♯03
「愛を吐瀉する魔物」では柔道描写が出てきます。分からない点は、こちらをご覧下さい。
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それから5分は経ったろうか。信じられなかった。
余裕というほどではなかったけど、2人抜きを達成した乾は、開始線を示すテープの上に立っている。まさか、こんなに強いとは思わなかった。
脂肪がいっぱいあるイメージだったけど――あれから、ちょっと痩せたのかな。わたしの視界に、180センチメートル(だったっけ?)で均整の取れた肉体がうつる。柔道着を着ているから? それとも本当に痩せた?
でも。次で終わりだ、という確信がわたしにはあった。乾と同じく、180センチメートルもの上背。加えて、街を歩けばスカウトされるほどの美形。彼女は乾の試合中に到着していた。
颯爽と、遅れて登場した彼女は、さらりとした短い髪を空気に揺らせながら試合場に入っていく。どうやら事前に運動してあったようで、準備運動は要らないようだった。
「……」
乾は、固まっている。もしかして、途中まで優子が男だと思っていた? のかもしれない。
「……はじめっ!!」
乾が、釣り手を伸ばし、優子の前襟を取った。一番、やってはいけないパターンだ。パン、という痛そうな音を響かせながら、優子は乾の背中を取るとともに技を掛ける――払い腰。男の体が畳を引きずられていく。実力差は歴然。多分、これで一本。
「脱力っ!!」
律子先生。乾は送られたアドバイスに即応する。途端に払い腰の力圧が緩んで、乾は側面から緑畳と赤畳のはざまに落ちた。
「技あり……待てっ!」
乾は、ゆっくりと起き上がる。軽くかぶりを振って、開始線まで戻った。
それからは一方的な展開だった。ボロボロに振り回された挙句に、すくい投げまで決められる。内股に入ろうとする乾の躯体を、優子は難なく持ち上げ、両手で一回転させて叩き落としたのだ。
すくい投げというのは、タイミングさえ合えば自分より重たい相手でも楽に持ち上げられるけど、大の男をあそこまで吹っ飛ばせるのは、わたしが知る限りでは優子しかいない。
何度もボロ雑巾のように扱われる乾は惨めだった。でも、諦めてはいない。わたしは乾の瞳をみていた。別に、理由なんてない。なんとなくだ。そして、その瞳の色が変わったような感覚を得たのは、たったの今だった。
「はじめっ」
次の組み手争いでは、優子は、真っ先に乾の釣り手から取った。乾の誘いもあるけど、焦りもあったと思う。秒殺できると思っていたのに、1分以上も粘られているのだから気持ちも分かる。
ここで、乾の大外刈り。でもだめ、全然効いてない。ただし、悪い掛け方じゃなかった。もしかしたら、そう――ああ、分かってるじゃない! よし、いけ!
乾が打った技は大外巻き込み。いや、途中で払い巻き込みに変化している。そのまま2人とも、畳に転がり――寝技の姿勢になる。それは結果的に、乾にとって良い選択だった。だって、だって優子は、寝技が大の――
「い、いだだあああいぃっ!!」
悲鳴。優子の悲鳴だ。なにがあったの? ああもう、なんで注視してなかったの? 今からでも遅くない、起こったことを観察しよう。
「おい、大丈夫か?」
「遠くでみえなかったが……」
「しばらく休むかー?」
そうだ、周囲の声を拾えばいい。
約10秒後、おおよその流れを理解する。寝技になった時、乾が故意で優子に痛みを与えんじゃないか、ということだった。でもそんな素振りはなかった、注意深くみてたわけじゃないけど。少なくとも普通の攻めにみえた。
優子の表情をみる。片目に涙の跡。優子でも、泣くことあるんだ。わたしは、その優子の姿をみて、不思議な性欲のようなものが湧くのを感じる。
続いて、乾をみる。凄まじい形相で優子を睨んでいた。わたしの中に、いまのと同じで、感じたことのない欲が登ってくるのが分かった。
わたしは、頭をぶんぶん振って、さっきから行われている志上先生と宇野先生の協議を見守ることにする。
「はじめっ!」
どうやら、お咎めなしのようだ。
流れが変わったように思えた。次の組み手は、互いに良いところを持ち合う形。互いに、じりじりと間合いを計っている。
優子の体が、ほんの少しだけ揺れている。本人も気づいていないんだろうけど、これは――勝負に入る前の微妙なモーション。
優子が選んだ決め技は、大外刈りだった。シルエットが動いて、その長い脚が、乾の膝裏を――挿せなかった。乾が、体を横向きにしている。まさか、あれを読んでいたの――!?
「うおおおおおっ!!」
乾は、優子の股下に腕を突っ込んで――持ち上げる。そのまま、ブオンと彼女の体を回転させ、緑畳に叩きつけた。
「技ありーーっ!!」
このすくい投げという技は、さっき優子が乾に決めた技でもある。仕返しは成功したみたいだけど、でも威力的にすごく痛かっただろうと思う。
「押さえ込みっ!」
流れるような寝技――それは横四方固めだった。完全に極まっている、逃げようがない。乾の左手が握るのは優子の太もも。顎は乳房の上。遠慮するどころか、そのまま全力で顎を下方向に押し付け、その動きを制している。
勝ちたいのだ、この人は。恥なんか、どうでもいいんだ。それから時間が経って、あと5秒というところだった。優子は、優子は――
「がああああああああっ!!」
乾の首に、優子の握擊が入った。刹那、乾はたまらず身体を退ける。多分、あざが残るんだろうな。優子の握力は77だったと思う。まともに暴力を食らえば、男でも病院行きになってしまう。
わたしは、うつむいて考える。これからどうなるのだろう、試合はどうなってしまうのだろう。ここまで先の読めない試合は今までになかった。こんな感覚は初めてだった。
乾には、20秒押さえ込んだことによる有効ポイント。優子には、危険行為として注意が与えられた。
残り時間はほとんどない。両者のポイントは並んでいるから、このままだと引き分けになる。でも、そうしようなんて考えてないだろう、この2人は。
お互いの組み手が完成する。はじめはまともに組めなかったのに、この乾という人は、まるで試合中に別人にでも成り代わったみたいだ。
残りの試合時間は10秒しかない。優子は、また身体を僅かに揺らせる。
わたしがまばたく間に、優子は大内刈りに入っていた。本当に一瞬だったけど、乾はそれを捉え、返し技のようなモーションを取ろうとしている。
だけど、そこから先は――わたしの認識では捉えられなかった。次のまばたきの直後。大内刈りだったものは内股に変化していた。乾の身体は、バネのおもちゃのように浮き上がって真横から落ちていったんだと思う。
「一本、それまで!」
熱戦は、終わった。
「乾先生、格好よかった~」
千奏お姉ちゃんが、乾を激励している。
「優子になにしてんですかああぁーーーーっ!!」
「うげえっ!!」
わたしは、その両襟を掴んだ。優子が、あんなに酷いことされたのを今になって思い出す。そのままの体勢で、わたしは乾を前後に振った。
身長差は15センチメートルくらい。乾の視線は、多分わたしの胸のあたりにある。いま、揺さぶっているということは、とんでもないことになってるんだろうな、わたしのおっぱ……
「離せっ!」
振りほどかれてしまう。乾は、一直線に優子の元に。彼女は、1人で板の間スペースのちょっと奥、観客席に座っている。
話しかけようとしている。距離的に話は聞こえないけど……無理だろうな、きっとなにも話せてない。だって、あの子はすごく気が小さい。じっと黙ったまま、乾は徒労を収めるんだ、間違いない、きっとそうだ――