♯14
じゅるり、という音を立てて、わたしは乾の鼻血をすすっていた。頭突きのお詫びとして、乾に舐めるように言われたからだ。
鼻の外側は気持ち悪い感触だったし、鼻の穴は、まるで悪臭の中を突き進んでいるようだった。でも舐めないと、もっと酷いことをするって言うから……仕方がなく、こうしている。
「もういい」
舌先と鼻の頭にできた唾液の曲線を見詰めながら、次に視線を移したのは乾の表情だった。
まるで自分の支配物だ、とばかりの視線でこちらを見下ろしてくる。身長差が15センチメートルもあるから、対面上で膝に乗っけられると、あちらの視線がずっと高くなってしまう。
「千璃」
乾は、右手の指先で自分の舌を指差す。合図とはこれだろうか。
「……」
沈黙が続いている。
乾はわたしの瞳を突き刺しているし、わたしはわたしで黙ったまま。やがて、そのまま膝の上に座る姿勢で――わたしは、乾の舌先にくちづけをした。
「あ、はあ、うぅ……」
およそ10分が経っている。いまは乾に命令されて舌の上を掃除している。その舌上を舐め上げることで、きれいにしているのだ。
「あうう……! 変なとこさわるなあ、ほじくるなぁ……」
上半身のさまざまな箇所に加えられる力。汗がさらに噴き出す感触を得る。
「ひゃううっ!」
「お前、柔道強いだけあって良い筋肉してるな。普通の女は座った姿勢で腹筋なんて見えないのに」
上半身はすべて蹂躙されていた。最後に、お腹を触られて変な声が出てしまう。でも、それは乾といやらしいくちづけをしているから、というのがより正しい。
「はっ、はっ、は……あぁっ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、ぁ……!」
もうだめ、続けられない。わたしを支配するのが性欲だったことに気が付いたとき、もうすでに遅かった。
「もうだめです、許して下さい」と懇願したところで、そうはならないだろう。それに、体の奥は、この程度の快楽では許してくれない。
でも、でも、本当にもう……乾の身体に崩れ落ちそうだった。崩れ落ちる。
「あ、あの、乾。休んで……いいですかっ?」
乾の表情がおかしい。
さっきまでと違う。いつから? 分からない。でも、これは……いつものいぬ――
「う、う、違う、違う。早く、千璃……こんなところ来るんじゃなかった、くそ……したくてしたくて、たまらない」
突然に苦しみだす乾。
「だ、だいじょうぶですか、乾?」
彼は、こちらを振り向いて、
「……知ってるけど、念のために聞く。お前は誰だ?」
なに? どうなってるの? 本当に分からない。
「わ、わたしは……あ、あなたの……」
「……」
「あ、あ、あ……あなただけの……」
「……」
「あなただけの……」
恥ずかしくて言えるわけないでしょ。乾は、変わらず苦しそうな面持ちをしている。もしかして性欲が溜まってるんだろうか、学校の友達が、男についてそんな立ち話をしていたような気がする。
……よし。自分の心に勇気を灯す。
「き、き……」
「……なんだ?」
「き、キスして……ください……やさしく」
再びの暴力だった。
わたしは組み敷かれ、そのまま乾は上に。両腕を掴まれた姿勢で今宵何度目だろうか、乾と向き合う。
両胸に乗っているかたまりが、姿勢の変化によって大きく脇に落ちた。同級生や後輩にすらからかいの種にされるそれは、本当に重たくて、重力で垂れ下がった際の不快感がわたしを襲う。
やっぱり。今と雰囲気が全然違う。どうして、どうしてこうなったの。
乾は、わたしの右脚を持ち上げて肩にかつぐ。抵抗は意味がなかった。だって、こんなに密着していたら力が強いほうが勝つに決まってる。
ここで、乾の下半身が添えられようとしているのを察した。全力で後ろに下がる。
「い、いや! それだけは……」
「……うるせえな。いい勉強になったろ」
そう言って乾は、わたしの頬を張る。
また恐怖で涙が出てきた。なんとか後ろに下がったものの、すぐに壁にぶつかる。乾が、わたしの下寝巻きに手を掛けようとする。それを防御しようとして、なんにも思い浮かばなくて。やぶれかぶれとばかり、逆に乾に対して向かっていき、そして――
乾の顔つきがゆがむ。わたしは、正対した姿勢から乾のズボンに両手を入れて、その爪を尻に突き立てたのだ。
その下半身が出血していくのがわかる。苦悶の顔を浮かべる乾。痛いに違いなかった。その状態からでも、わたしの下半身に掛けられる腕の力は緩まない。ますます、壁に寄せられていくわたしの躯体。お尻の下に髪の毛が引っ掛かって痛かったけど、気にしている余裕はない。
逃げられないところまできて、滑稽な事実を手に入れた。
ふたりでコタツに入っていた時から、乾は、まだなにも衣服を脱いでいないし、わたしも寝巻きの状態からなにも脱いでいない。乱れてはいるけど、太もものシュシュを除いて、近所のコンビニまで行ける格好だった。
こんなにエッチなことしてるのに。それが、あまりにも滑稽で。吹き出しそうになる。
乾は、埒があかないとばかり、寝巻きショートパンツのゴム部分を握って逆さまに吊り上げる。わたしの目の前では、青白縞の下着と、おしりの一部がみえそうになっていて――さらに乾の顔と、必死にばたつく両足がうつっている。
「乾」
思わず、呼んでしまう。
「乾! わたし、す……」
告白しようとした。刹那に悪手だと気が付いて口を止める。こういうのは、まともな関係のふたりでも女から言うものじゃないって、お姉ちゃんが言ってたのを思い出す。
なんでだったっけ。おかしなテンションのいま、どんな思考もまともにできない。それじゃいっそ、さっき思いついたばかりの最後の望みにかけよっか。
「乾! わたしを、わたしをみてください」
一瞬だけ、動きが止まる。わなわなと震えながら、わたしの瞳を覗き込む乾。第一段階――成功。
「ああ、ああ、ああああああああああああああっ!!」
乾は急に立ち上がった。あっけに取られるわたしをよそに、部屋を出ようとする。
「千璃、すまない。私は帰らなきゃならないんだ」
こんなに酷いことをされていたのに。寂しさが込み上げてくる。こんなに酷いことをされたのに。帰って欲しい、とわたしの理性は訴えるけど、感情は別のことを思ってる。ついさっき見た、夢の光景が脳裏に浮かんでいて――わたしの感情は、それを強要していた。
「わたし、乾のことは好きですよっ、でも……もうちょっと、後にしま――」
悪寒が走る。
身体の芯から冷える感じ。後悔に包まれる。目の前の暴行魔は、再びわたしを襲い、そして――