♯04
6/17(金)
あれから一ヶ月が経った。別に、日常に何らかの変化があったわけでもなく、わたしたち姉妹は、今日もこうして柔道の稽古にきている。
そういえば、自分たちの変化ではないけど……乾賢太朗は、あれからどんどん強くなっていった。まるで、昔のそれを急速に思い出していくみたいに。一ヶ月前までは、道場内でも弱い方だったけど、今では真ん中くらいの序列に評価されている。
今は、打ち込み稽古の真っ最中。幸原道場の2階、100畳以上のスペースを臨む市内一の規模を誇る道場内は熱気で溢れている。
一、二……と技に入った数がメリハリの効いた声でカウントされていくなか、わたしの組は、一足先に最後の投げを終えた。そして……。
「律子先生、どこみてるんですか?」
「え、そ、その……」
打ち込みは、これで10本目になる。最後の打ち込み相手だった、九里村律子という女性。わたしは律子先生と呼んでいる。市内の中学校で教えているらしい。
「い、乾の方なんかみて」
「千璃ちゃん、あの2人。さっきからなにか」
そっちの方をみると、どうやら乾と優子が打ち込みをしていて、最後の投げでなにかあったのだろうか、揉めている(?)様子だった。
「……おい、今のはさすがに耐えただろ」
「しらない……」
「いま、耐えてたじゃねーか! おい、もう1回投げさせろよ」
ああ、そうか。乾、十分に投げることが出来なくて、もう一回投げさせて欲しいって言ってるんだろうな。
そんなこんなしてるうちに、周りはどんどん最後の投げを終えていく。
「あ」
律子先生が声を漏らす。乾が、無理矢理に久間野さんの襟を取ろうとしていた。
でも、「そんなの通じない」とばかり、優子は取られようとする手の甲を猫手状にした左手でさっとガードする。無表情だった。視線は斜め。
そのまま2人とも、片手を掴み合うような格好になって、乾が引き手を掴もうとする動作をみせる。それを回避するように優子は後ろに下がったけど、その隙を突くかたちで、乾が襟を取ることに成功したようだ。
「おい、もう1回投げさせろよ。そういう練習だし」
わたしは、黙って其処へと歩いていく。というのも、優子が困ったような表情になっていたからだ。
後ろから近づいていく。そのまま乾をめがけ、
「優子になにしてるんですかぁーー!?」
「ほげええっ!!」
いつものように回し蹴りを打つ。こいつ、いつもお姉ちゃんや優子にセクハラばっかりして。ホント気持ち悪い。
千奏お姉ちゃんの頭を撫でたり、人見知りの優子に何でもない話を振って困らせたり。わたしには……なにもしてこない。
「優子にセクハラしないで下さいっ」
「いやいや、まともに投げさせてくれないんだって」
「言い訳無用! 優子はおとなしいんですっ!!」
あ、いま蹴り技なんかしちゃったから、髪の結びが解けかけてる。別にこだわりがあるわけじゃないけど、もう10年ちかく髪を伸ばし続けている。収納するだけで一苦労だ。もし試合中に解けたなら、遅延行為を取られかねないほどに、これを結び直すのに時間がかかってしまう。
乾を睨みつけていると、お姉ちゃんがこっちに歩いてきた。わたしと違ってショートボブだから、髪を留めるゴムすら付けなくていい。
羨ましいなあ。「わたしも切ろうかな」と思うことはあるけど、なかなか踏ん切りがつかないでいる。
「あの。乾さん、よかったらわたしを投げて」
いつの間にか呼び方が変わってる。
「千奏ちゃん。さすが、大人の女性は心が広いな」
「お姉ちゃん、だめっ! 乾が付け上がりますからっ!」
「そんな、別に何回でも投げていいよ……ほら、最後の打ち込みが終わって、みんな解散してるし」
お姉ちゃんは、なぜか乾にべたべたしている。おかしいよ、だって全然お姉ちゃんの好みのルックスじゃないし。そりゃあ、背は高いし、スタイルだってお腹周り以外はいいけど……こんな禿げたおっさんにくっつけること自体、信じられなかった。
「まあ、でも認めている面も少しはありますよっ」
「何だよ、千璃」
反射的だった。どうして自分でも、こんなことを言ってしまったのか分からない。
「ああーーっ! 千璃ちゃんのこと呼び捨てにしないでって、前も言ったのに乾さん」
「う、分かったよ、なにだ? 千璃ちゃん」
「だから、呼び捨てでいいですって! わたしも呼び捨てにするって、こないだも言ったばかりですよね!?」
「呼び捨てなんてだめっ」
「どっちなんだよ……」
お姉ちゃんと言い争いまでしてしまった……これも全部、こいつのせいだ。乾のせい。うん、間違いない! とにかく、最低限だけ話して会話を終わらせよう。
落ち着け、落ち着け……。わたしは、淡々としゃべろうという決意を胸に、乾の顔をみる。
まあまあ整った顔、やっぱり初めて会った時よりも少し痩せている。少し脂の乗った肌。27歳だと聞いているけど、到底そうはみえない。あ、よくみたら奥二重なんだ……。
「それで、み、認めている面ですけど」
恥ずかしい表情になっていると思う。淡々としゃべろうと思っていたのに、早口になってしまった。
「他の大人と違って、乾はわたしたちの、お……上半身とか見詰めないですからね。そこは評価してあげます」
正直な感想だった。こいつは、ちゃんとわたしたちの顔を見て話す。他の大人と違って厭らしい目付きで見たりしない。お姉ちゃんは、姉妹揃ってかなり大きい方だから仕方がない、男の人の視線は許してあげて、とかいうけど……。
ここで乾は、わたしたち2人をみるように、
「千璃、千奏ちゃん。もう大体、始まる頃だよな?」
「そ、そうですね……志上先生がそろそろ集合をかけるでしょう」
今日は、あれから丁度一ヶ月が経っている。今回の定例試合の日だった。前回の乾の勇姿が頭に浮かんで、すぐに頭から振り払う。