♯02
あの日々を今でも思い出します。わたし達にとっての汗というのは、皮膚の代わりでした。練習中には、いつでも粘り気のある膜が張り付いていて、かすかな外風を受けて痒く感じるのでした。
5/20(金)
数週間前のことだった。一体、なにが起きたのかと思った。あの日から数日後、わたしが小さい頃から通っている――幸原道場に足を踏み入れた、その時。
あの禿げたおっさんがいたのだ。幸原道場の責任者で、わが校の柔道部顧問でもある志上先生と、畳の上で話していた。
同じくその場にいたお姉ちゃんに聞いたら、律子先生から紹介を受けてきたとのこと。
「お姉ちゃん、わたし、あんな奴入門できないと思うよ」
うちの道場は、言い方は悪いけど敷居が高い方だと思う。入門希望者が来ても、実際に籍を置けるのは1割程度。市内はおろか、県内でも有数の歴史と実績を誇る幸原の門をくぐることは難しい。と思う。
「おーい、みんな」
夜の部の練習に来ていた全員に声が掛かった。みんな小走りで集まってくる。
「新しい仲間を紹介します。乾くんです」
「今日から一緒に練習することになる、乾賢太朗です! 宜しくお願いします」
「信じられない」という表情になったことを、自分自身でも実感できる瞬間だった。それから数週間が経って――今に至る。
「あ、あの、こんばんは……い、乾さん」
「こんばんは、千奏ちゃん」
お姉ちゃんの最後の声は、本当に小さかった。相手に聞こえていたかも分からない。お姉ちゃんは、この乾という男によく話しかける。お陰さまで、わたしと話す時間はちょっと減った。今だって、お姉ちゃんは自分から乾に歩み寄っていったのだ。
ちらり、と律子先生の方をみる。じっとこちらを観察しているようだ。怒らせると怖いんだよね……。それにしても、お姉ちゃん好きな人いるんじゃなかったの?
「い、乾先生、今日も九里村先生と来たの?」
「ああ、私は車、もってないからな。それより、今日は来るの早いな」
「うん、授業が早く終わったから」
お姉ちゃんは、ますます近寄っていく。ああもう、こんなハゲのどこがいいの?
「じゃあ、車で来ないの?」
「ああ、来ないんだよ」
「でも、たまには来てね」
最近、本当に不安になってくる。お姉ちゃんが、こいつに取られちゃうんじゃないかって。お姉ちゃんの好きな人のことが頭をもたげる。まさか、こんな奴の方を取るなんてことはない……はず。
「たまには、な」
「そんなこと言って、律子先生に甘えてばっかりなんでしょ?」
その時、お姉ちゃんのおでこが撫でるように押し飛ばされる。でも、お姉ちゃんはずっと乾を見上げていた。お姉ちゃんの視線は、乾の目をまっすぐにみている。乾の視線は――予想なんて簡単だ。お姉ちゃんのおっぱい――じゃない!?
乾も、多分……千奏お姉ちゃんの目をみていた。その様子をじっと観察するわたしという存在が、なんだか奇異なものに思えてくる。
「大人をからかうんじゃねえ」
「だってぇ……」
もう、いい。
「なにしてんですかあああっ!?」
「ほげえええええっ!!」
わたしは、渾身の回し蹴りを打った。小学生までは、同じ施設内で柔道と空手を一緒に学んでいた。幸原道場は3階建ての運動施設で、柔剣道に空手に少林寺に、あらゆる武道を学ぶことができる。
乾の体は、もんどり打つように道場の端、板の間にぶつかって止まった。怪我? 知るもんか、むしろすればいいのよ。
「乾っ! なにしてるんですかあっ!? お姉ちゃんに! あなたは邪魔だって、言ったじゃないですかあっ?」
「い、痛いじゃないか……」
「お姉ちゃんに近付くなって、何度も言いましたよねえ?」
「千璃ちゃん、わたしから近付いたんだよ」
周りを見渡す。みんな、始めは物珍しそうにみてたけど、今では何の反応もなし。むしろ見世物になっている気さえする。
「別に、いいだろ。お姉さんの好きにさせれば」
「だ~めっ! 悪い虫がついたらどうするんですかっ。責任取れるんですか。わたしは姉を愛してるんですっ」
「……なあ、千璃」
「ああ~~っ!!」
……お姉ちゃん?
「乾先生、妹を呼び捨てにしないで下さい」
「何で? 千奏ちゃん」
「何でって……親しい人同士でやるものでしょ!」
「千璃、呼び捨てでもいいか?」
「い……いいですよっ。わたしも乾って、よ、呼び捨てしてますからっ」
別に、わたしは呼び捨てでもいい。暴力を働いて悪い、という思いも少しはあったから。でも、お姉ちゃんの反応は読めなかった。
ありえないけど、もしかしてお姉ちゃん……いや、お姉ちゃんは誰にでも優しいからよく勘違いする男がいるけど、それにしても、べたべたし過ぎなんだよなあ……。
「これより、練習を、始める!!」
上座の方から抑揚のついた声が響いてくる。今日の練習を仕切るのは宇野先生だ。志上先生もそうだけど、2人とも、ものすごい実績があって、まだ若いけど道場の指導者として教えている。
志上先生は小柄で掴みどころのない、まったりとした感じ。だけど、宇野先生は見た目が怖い。体格だって、すらっとしていて、なおかつゴツイ。でも、本当はおちゃめな性格なんだよね。
今日の練習が始まった。準備運動や柔軟体操、受身ときて、今は立ち技の打ち込みまできている。
打ち込みというのはペアになってやる練習で、いま、わたしは乾と組んでいる。もちろん誰であろうと関係はない。真剣にやる。乾の方も、淡々とわたしに打ち込んでいる。
『内股なんて、いつの間に』
そう心で呟いた。この乾賢太朗という男。練習当初は、初段とは聞いてたけど、それはひどい有様だった。まともに開脚もできず、まともに技も打てず、まともに寝技もできない。10年ぐらい柔道をしていないからと言っても、その光景は、あまりにひどかった。
それが、一週間、二週間と経過する度に、どんどん上手く、いや、コツを思い出してきて――今では、それなりに上級技の練習をするようになっている。
最後の一本は、実際に投げる。乾の一閃――わたしの股下を捉える、大男の右脚。わたしの体は、乾の真横に落ちる。本来だったら、真横じゃなくて乾の体があった位置を飛び越えて宙を一回転するんだけど、やっぱりまだ、そういうレベルじゃないんだろうか。
あ。そういえば今日は、あの日か。遅れるとは聞いてるけど、優子、まだ来ないのかな。
「それでは、団体戦を始めましょうか」
志上先生が呼びかけると、それぞれのチームに分かれていく。乾は、律子先生から説明を受けているようだ。そして乾は……こっちの、志上チームに来た。こちらは11人で、あちらは10人。まあ、そこまで対等さは変わらないか。
「乾先生、わたし達のチームに来てくれるなんて嬉しい」
「なんでわたしたちと同じチームなんですかっ? 不運ですね……今回は勝ちたかったんですが」
女子は人数が少ない(合計で4人)。だから、定例試合では男と女が混ざって試合する。男女戦のルールはもちろんあるけど、それでも男子相手はやっぱりきつい。
それに、今年に入ってから志上チームは一回負け越していた。こんな奴でも戦力が増えるならそれでいい。
こちらの先鋒は乾だった。乱取りは男女別だから一緒に組むということはないけど――男子の練習スペースをみた記憶によると、苦戦してる姿しか見たことない。初段って聞いてるし、そんなに強い方じゃないんだろうな。
こいつは、一体どんな柔道をするんだろう。戦力にはならない公算が強いけど、ちょっとくらいは応援してやるか。両チームの先鋒が、試合場の内側、開始テープの前に並び立つ。宇野先生の「はじめ」という剛直な声が響いた。
乾の相手は、ちっちゃい子だった。わたしと同じ、高校1年生。坊主頭を薄青色に光らせて、自分よりもふた回りは大きい相手に挑んでいく。ふたりとも、先に引き手(※掴む位置的には、対戦相手の右肘のあたり)を持とうと躍起になってる。柔道的には、もちろんそれが正道なんだけど……。
たった今、ちっちゃい子が引き手を掴むのに成功した。それを切ろうとする乾だけど、彼がついでに釣り手を取る方が早かった。
「乾先生、切って、引き手を!」
律子先生の声援も虚しかった。乾は、負けじと引き手を取り返したけど、肝心の釣り手を取り返すことが出来ないでいる。それはもちろんで、先に引き手を取られてしまった時点で、こうなる未来は決まっていた。乾が、どれだけ右手を前に出して相手の釣り手を奪おうとしても――先に奪われている引き手で突っ張られると、それも叶わない。
「乾先生、背負い危険っ!」
その声と同時だった。ちっちゃい子(ちなみに名前は忘れた)が、くしゃりと自分の身体を折り曲げるように、低い背負い投げに入った。乾の股下に完全に進入したその子は、全力で体を伸ばし切ることで乾を投げ飛ばそうとする。一歩、また一歩と、大男を担ぎかけて――
「おおおおっ!!」
「すげえっ!」
歓声の原因は、乾が投げ飛ばされたことじゃない。実際は、その逆で。ちっちゃい子の躯体が綺麗に翻って、まるでひしゃげたカエルみたいな感じで、畳に落ちてしまった。一体、なにをしたの? たしか、低くしゃがんだ体勢の相手の膝部分を、引き手で握り込んだところまでは見えた。でも、その後の動きは、あまりに速すぎて捉えることが出来なかった。
「技ありっ!」
少しだけ遅れて審判の声が響いた。珍しい技だから判定に迷っていたんだろう。投げられた相手は、今はまっすぐに背中をついてるけど、はじめに接地したのは体側面だった。だから、一本じゃなくて技あり。別に、一本でもよかったと思うんだけど。
ああもう、とにかく注意して見とけばよかった。
「……すくい投げね」
「お姉ちゃん! そんなパターンのすくい投げってあるの?」
「身体のどこを握っても、浮かせて落とすならすくい投げよ。今のは、背負い投げに対するカウンターとしてのそれ。しゃがんでる相手を楽に転がせる握り位置といえば、胴衣の膝しかないから」
「なるほど」
待てがかかって、開始線まで戻った乾に目を移してみる。さっきのシーンが、まるで嘘みたいに真剣なまなざしだった。相手を真剣に睨みつけていて、なんか、まるで……いやいや、だからなんで、こんなハゲばかり見ちゃってるの!
「はじめ!」
また組み手争いが始まった。さっきの投げを見ても、総合力なら乾の方が優ってると思う。でも組み手だったら、相手の子に優位があるみたいだった。だって、乾の奴。てんで自分の組み手を確保できてない。ちょこまかとした動きに翻弄されてるのが、ここまではっきりと伝わってくる。
今も、相手に取られたばかりの引き手を切り離そうと、真後ろ方向に右手をスイングさせたところだ。このままじゃ、消極的戦意の反則を取られちゃう。技数だって相手の方がずっと多いし。
その時だった、音が響いたのは。なにかがなにかを叩いたような、そんな音。乾が、組み手の確保するのに成功したんだなって気が付いたのは、数瞬後だった。
乾は、ちっちゃい子の背中を握っていた。釣り手、つまり相手の前襟を握ることが出来ないならと、強引にその体の上を乗り越えて、背中を掴みにいっていた。そのまま、右腕の脇を絞ることで、一気に相手を引き付ける。身長160あるかも怪しいあの子に、乾の豪腕なんて切れるはずがなかった。本当に、なんて可哀想なことをするんだろう。試合だからしょうがないけど。
お互いに、じりじりと動いていく。ちっちゃい子は、やや前傾姿勢を取りながら小まめに足技を繰り出している。でも、まったく効いてな――
「有効っ!」
まただ。また、わたしが考えてる時に~~!!
乾が打った技は、払い腰……だと思う。だって、相手の身体が乾の右脚に捕まった状態で、ぐるんと振り回されるように畳に転がっていくのが映ったから。払い腰である可能性が高いんじゃないかと、勝手に思ってる。
「押さえ込み!」
終わった。自分よりも20キロ以上は重たい選手に袈裟固めを決められて、逃げられるはずがない。じたばたと動くけど、肝心の脱出については明るい気配が見えなかった。試合用タイマーの鏤刻はどんどん進んでいって、やがて――
「技あり! 合わせて一本、それまで!」
乾は、起き上がった。さっと開始線まで戻ると、相手の子もゆらりとした仕草で戻っていく。宇野先生の右腕が、乾の方へと掲げられる。審判が勝者を指し示すという、あまりに分かりやすい決着のジェスチャー。負けた方は、なんだか元気のない礼だった。悔しいのは分かるんだけど……。
視界の中に、次の対戦相手が入ってきた。あ、この人は。最近、幸原に通い始めた人だ。たしか、この人はレスリングをやっていて、自分の技をさらに磨くためっていうのが入門動機だったと思う。入門を認めた志上先生は、多様性が自分たちの柔道を……とか、色々と小難しいことを言っていた。
この人の体格というのは――背は高くなかったけど、とにかくゴツかった。髪はスポーツ選手としては長め。ってゆうか、スポーツをやる者の端くれとして、短髪じゃない時点でどうかと思う。
その人は、開始線を示す赤白テープの前まで辿り着く間に、その胸板の存在を強調するように身体を張り詰める動作をしていた。こないだも、わたしたち姉妹の前でそんな仕草をしてきた。目的なんてわかってるんだから。しかも、お姉ちゃんに話しかけて。すぐに追い払ったけど。男って、なんでこんなにキモイんだろう。
「来たぞ!」
その声が聴こえてすぐ、道場の出口を見た。すると、全体的に暗い色調の制服を着用した、背の高い子が昇ってきていた。一目見て、いや、階段を昇る反響が聞こえたときから、この子じゃないかと思っていた――優子! と叫びそうになる心を制しつつ、目の前の試合へと神経を集中させる。
その子は、柔道場にその姿を見せると、息せき切って更衣室へと飛び込んでいった。早く、早くしてね、優子。あなたは、今日の三番目なんだから。
「はじめ!」
試合開始の直後だった。乾は、さっき自分がやった手を返されることになった。
その背中を、思いっきり握られてしまったのだ。あの人、力だけは強いから。柔道は始めたばっかりだけど、宇野先生も、さすがに筋がいいって褒めてたような気がする。
でも、乾だって負けてない。背中を取り返したのだ。二人とも、ものすごく睨み合ってる……でも、こんなに密着した体勢じゃ――
「乾さん、離れてっ!」
今度は、お姉ちゃんの声だった。乾さん? なにそれ、まるで恋人みた――そんな思いを感じた途端に、2人の男はこんがらがって畳に伏してしまった。
今度は見逃さなかった。はっきりと見たのだ、背中を掴まれた途端に右手を離して、それを乾の首に回し込みながら組み付いて――自分の全体重を預けていった。それは、払い巻き込みという技だった。巻き込み技というジャンルで、要するに相手がなかなか倒れない時の非常手段だ。始めっから、それをしようとしてやる技じゃなかった。
お互いに、畳に伏せったままで動きはなかった。寝技で勝負しようという意識はないみたい。
「待て」
今度もまた、勢いよく釣り手から取りにいく乾。でも、それは相手も一緒。さっきと違うのは、取る位置が背中から奥襟へと移ったこと。
鍔迫り合いが続いている。乾は、申し訳程度の大内刈りを繰り返しているし、相手は相手で、げしげしと足払いで乾のすねを蹴飛ばしている。
思い切って技に入れない理由はわかる。だって、2人とも密着し過ぎてるから。入り損なったら、力任せに返されてしまう。だから、勢いよく技を掛けることが出来なくなっている。
足払いだけでは指導を取られると思ったのか、乾の対戦相手は思い切って大内刈りに入った。ぐりりと喰い込んだ右足、乾の右肩は制されてたから――それは順調に乾を後退させていく。
何歩も何歩も、畳が蹴られる音が響き渡る中で、ついに静止の時がやってきた。場外際で、ついに乾が踏みとどまった。そのまま、足を引っ掛けられている左脚を振り切ったなら、相手の姿勢は崩れかけてしまう。
掛かっていた右足が外れたばかりの相手は、片足でなんとか姿勢を保ちつつ、間髪入れずに大内刈りを大外刈りへと変化させた。その右足は、乾の両脚をしっかりと捉えている。耐えてはいるけど、明らかに効いていた。さすがに、ここまでなんだろうか。わたしは、その体勢を注意して見ることにした。特に心配だったわけではないけど……。
「待て」
静止時間が長過ぎて待てがかかったみたいだ。開始線(厳密に言えば開始テープ)まで帰っていく2人。乾は、相変わらず相手を睨んでいた。絶対に勝ってやるぞという意思をもちながら、でも憎しみを感じさせない、そんな面差しだった。
ところで、わたしの予想よりも「はじめ」の声が響くのが遅い。それもそのはずで――宇野先生は、その両腕をくるくると回す仕草を取っている。糸巻きみたいに。
「……」
教育的指導、という反則だった。要は、乾には戦意が足りないと審判に判断されてしまった。一回目の指導で、それが消極的戦意によるものの場合だと、ジェスチャー時の発声がない。
「あぁ、指導だぁ……」
「なっさけないですね」
情けないとは言ったけど、別にそこまで乾を卑下するつもりはない。一応は攻めてたし。相手の方が若干、攻めてる感が強かっただけだ。別に、乾を応援したいわけじゃなかった。ただ、その相手が嫌なやつだったから。
「はじめ!」
性懲りもなく、また奥襟の掴み合い。ああもう、男ってなんでこんなに単純なの? というわけでもなかった。だって、乾が技を掛けたのは組み際だったから。大内刈りが思い切り命中したとき、そのゴツイ人は未だに組むことが出来ていなかった。いざ組もうかという時に技に入ったんだから、それも当たり前なんだけど。
でも、その人の脚力は凄まじかった。乾が数歩追っただけで、そのステップは停止してしまう。それは、ものすごい意地の張り合いだった。乾は乾で、なんとしても相手を刈り倒そうとしてるし、相手は相手で、憤怒の形相で耐えている。いや、耐え切るどころか、むしろ返そうとしているように思える。
お互いの身体の位置も、そんなに動いてるようには見えない。そんな拮抗が、十数秒は続いただろうか。宇野先生が、やれやれといった表情で2人に近づいていく。もうすぐ待てがかかってしまうだろう。
見えなかった。見逃したんじゃない、見えなかった。私から見て、乾の背中はまっすぐに見える位置にあった。それでいて、わからなかった。わかったのは、乾が、その身体を引っくり返して――そうなったなら、対戦相手の体が、それに呼応するように消えてしまって――水平方向に回転しつつ畳に落ちていったこと。内股、炸裂だった。
でも、でも見えなかった。畳に落ちた瞬間はわかったのに。肝心の、その――軌跡が、一切合財みえなかった。こんなこと、初めてだった。乾賢太朗の内股に、ここまでの威力があったなんて。
「一本、それまで!」
文句なしの一本だった。
乾がすごいかというのはわからないけど、でも才能があるとは思う。入門当初は、例えばさっきのちっちゃい子にもポンポン投げられてたけど、今では見てのとおり。柔道勘が鈍ってたっていうならわかるような気もするけど、それにしても、彼がそれを取り戻していくスピードというのが、あまりに早いという気がしてならなかった。
開始線まで戻って、さっきと同じく宇野先生に右腕を掲げられる乾。そして、これまたさっきと同じく、腰を支点として身体を折り曲げ、完璧な礼の所作を決めてみせた。対する敵人の礼は、まさに適当という表現がよく似合うものだった。
理由はわからないけど、スポーツの世界だと礼儀作法の美しさと実力とが正比例するらしい。原理はわからないけど――お父さんがそう言ったんだから、それで間違いないよね、多分!
乾は、誇らしげな表情でいた。でも、わたしは彼の幸運がここまでだということを、さっきから知っていた。乾の試合が終わって、礼が完了するあたりだった。わたしの後ろを、あの子が通っていったのだ。相変わらず着替えが早い、とても女子とは思えないほどに。それに、ここまで走ってきたんなら準備運動だって要らない。
「ねえ、優子。今日は三番手だよ。頑張ってね」
「……うん……」
そう言って、微かな笑みを返す少女の名を、優子といった。わたしと優子は別のチームだった。でも、一緒の高校で一緒の部活だったから、敵チームながらも最低限の交流は欠かせない。
私は、黙って乾の方を見た。下を向いてはいるけど、なにか考えてるのは間違いなかった。そして乾は、赤畳の方に視線をやる。
その選手と向き合って初めの1秒間は、なんでもない間のように思われた。でも、わたしにはわかったんだ。乾の表情が、少しだけ歪んだのが。歪んだ、というよりは困惑だった。対戦相手に女子を宛てがわれて混乱する乾賢太朗の表情が――わたしにはわかる。
そのまま、じっと様子を観察していた。余裕というほどではなかったけど、2人抜きを達成した乾は、開始線を示すテープの上に佇んでいる。その間に、わたしの、彼に対するいくつかの考えが意識に浮かんでは消えていった。