Good-bye, Home.
思い出せない街角というものは、時にまったく見も知らない町よりもはるかによそよそしい。
いや、思い出せないというのは、もしかしたら正しくないのかもしれない。思い出せないわけじゃなく、自信がない。
十年近く見ていなかった景色は、私の記憶どおりのようでいて、そうでない。
いくつかの家の持ち主が変わったり、建て替えられたり、新しく建てられたり、そういう出来事があったのは見れば判る。なのに、そこに感じるべき違和感に私は自信が持てず、だから、結局「ここは昔、一体どういうふうであったのか、思い出せない」としか思えなくなっている。
そうそう、こうだった。
あれ、こんなんだったっけ。
どちらも正しく、どちらも正しくない。だってそもそも、私の記憶が曖昧すぎるのだ。
人間の記憶というものはおかしなものだと思う。とてもとてもどうでもいいようなエピソードは鮮明なほどに思い出せるのに、そこに付随すべき景色はまったく覚えてもいないなんて。
見知らぬ名前の最寄りバス停に降り立ちながら、私はそんなことを考えていた。
愛用の小さな旅行バックを提げ、慎重にヒールを踏み出す、わずかな緊張感。
さくりと、靴底で馴染み深い──そう思えたことにいっそ感動するほどに馴染み深い音が鳴った。
雪だ。
この季節はまだまだ寒さの序の口で、そう深いわけでもない。
夜の間に積もったものが朝日に表面を溶かされた、とろりとしたザラ雪。車道と歩道の脇に残ってわずかに黒ずんだそれは、確かに私にとっては見慣れたものだった。
離れてから実感したことだが、この私の故郷は豪雪地帯になるらしい。北国とは言えないのに、雪国ではある。
そんなところに生まれた私にとって、雪というものはただそこにあるものでしかなかったのに。それに妙な感動を覚えたことに、苦笑してしまう。
幼い頃、冬場には必ず雪仕様のスニーカーのようなもの(当時はそれをスノートレーと呼んでいた。正式名称などは知らない)を履いていた。
今の私は、雪など積もらない地域で買ったヒールのあるブーツだ。気を付けないと足を滑らせる。幼いころには考えもしなかった心配。
そう、もはや私は幼い少女ではない。
懐かしげに田舎の景色を見回す、少しばかり都会の水に馴染んだ女。
この町が私を見忘れてしまった十年ほどの間に、私はそんなものに変わってしまっている。
ふと、目に入ったバスの運行表に苦笑する。
そう言えば昔は、公共交通機関など利用しなかったものだ。一時間に三本来るかどうかのバスや路面電車など、思い立ったが吉日型の私にはまったく不便でしかなかった。
当時、私の体を運んでいたのは軽快に弾む自転車。
そう、この田舎から都会に出た当初は、そんなことにも違和感を感じていた。
たかだか、徒歩や自転車での三十分の道行きを遠く感じるなんて、田舎育ちの私には理解できないことだった。
いつからか、都会のたった一駅や二駅でさえ、切符を買うようになっていたけれど。
私を置いて発車するバスの窓から、いくらかの好奇の視線が私を舐めていった。
そうだろう。
この町では髪を染めた人間も珍しいし、流行も、外出着そのものに対する感覚すら違う。
変わったようで変わらぬこの町にとって、私はすでに見知らぬものになってしまっているのだ。
それでも、思う。ざらざらと雪を踏みしめながら歩くのは、けして不快なことではない。
そんな私の中、一番深くて簡単な場所に刻まれているのは、やはりこの土地で過ごしたことがらなのだ。例え、見知らぬ風景が、思い出せぬ記憶が苛もうとも、ここが私の生まれ育った土地だということに、変わりはなかった。
肌を包む、雪と同じ温度の空気が、私を促す。自然と進む足の先が、ほんの少しずつのキイワードで私の中の幼さを揺さぶる。
おとぎ話に憧れて、赤レンガ造りの煙突の正体を探りに出たのはいつのことだった?
川の行方をたずねて、海まで歩いていったのは?
橋から見下ろす、川に沈んだボートは、ああ、確か二十年も前から変わらない。
同じでいて、同じでない。
視線の中と記憶の内と、二重映しのふたつの町の、景色がぶれる。
細い踵で雪を踏み潰し、不思議な感触に酔う。
あのとき、あのころ、この町を駆けていた少女は、確かに私であっただろうか。道路沿いに建っていたマンション、名前も覚えていないクラスメイトが住んでいたはずの建物は、すでに形もない。
まるで、自分の知らないものを探しているような気分だった。
変わらないものでなく、変わってしまったものだけを、自分の目に焼き付けようとでもしているかのように。
ゆっくりとした足取りが自分をどこへ運んでいこうとしているのかに気づいて、困惑と期待が綯交ぜになったような気分を抱いた。
大きな川を渡り、真っ直ぐに続くこの道は、小山の手前でひとつの場所にたどりつく。
幼い私が、とてもたくさんの時間を過ごした場所。
あのころの私が、とてもたくさんのおもいを抱いた場所。
特にどこへ行こう、何をしようと決めていたわけでもないのに、自然と足が向くというのだから、笑うべきか呆れるべきか。
そこが私の場所でなくなって、もう何年になるというのだろうか。
都会ではまず見ないだろう、針葉樹の並木が目に入る。
雪国の厳しさにも負けず、ささやかにも緑を残す、メタセコイヤ。田舎では、花粉症の人間なんて都市伝説みたいな存在だ。
セキュリティなんて考えもつかない形ばかりの塀に、いつかの卒業生たちが製作していったモザイク飾り。
その間からのぞく校庭遊具に、手のひらにこびり着いた錆の匂いを嗅いだような気分になる。
幼稚園から高校まで、隣り合う敷地に並んだ、私の学校。変わらぬ校舎の中に、確かに私はいたのだ。
タイヤでできたブランコを、空に届くくらいに蹴り上げていた。
ジャングルジムも滑り台も、私という名のロケットの発射台でしかなかった。
カラーコーンのような回旋塔は、確か……私たちが無茶な遊び方をしたせいで使用禁止にされてしまったのではなかったろうか。
しんと静まる休みの日の学校、あの頃とは違い閉ざされた門扉。
校舎は、少しばかり草臥れていたけれど、変わらない。けれど、入口に刻まれた校名に、堪えきれない寂寥を感じた。
区画整理の行われた町もそうだ。この学校も、いつの間に、私の知らない名前になってしまったのだろう。
まるで、私の前に立つ幼い少女が涙を流しているような、どうにも出来ない居たたまれなさに包まれる。
縋るように、校舎の上に視線を逃した。
灰色の空を従えた屋上、日の届かないあの場所は、今は雪に閉ざされているのだろうか。
そこから見た景色を思い出せないことに、私は愕然とした。
知っているのに、懐かしいのに、知らない。
不意に、私はそのことをこの上もなくつらいと思った。
何という名前をつければいいかも解らない気持ちだけれど、それは耐え難い痛みだった。
心地好いとすら感じていたはずの寒さが、ひと息に私に襲いかかってきたかのようだった。
悄然と肩を落とし、私は母校に背を向けた。思い出の中で限りなくやさしかったはずの場所から、足がゆっくりと遠ざかる。
目的地を定めていたわけではないけれど、どこへ向かうのかは、決まっていた。
考えるではなく、足が向く。当然のように、迷いもなく、違和感しか感じない道を歩く。
そう、あそこにあったはずの店は、私が毎日のようにきれいな文房具を眺めにいったのだ。
砂遊びで真っ白になったスカートに呆れていたのは、あの駄菓子屋のおばあさんだ。
漫画雑誌が発売されるたびに立ち寄った本屋は、まだあるのだろうか。
私が、幼かった私たちが息づいた町は、確かに。
雪雲に白く濁る空模様に、くしゃりと顔が歪む。
覚えている。放課後に過ごした時間を、私はきちんと覚えている。
毎日、どんなふうに過ごしていて、どんなことを感じて、どんなものを見ていたのか。
とてもきらきらしたものと、きっときらきらするであろうと信じられるものを、握り締めていた。
あの頃、世界はとても広く、また狭かった。
自分のテリトリーはすべてを知っていてなお広く、自分の知らない世界は知らないが故に狭かった。
知っている。自分の世界を構成していたものの正体を、すでに自分は知っている。
だからこそ、とてもとても素敵な宝物のような思い出だけはしっかりと放さないでいて、そのくせ、変わってしまった町の景色はすっかりと忘れてしまったのだ。
ざくり、と誰も踏まない雪が、この町には珍しいヒールで踏まれた抗議の声を上げる。
人の足跡も乏しいのにきちんと雪吊りされた庭木の枝が、ばさりと重い何かを払い落とす。
この町を忘れていた間に馴染んだ旅行鞄の紐を、ぎゅうと握った。
何も考えなくても、何かを考えていても、道を忘れても、町を忘れてもたやすくたどり着けるこの場所が、ほんの一日足らずの旅の、終着点だった。
知らぬ間に変わった前庭の様子が、よそよそしい。
知らぬ間も変わらぬ佇まいのすべてが、どうしても、慕わしい。
ゆっくりと閉じる瞼の内と外、あの頃と今と、重なり揺れるこの場所を、私は、何と呼んだらよかったのだろう。
私が町を忘れた時間、町が私を忘れた時間、きっとお互いを切り離せなかった私と、幼い私が帰った場所。
ざくりと、真白い雪が、馴れない靴に踏まれて笑い声を立てる。
雪囲いを組んだ細縄に垂れたざらめ雪が、顔を覗かせた日の光に溶けて滴る。
この町に背を向ける間に馴らされた温度が、ゆっくりと背中に添った。
ほんの一日にも満たない旅、十年もの月日を超えて、あの頃からようやくたどり着いたかつての私の終着点を、見届けると声がした。
コートのポケットの、右手に小さな銀色の過去。
コートのポケットの、左手に空っぽの体温と今。
ゆるゆると開ける瞼の向こう側、私は今、どこを、何と呼びたいのだろう。
決めかねて、決めたくて、どうしても、確かめたかった、私の帰る場所。
この上なくつらく、耐え難いほどに苦しく、襲いかかる痛みに、唐突に、私の心が呟いた。「喪失感」だ、と。
その名をつけてしまうことを、私はずっとためらっていたのだと。
「……ここで、生まれたの。育ってきたの。いろんなことがあったの」
愛惜だ、と幼い私がすすり泣いた。
覚えているすべてを私は惜しんでいた。忘れてしまった何もかもを、結局私は愛していた。
それを、どんな形であれ、遠ざけてしまうことを、私は哀しんでいたのだ。
哀しむことを、すでに私は受け入れていた。
右手を握る。
きっと思い出と変わらず、私を受け入れてくれるであろうかつての私の場所。
それでも私は、嫌だと思いながら、もうとっくに決めてしまっていた。
右手を放す。
背中に添う、雪を知らない温度に寄りかかり、空っぽの左手を彷徨わせて、私はそれでも笑った。
「忘れられないし、とても寂しい。でも、それでもいい」
すいと首を伸ばして、私は生まれ育った家に背を向けた。
この町を知らない瞳が、私だけを見下ろして、この十年の私を映していた。
空っぽだった左手が、体温と一緒に今の居場所を握り締める。
私は今日、とても大きなものを無くして、そこを、あっというまに別のもので埋めてしまった。
「私の故郷は、別の場所になるんだから。そうでしょう?」
身を切るほどに冷たい雪国の空気が、遠慮知らずの体温に押しのけられる。
頬を押し付けた肩越しに見る空が、愛別の雪を降らせていた。
見上げる、視界いっぱいの空だけは、今もあの頃も少しも変わらず、私を見下ろす。
どこかよそよそしいはずの景色も、もう私を苦しませることはない。
私は今日、かつての私と故郷にさよならを言った。