♯10
8/19日(金)夜
飲み会は、地下の暗がりのさらに奥で催された。
Lie、という名前の店で、この店名には多くの意味が含まれていると志上先生が言っていた。星河学院の祝勝会はいつも此処でやる。今日で来店4回目。中学生の時も、この店で姉の勝利を祝ったことがあった。
志上先生が言うには、夜の時間帯でも知らない振りをして未成年を入れてくれるし(そもそも、保護者がついていれば未成年でもOKらしい)、なにより、コース料理の方が利益になる人数での来店があっても単品注文を受け入れてくれるという気前の良さだ。
「おう、何にする?」
宇野先生は大食らいだ。体重は90キロ以上あるし、やっぱり柔道強い人って、食習慣的に強烈なことが多い。
「適当に頼みましょう、おつまみは後にして、とりあえずサラダと、刺身と……乾さん、なにか提案あります?」
「ピザうまそうじゃないか」
乾に反応して、志上先生は、
「ああ、それならホタテが乗ってるやつがうまいですよ」
「志上先生、常連ですものね。こんなに暗い店がお好きなの?」
「いや、もっと明るい店が」
「嘘ばっかり」
お姉ちゃんと志上先生の会話は聞こえているが、特に感想はない。練習中でもなければ大した会話はないし。わたしは、さっきのクレーンゲームのことを考えていた。
「千璃、千璃」
「ん? なに優子」
「注文、いっつも千璃、なにか頼んでるやつある」
いつもはグラタンを注文している。子どもっぽい料理が好きだった。柔らかくて、味が一直線なやつ。
「お刺身とか以外なら何でもいいですよ」
「千璃ちゃん? アレルギーとかないんだから、今日こそは……」
「ひっ、勘弁してよお姉ちゃん」
そんな流れで飲み会は始まった。ちなみに、位置関係はこんな感じだ。
隣のボックス席
壁壁壁壁壁廊―→
廊―→
私奏優布 廊―→
□□□布 廊―→
□□□布 廊―→
宇志乾布 廊―→
廊―→
壁壁壁壁壁廊―→
隣のボックス席
わたし達の席は壁に埋め込まれるような構造になっていて、さらに席出口には薄布のカーテンが設えてある。こうしていると、まるで秘密の洞穴にでも潜り込んでいるようだった。
楽しい時間って、どうしてこんなに早く過ぎ去るんだろう。
色々、会話をした気がするけど、今のわたしの頭は少しぼうっとしていて。ぐらぐらした気分だった。お話が盛り上がったのは覚えてる。
さっきまで、乾は追加注文でしばらくレジにいた。わたしはその間に悪事を行う。宇野先生も、お姉ちゃんも、志上先生も知ってる。でも、わたしはそれをするのがやめられなかった。悪習だった。
今現在、少々の食べ残しが乗った多くの皿に囲まれている。楽しい飲み会だったけど、残すところ1時間もない。乾も帰ってきたし、さあ、楽しもっか。うん、楽しも。
「なあ、乾くん! 律子ちゃんと付き合ってんでしょ?」
「いやだな、そんなことないですって! 宇野さん」
「いやいや~、一緒に帰ってるじゃん!」
あ、そうだ。そういえば。そこまで気にしたことなかったけど、2人ともどうなんだろうか。今日、律子先生が来ない日で本当によかった、よかった。
「うぐ、もう飲めん。本当に無理だ。で、どうなん乾くん!?」
「いや、その時分は、自動車に乗れなかっただけで……」
「自動車乗れないんですか、うわ、だっさいですね。でも、今日」
「千璃ちゃん」
あ、口に出しちゃった。そんなこと言う気なんてないのに。どうしても、乾と話がしたくて。
「おい、千璃。やっぱり、ぬいぐるみ返せ」
「ちょっと、あれは」
「諦めて、優子に操作させようとしたろう。あの時点で操作権は優子のものだ。私が優子に返しといてやる。ほら」
「う、う……」
いやだ、プリンのぬいぐるみ、優子に返したくない。返したくないよう。
「いやいや、乾先生。そのへんにしてもらえないですかね? 僕の教え子だからってわけでもないんですが……」
「志上先生……いや、じゃなくて千璃。ごめんよ」
「うう~、乾嫌い!」
「千璃ちゃん!」
浮かんでくる涙を拭っていると、優子の声が響く。
「乾、ねえ乾。付き合っているの? 律子先生と」
「あ、ああ! 付き合ってない! ホントだ、ただ席が隣なだけで」
「ほんとに、ほんと!!」
さらに喚いてしまう。自己コントロールできてないって、自分でも分かる。でも、少しずつ回復はしてる。
「乾先生、いいですねえ。僕も良い相手が現れるといいんですけど。まあ、一生無理かな」
「もう志上先生、お酒も飲んでないのに!」
千奏お姉ちゃんのお酌は堂に入っている。とても手馴れていて、まるでどこかで練習してるみたいだった。
「千奏! 俺にも酒!」
「宇野先生は、もうダメっ」
宇野先生は、飲み会当初からアホかってくらい食べて飲んで、この2時間でたぶん3キロぐらいは太ってるんじゃないだろうか。
「いやいや、志上先生はモテないことはないでしょ。冗談抜きで」
「乾先生、奢りませんよ!」
わたし達の監督は、コーラで酔っ払ったかのように大笑いしている。上機嫌、という感じ。
こんなバカ騒ぎでも、将来の大事な思い出になるんだろうか、なんてしょうもない予想に耽るわたし。時計は、その針を進めていく。
「はい、乾さん。たくさん食べて下さいね」
こういうの見てると、お姉ちゃんがモテるという事実を再確認させられる。わたしが知ってる限り、7人もの生徒に告白されている。
「もう、お姉ちゃん! わたし、生魚嫌いって言ってるのに~」
ついでに、わたしにも生魚が取り分けられるのだった。これはサーモンかな。
「ダメ! もったいないし、魚食べられないと損よ!」
「焼き魚はいいの。でも刺し身だけは勘弁してよ、うげ~」
その時だった。カーテンの役割を担う薄膜を開ける影があった。宇野先生かな、ついさっきトイレに行ったし。もしくは店員さん……?
どちらでもなかった。
逆光で顔はよく見えなかったけど、嫌らしい笑みが印象に残った。スーツで金髪という時点で、嫌な予感しかしない。街でわたし達に声を掛けてくるような連中だ。
「ねえねえ、きみら、うちのとこ来ない?」
「こっちは、いいスペースやねんか、広いし。なあ、ちょっとだけ」
何弁だよ。ここは岡山県だぞ、こらぁ。
「ねえ、君可愛いやん。来てよ、ちょっとでいいから」
「ほんまや! 可愛い。なあなあ、きてや。遊ぼや、な?」
こいつら、千奏お姉ちゃんを見てる。おっぱい、見てる。
今日のお姉ちゃんは、スーツと私服の中間みたいな格好で臨んでいる。こないだモールに遊びに行ったときに買ってたやつ。何万円もするやつだ。うちはお小遣い制じゃないから、こういうものも現金で買うことができる。
「うるせーんだよ、不細工。さっさと整形してこい」
叫んでやった。ざまーみろ。
わたしは、ビール瓶をテーブルに叩きつける。
「あ? うるせーブス! お前なんかお呼びじゃないんだよ!」
「ブヨンブヨンしやがって!」
う、人が気にしてること。これでも、お姉ちゃんよりも5キロは軽いんだぞ。常に60キロを切ってるんだぞ。
でも、格好はダサいかも。ただ遊びに行くだけだったら全身デニムなんてやらないのに。いまは一応、柔道の帰りだから。
「ああー、なんだってえ!?」
金髪の1人に睨まれると、急に恐ろしい気分になる。これまでの気分がまやかしだったかのように。宇野先生さえ居てくれれば、なんて卑怯な心持になる。
わたしは言葉を探すけど、なかなか浮かんではこない。ここで、乾が立ち上がろうとするのがみえた。こんなくそ女のために、そんなことしなくていいんだよ。
「ちょっと『すいません、いいですか』このま……」
結局、そのまま志上先生が乾に割り込んで、強引にことをまとめてしまう。男たちが去って行く様子が不自然に早かった気がするけど、とにかく、なんとかなった。
あっという間の飲み会だった。階上に上がり、1分ほど歩いて駐車場を見つけた。乾は料金を支払っている最中で、まだ来てない。
「お、乾先生。いい車に乗ってますね」
「クラウンじゃん、しかも十何年前のモデル」
くらうん? なんか聞いたことあるな。そんなに高いんだろうか。学校の先生って、そんなに給料いいの?
志上先生は軽自動車だった。すごく可愛いデザインの。みんな、くらうんとかいう車じゃなくて、志上先生のぷれおという車の傍についた。
「1、2、3、4……あれ」
足元がおぼつかない、わたし。あれ、これ4人乗り。ということは、わたしは……。
「おーい」
乾。乾の車に乗るの?
「おい、私の車は!」
「え、いやごめん! 乾くんの運転怖いんだわ! 初心者でしょ?」
乾は、慚愧に堪えない(?)という表情をしている。この語彙は、こないだの国語の授業で習った。
「おい、バランス悪いだろ。優子、こっちに来いよ。軽じゃ狭いだろ」
「……志上先生と行く」
もう、女心がわかってない。わたしは、覚悟を決めて乾の近くに寄っていく。
「ほら、罰ゲームでわたしがこっちにきちゃったじゃないですか! 早く出してください」
乾に言ったつもりだったのに。ぷれおは走り去った。
「は、早く。寒いんですよ、夏なのに」
乾はなにも反応を返さなかった。そんなに、そんなにわたしが嫌?
「早く!」
「うごっ」
蹴り飛ばした。これで、また嫌われたんだろうな。乾の横顔をみて、それが確信へと変わった。そうして、わたしは助手席に乗り込む。
静かな自動車だった。志上先生のよりもずっと走行音が小さい。それが感動的で、かつて両親と一緒に遊びに行ったときのことを思い出す。乾の横顔をミラーで観察するけど、どうにも憮然とした表情で、なんだか話しかけづらい。
「おい、千璃」
小躍りするような心臓の鼓動。
「……な、なん、ですか」
一瞬の間。
「お前、こっそり酒飲んでたろ。志上先生もグルだな」
「……」
終わった。ばれてしまった。
わたしは、お酒を飲む。いつからかは覚えてない。それは自分の意志だった。きっかけは別にあるけど、それでもわたしという人間が、自分の意思でその悪習を始めたのは確かだった。
「べ、別に。見逃してくれなんて頼んでないです。わたしが勝手に飲んでるだけです」
「千奏はこのこと知ってるのか」
「ねえ、乾」
「なんだよ」
静かな時間だった。決してやさしくはないけど、それでも、くたった心を紛らわせてくれるドライブだった。街灯も、信号も、対向車も。すべてが静かで。
動いている、いや止まった背景? そんな感覚を捉えるわたしの神経は、いま異常を示しているのかもしれない。
乾、なにを考えてるんだろう。かわいい教え子のこと? 自分の柔道のこと? それとも、優子のこと? こいつが優子に気があることなんて、とっくに気づいてる。わたしが気づくんだから、お姉ちゃんも、もしかしたら、他の全員もわかっているのかもしれない。
それでも、わたしは――2人には付き合って欲しくない、と思う。かといって、わたしが付き合いたいとか……そういう感情は、多分ない。ない。
それを今から証明する。わたしという人間が最低であることを示す。乾になら嫌われてもいい、本当のことを話す。
「ねえ」
返事はない。聞こえてる……よね?
「あんまり、女の子のこと勘違いしないで下さいね。具体例で言うけど、お姉ちゃんは家でタバコ吸ってるよ」
心臓が止まりかけた。乾のじゃない、わたしのだ。急にアクセルが強まったかと思えば、目の前に電柱が立っていた。相当びっくりしたに違いない。
「お前も……」
「わたしはやりません。くさいんですよね。でも、多分」
「多分?」
「好きな人の影響だと思う。お姉ちゃん好きな人いるの」
「いるのか、彼氏」
「違うと思う。でも、いるの」
また静かなドライブに戻る。本当に、なにを考えてるんだろう。気になって仕方がない。乾は、左手で何かのレバーを操作している。ガチャガチャと音を立てながら。父の車には、こういうのはなかった。昔の自動車って、走行中にガチャガチャしないといけないの?
お姉ちゃんがたばこを吸い始めたのは、ちょうど1年半前。何があったかはしらないけど、うちのリビングに灰皿があった。そして、お姉ちゃんは、わたしにちゃんと打ち明けてくれた。それが嬉しかった。
それから、どれくらい経っていただろうか。わたしは、姉の前で――その罪を犯した。姉と一緒に、罪を犯したいという決心がついたからだ。
乾は、なにも言わなかった。チクったりしない人だという思いは半信半疑だったけど、それでも責め立てられるに違いないという予想は完全にはずれた。
「……」
もういい、妄想のなかに留めようと思っていたけど。この際だ、言ってしまおう。
「乾、話がある」
「な、なんだよ」
「お姉ちゃん、今日は好きな人の家に行くんだ」
「え、そうなのか。じゃあ、」
「頼れる人とか、親とか……」
くらうんは、踏切前で停止する。
「今日、家にきて。泊まっていいから」
「……」
心臓の鼓動の激しさ。止まらない。
「深夜の泥棒が近所で2件あったの。怖いの。親いない」
泥棒が入ったのは事実だ。親のことも、部分的には本当。
「帰る。明日も忙しい。すま――」
ここで踏ん張らないと。柔道も、このままずっと転落していくだけに思えた。
わたしは、泣いていた。タバコの話の途中から、諦めたいという思いに駆られていた。それを克服するように、ずっと乾に話しかけた。
「どうしたんだよ」
「なんでもない、分かんない! きて! きて!!」
「……分かった、でも、日が変わるまでに帰るからな」
わたしは、ひとつ自由になった。