れる乾の上を転がっていった。
「一本、それまで!」
乾は、すっと立ち上がると、すたすたと開始線まで戻っていく。やり切った、という表情だった。
優子は疲れている様子だった。審判の手が優子の方に挙がると、これまたやり切ったような清々しい表情で立礼を済ませ――いつものように板の間スペースに向かっていく。
「おい、千璃!」
「ひ、ひゃっ!」
思わず声を出してしまったけど、この距離なら気づかれてない……と思う。わたしは、とりあえず其処まで歩いていく。あんまり、可愛くない表情だと思う。
「ありがとうな、寝技。あれがなかったら、もっと簡単に負けてた」
「つーんっ!」
ああもう、素直に適当なこと言っとけばいいのに。お礼を言われたのに、それなのにわたしは……ばか。
「本当に感謝してるんだぞ。前は優子の応援ばかりしてたのに。どういう風の吹き回しだ?」
「……」
本当に、なにも言えなかった。緊張して、だけど心臓の奥から温もっていくような、そういう感覚。わたしは、ずっと黙っていた。すると――
「え……」
なんで、近づいて来るの!?
無表情を保ちつつ、わたしは下方向から乾を見上げる。そうすると、乾の腕が上がっているのがみえた。反射的に顔を下げてしまう。目が合いそうになったけど、すんでのところで避けた。
何秒たったろうか、数十秒? ちがう、たぶん10秒もたってない。寝技で押さえ込んでる時と同じだ。早く時間が過ぎろ、早く勝ちたい。そう念じるほどに、その進みは遅くなっていく。
やがて、わたしは感覚する――髪の毛が、撫でられている。わたしの髪の毛が。
『わたし、今日死んじゃうの?』
心の声だった。ありえない言葉が脳裏から浮かんでくる。
「いい子だな、千璃は!」
わたしは、静かに頭を上げる。視線は、ちょうど乾の上腕のあたり。あんまり、考えごとはしたくない気分。
それは、とても熱い手のひらだった。わたしの体温よりも熱い。そのまま、なにも言わないことにする。
「……そんな、おい。どうしたんだ? 本当に大丈夫か?」
ちらりと壁時計をみる。何十秒も経過していた。今度は、あっという間。さあ、もう戻らなくちゃ。
「……そんなことより。前、優子とあまり話せなかったんじゃ?」
「うん。恥ずかしながら、その通りだ。あんまり、良い反応が返ってこなかった」
「反応が返ってきた……?」
そんなはずはない。
「それだけで奇跡です。普通は、話すら出来ないんですから。あの子、人見知りなんですよ? それだけじゃないです、なにより気が小さい」
乾は、驚きを隠せないという表情だった。無理もない。優子の、あの強烈な柔道をみれば誰だって――
「さ、いきますよっ」
「ど、どこに?」
「優子のところっ!」
さっきの戦い、本当にいい試合だった。乾は、優子と仲良くしたがってる。だったら、別に2人を繋いでもいいと思う。あれだけ白熱した戦いができたんだ、それに優子にとっては初めての気を許せる男性になるかもしれない。
そう思って、わたしは乾の手を取る。優子のところまで来ると、やっぱり何かを思案しているような面持ちで座っていた。
「ゆ~う~こっ!」
「ん!……なに?」
真下へと瞳を落とす優子。でも、これからもっとびっくりするんだろうな。
「はい、敢闘のあくしゅっ」
乾と優子の手のひらをつなぐ。
優子のほおが赤らむとか、そんなロマンチックなことはなかった。でも、いつもより明るい雰囲気がいまの優子に宿るのを確かめる。同性としての素直な感想だけど、優子という人間の肉体は本当に綺麗だと思う。
そこから、すっと乾をみたとき。わたしの心は、いまの優子と同じくらいに動いたと思う。でもそれは、人にいえるような、そんな感情ではなくて。今度は、優子をみる。そしてまた、乾賢太朗という男をみる。
わたしの心臓が、不愉快なさざ波を立てる。