幼い頃の約束を信じて壁の花になった私を、隣国の英雄が迎えに来てくれました
「大きくなったら、僕のお嫁さんになってくれる?」
それは、私が十歳の頃のことだった。
春の陽射しが降り注ぐ庭園で、幼馴染の少年が真剣な顔でそう尋ねてきた。
「……本当に?」
「うん。絶対に迎えに来るから。」
「でも、レオンは遠くへ行ってしまうのでしょう?」
「そうだけど……。」
レオンは少し困ったように眉を下げた。
レオン・アシュフォード。
私より一つ年上の幼馴染で、アシュフォード侯爵家の次男。
幼い頃から一緒に遊び、ときには喧嘩もした。
そんな彼が、隣国アルセリア王国へ留学することになったのだ。
剣術と魔法の才能を認められ、王立学院への特別入学を許されたのだという。
けれど、レオンが留学を決意したのには、もう一つ理由があった。
それは、半年前のこと。
私たちは屋敷の近くの森で遊んでいた。
そのとき、突然、一匹の魔物が現れたのだ。
レオンは持っていた剣で私を守り、必死に魔物を追い払おうとした。
けれど、魔物は突然レオンに向かって飛びかかった。
「レオン、危ない!」
私は咄嗟に彼を突き飛ばした。
次の瞬間、鋭い爪が私の腕をかすめた。
幸い、駆けつけた護衛によって魔物は討伐され、私の怪我も大したことはなかった。
けれど、レオンはひどく落ち込んでいた。
「……どうして、僕を庇ったの?」
「だって、レオンが怪我をしたら嫌だもの。」
「でも、エミリアが怪我をしたじゃないか。」
「……うん。でも、レオンが無事でよかった。」
そう答えると、レオンは泣きそうな顔で私の手を握った。
そして、留学の話が持ち上がったとき、彼は迷わず行くと決めたのだ。
「僕、もっと強くなる。」
レオンは、私の腕に残る小さな傷痕を見つめた。
「今度こそ、エミリアを守れるように。」
私は、そんなレオンが大好きだった。
強くて、優しくて、いつも一生懸命な男の子。
そして、私のために涙を流してくれる人。
だから、遠くへ行ってしまうのは寂しかったけれど、彼の決意を応援したかった。
「……いつ帰ってくるの?」
「分からない。向こうで勉強して、一人前になるまでは、簡単には帰れないんだって。」
「……そうなの?」
「うん。でも、必ず帰ってくる。」
レオンは真っ直ぐに私を見つめていた。
「今度こそ、君を守れるくらい強くなって帰ってくる。」
「……じゃあ、私も約束します。」
「何を?」
「レオンが帰ってくるまで、ずっと待っています。」
レオンの顔がぱっと明るくなる。
「本当?」
「はい。だから、立派になって帰ってきてくださいね。」
「うん。僕、向こうでいっぱい頑張る。」
「……でも、無理はしないでくださいね。」
「分かってるよ。」
「本当に?」
「……たぶん。」
「もう、レオンったら。」
二人で笑い合った。
それから、レオンが小指を差し出す。
「じゃあ、約束だ。」
「はい。約束です。」
私たちは小指を絡めた。
「それに、大きくなったら、君を立派にエスコートできるような男になる。」
レオンは真剣な顔でそう言った。
私は、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「まあ! それじゃあ、私をダンスに誘ってくださるのかしら?」
「もちろん!」
レオンは胸を張った。
「君を立派にエスコートしてみせる!」
「ふふっ。では、楽しみにしていますね。」
すると、レオンが私の前に立ち、恭しく頭を下げた。
「エミリア。僕と踊っていただけませんか?」
「まあ。今からですか?」
「うん。練習しておかないと。」
私は思わず笑ってしまった。
「ふふっ。喜んで。」
差し出された手に、そっと自分の手を重ねる。
私たちはまだ、ダンスの作法なんて知らなかった。
それでも、レオンは私の手を引き、庭園の真ん中でくるくると回った。
「きゃっ。レオン、速すぎます!」
「あはは。ごめん。」
二人で笑い合った。
白い花びらが、春風に舞っていた。
いつか、また。
この人と一緒に笑える日が来ますように。
◇
それから、七年が過ぎた。
十七歳になった私は、王都にある貴族学園の卒業を、一ヶ月後に控えていた。
「エミリア、また婚約のお話を断ったそうね。」
昼休み。
食堂で向かいに座った友人のクラリスが、呆れたように尋ねてきた。
「ええ。昨日、お父様から聞いたの。」
「今度はどちらの方?」
「ローレンス伯爵家のご子息よ。誠実な方だそうだけれど……。」
「お断りしたのね。」
「……ええ。」
クラリスは小さく息を吐いた。
「もう七年よ?」
「分かっているわ。」
「本当に、まだ待つつもりなの?」
「……ええ。」
私は小さく頷いた。
レオンが隣国へ旅立ってから、七年。
その間、彼の活躍は何度も伝わってきた。
王立学院を首席で卒業したこと。
王国騎士団の選抜試験で、歴代最年少の合格者となったこと。
国境に現れた魔物の大群を討伐し、多くの人々を救ったこと。
今では、隣国で彼の名前を知らない者はいないという。
人々は彼を、若き英雄と呼んでいた。
「すごいでしょう? レオンは昔から努力家だったの。」
「……本当に嬉しそうね。」
「もちろんよ。」
私は微笑んだ。
彼が立派になったことは、心から嬉しい。
けれど。
……少しだけ、遠い人になってしまった気もする。
幼い頃、庭園で一緒に遊んでいた男の子。
私の手を取って、くるくると回ってくれた男の子。
そのレオンが、今では隣国の英雄なのだ。
「ねえ、エミリア。」
「何?」
「最近、レオン様からお手紙は届いているの?」
「……先月、一通届いたわ。」
「そう。」
クラリスは、それ以上尋ねなかった。
以前は毎月のように届いていた手紙も、今では数ヶ月に一度になっていた。
忙しいのだろう。
それは分かっている。
それでも、手紙を待つ時間が長くなるたびに、少しだけ寂しくなった。
「そういえば、最近あなたのことを『学園一の壁の花』なんて呼ぶ人がいるそうよ。」
「……壁の花?」
「ええ。舞踏会でも、いつも端の方にいるでしょう?」
「そうね。」
「ダンスに誘われても断ってしまうし。もう少し楽しんでもいいと思うのだけれど。」
「……でも。」
私は少し迷ってから、微笑んだ。
「舞踏会で最初に踊る相手は、決めているの。」
クラリスは、私の顔をじっと見つめた。
「……レオン様?」
「ええ。」
「本当に頑固なんだから。」
「ふふっ。よく言われるわ。」
そう答えながら、少しだけ胸が痛んだ。
私だって、踊りたくないわけではない。
華やかなドレスを着て、誰かと手を取り合って踊る。
そんな光景を見るたびに、羨ましいと思うこともある。
けれど、どうしても忘れられないのだ。
『大きくなったら、君を立派にエスコートできるような男になる。』
あの日のレオンの笑顔を。
「……でもね、クラリス。」
「何?」
「もし、レオンが約束を忘れていたら……私、どうしたらいいのかしら。」
口にしてから、自分でも驚いた。
これまで、誰にも言えなかったことだった。
クラリスは、少しだけ表情を和らげた。
「……不安なのね。」
「ええ。少しだけ。」
私は笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
クラリスは、そっと私の手に触れた。
「……エミリア。無理に笑わなくてもいいのよ。」
「……ありがとう。」
その言葉が、少しだけ嬉しかった。
◇
私の家は、由緒ある伯爵家ではあるけれど、決して贅沢な暮らしをしているわけではなかった。
それでも、お父様とお母様は、私が学園に通うことを心から喜んでくれた。
「せっかくの学園生活なんだから、たくさん楽しんでいらっしゃい。」
入学するとき、お母様はそう言って笑っていた。
けれど、私はあまり社交が得意ではなかった。
大勢の人が集まる場所では、何を話せばいいのか分からなくなることもある。
ダンスも、最初は苦手だった。
先生の足を踏んでしまい、何度も謝ったことを覚えている。
それでも練習を続けてきたのは、いつかレオンと踊りたかったからだ。
そんなある日のこと。
学園から帰ると、お母様が私を呼んだ。
「エミリア。ちょっとこちらへいらっしゃい。」
「はい、お母様。」
案内された部屋には、一着のドレスが掛けられていた。
淡い水色の、美しいドレスだった。
「……まあ。」
思わず声が漏れた。
「卒業舞踏会のために用意したのよ。」
「……私に?」
「もちろん。」
お母様は嬉しそうに笑った。
「あなたには、この色が似合うと思ったの。」
私は、そっとドレスに近づいた。
柔らかな布地。
控えめだけれど、丁寧に施された刺繍。
華美な装飾はない。
それでも、私にはとても美しく見えた。
「……ありがとうございます、お母様。」
「気に入ってくれた?」
「はい。とても。」
私は微笑んだ。
けれど、少しだけ気になってしまった。
「……でも、こんな素敵なドレス、高かったのではありませんか?」
お母様は、少し驚いたように目を丸くした。
それから、優しく笑った。
「まあ。そんなことを心配していたの?」
「……はい。」
「大丈夫よ。お父様とも相談して、前から少しずつ準備していたの。」
「……そうだったのですか?」
「ええ。娘の卒業式ですもの。」
お母様は、私の肩にそっと手を置いた。
「あなたが喜んでくれるなら、それで十分なのよ。」
「……お母様。」
胸が、じんわりと温かくなった。
私は、もう一度ドレスを見つめた。
このドレスを着て、卒業舞踏会に出る。
きっと、周りにはもっと華やかな令嬢たちがいるだろう。
でも、私には、このドレスが一番素敵に思えた。
「……大切に着ますね。」
「ええ。楽しんできてちょうだい。」
お母様はそう言って微笑んだ。
私も笑った。
けれど、心の中では、少しだけ考えていた。
……お母様。
せっかくこんな素敵なドレスを用意してくださったのに。
また、壁の花になってしまったら、ごめんなさい。
◇
卒業式が近づくにつれ、学園では舞踏会の話題が増えていった。
誰と踊るのか。
どんなドレスを着るのか。
どの曲が楽しみなのか。
友人たちが嬉しそうに話しているのを聞くたびに、私も少しだけ胸が弾んだ。
けれど、同時に不安にもなった。
……レオンは、帰ってきてくれるだろうか。
そんなことを考えていた、ある日の放課後。
「まあ。また婚約のお話を断ったそうですわね。」
廊下を歩いていると、背後から声がかかった。
振り返ると、数人の令嬢が立っていた。
中心にいるのは、ヴィオレッタ・ランカスター侯爵令嬢。
美しい金色の髪を持つ、学園でも目立つ存在だった。
「はい。ありがたいお話でしたが、ご縁がありませんでしたので。」
「ご縁、ですって?」
ヴィオレッタ様が口元を押さえる。
「幼い頃の結婚の約束を、いまだに信じていらっしゃるのでしょう?」
「……はい。」
「七年も前のお話ですのよ?」
「ええ。」
「……本当に信じていらっしゃるの?」
私は、すぐには答えられなかった。
七年。
長い時間だった。
それでも、レオンの言葉を信じていたかった。
「……私にとっては、今でも大切な約束ですから。」
そう答えると、ヴィオレッタ様は小さく笑った。
「……ご存じ?」
「何でしょう?」
「レオン様には、アルセリア王国の王女殿下との婚約話があるそうですわ。」
「……えっ?」
思わず声が漏れた。
「まあ。ご存じなかったの?」
「……はい。」
「今や隣国の英雄ですもの。王女殿下との婚約話が持ち上がっても、不思議ではありませんわね。」
「……そうですね。」
私は、どうにかそう答えた。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
レオンが立派になったことは、心から嬉しい。
けれど、彼の隣に立つのが自分ではなく、王女殿下になるのだとしたら。
……そっか。
そうよね。
レオンは、もう隣国の英雄なのだ。
「それでも、まだお待ちになるおつもり?」
ヴィオレッタ様の声に、私は顔を上げた。
「……はい。」
「本当に、おめでたい方ですこと。」
私は、そっと手を握りしめた。
「……ですが、レオン本人からは、まだ何も聞いておりませんから。」
声が震えないように、ゆっくりと言葉を続ける。
「せめて、彼の気持ちは、彼自身から聞きたいと思っています。」
ヴィオレッタ様は、少し面白くなさそうに扇を閉じた。
「……卒業式までには、現実をご覧になった方がよろしくてよ。」
そう言い残し、彼女たちは去っていった。
私は、しばらくその場に立っていた。
……王女殿下との婚約話。
本当なのだろうか。
もし、本当だったら。
私は、レオンの幸せを祝福できるだろうか。
そんなことを考えながら、窓の外を見つめた。
春の陽射しが、校庭を明るく照らしている。
「……レオン。」
小さく名前を呼んだ。
会いたかった。
もう一度、あの笑顔が見たかった。
けれど、その願いが叶うことが、少しだけ怖くなっていた。
◇
卒業式を数日後に控えた夜。
夕食を終えた私を、父が書斎へ呼んだ。
「エミリア。少し話がある。」
「はい、お父様。」
父は机の前に座り、私を見つめた。
いつもは穏やかな父が、今日は少しだけ真剣な表情をしていた。
「……お前も、もうすぐ卒業だな。」
「はい。」
「学園生活は楽しかったか?」
「……はい。クラリスという友人もできましたし、いろいろなことを学べました。」
「そうか。それはよかった。」
父は嬉しそうに微笑んだ。
それから、少し言いにくそうに口を開いた。
「……エミリア。卒業したら、別の縁談を考えてみないか。」
私は、静かに父を見つめた。
「……お父様。」
「お前がレオン殿を大切に思っていることは知っている。だが、もう七年になる。」
父は申し訳なさそうに微笑んだ。
「お前には、幸せになってほしいんだ。」
その言葉に、胸が温かくなった。
父は、私のことを心配してくれている。
何度か届いた縁談を断る私を、これまで一度も責めなかった。
きっと、ずっと見守ってくれていたのだろう。
「……ありがとうございます。」
私は父の手に、そっと自分の手を重ねた。
「でも、もう少しだけ、私の気持ちを大切にさせていただけませんか。」
「……エミリア。」
「レオンとの約束は、今も私にとって大切なものなのです。」
父はしばらく黙っていた。
やがて、深く息を吐いた。
「……そうか。」
「はい。」
「お前は、本当に母さんに似て頑固だな。」
父が苦笑する。
私も小さく笑った。
「よく言われます。」
「……そういえば、母さんから聞いたぞ。卒業式のドレス、とても喜んでくれたそうだな。」
「はい。本当に素敵なドレスでした。」
「そうか。それならよかった。」
父は嬉しそうに頷いた。
その顔を見ていると、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
「……お父様。」
「どうした?」
「私、少し申し訳なく思っているんです。」
「……何をだ?」
「せっかく学園に通わせていただいて、素敵なドレスまで用意してくださったのに……。」
私は俯いた。
「卒業舞踏会でも、きっと壁の花になってしまいます。」
父は、少し驚いたように私を見つめた。
「……壁の花?」
「はい。舞踏会で、誰とも踊らずに端の方に立っている令嬢のことです。」
「……そうか。」
「お父様も、お母様も、私に楽しんでほしいと思ってくださっているのに。」
私は、膝の上で手を握りしめた。
「……ごめんなさい。」
すると、父は小さく笑った。
「何を謝ることがある。」
「……えっ?」
「父さんも母さんも、お前が誰かと踊る姿を見るために、学園へ通わせたわけではないぞ。」
「……お父様。」
「お前が楽しく過ごしてくれたら、それでいいんだ。」
父は優しく微笑んだ。
「ドレスだって同じだ。お前が気に入ってくれたのなら、それだけで十分だよ。」
その言葉を聞いた途端、胸の奥に押し込めていたものが、少しずつ溢れてきた。
「……お父様。」
「どうした?」
「もし……。」
声が、小さく震えた。
「もし、レオンが約束を忘れていたら、私はどうしたらいいのでしょう。」
父は何も言わなかった。
「七年間、ずっと信じてきました。でも、最近は手紙も少なくなって……。」
私は膝の上で、ぎゅっと手を握った。
「王女殿下との婚約話もあるそうです。レオンが幸せになるのなら、それは喜ばしいことだと思っています。」
そこで、言葉が止まった。
……本当に?
本当に、笑って祝福できる?
「……でも、私は。」
視界が滲んだ。
「私は、レオンと一緒にいたいんです。」
父は、静かに私の言葉を聞いていた。
「……そうか。」
やがて、父が優しく頷いた。
「それが、お前の本当の気持ちなんだな。」
「……はい。」
「だったら、その気持ちを大切にしなさい。」
私は顔を上げた。
「……よろしいのですか?」
「ああ。ただし、無理をして笑う必要はない。」
父は私の手を、そっと握り返した。
「もし、つらいことがあったら、父さんにも母さんにも話してくれ。お前は一人ではないのだから。」
「……お父様。」
「それに、今はまだ何も決まっていないのだろう?」
「……はい。」
「ならば、答えが出る前から諦める必要もない。」
父は穏やかに微笑んだ。
「お前が自分で選んだ道なら、父さんは応援するよ。」
私は、何度も頷いた。
「……ありがとうございます。」
涙を拭い、ようやく笑うことができた。
「私も、幸せになりたいと思っています。」
書斎を出ると、お母様が廊下で待っていた。
「……エミリア。」
「お母様?」
お母様は私の顔を見て、少しだけ眉を下げた。
「……泣いていたの?」
「……少しだけ。」
「そう。」
お母様は、それ以上何も尋ねなかった。
ただ、そっと私を抱きしめてくれた。
「卒業式、楽しんできてね。」
「……はい。」
「あなたが笑っていてくれたら、お父様も私も嬉しいのよ。」
「……ありがとうございます。」
私は、お母様の温もりを感じながら、小さく頷いた。
少しだけ、心が軽くなった気がした。
でも、不安が消えたわけではない。
レオンが今、何を思っているのか。
私との約束を、まだ覚えていてくれているのか。
その答えは、彼に会わなければ分からないのだから。
◇
そして、卒業式の日が訪れた。
王都の大聖堂で卒業証書を受け取った後、学園の大広間では、在校生や招待客も交えた盛大な卒業記念の舞踏会が開かれていた。
天井には無数の魔導灯が輝き、楽団が優雅な旋律を奏でている。
華やかなドレスに身を包んだ令嬢たち。
その隣には、彼女たちをエスコートする青年たちの姿があった。
私は、淡い水色のドレスを着ていた。
お母様が、この日のために用意してくれたものだ。
『あなたには、この色が似合うと思ったの。』
そう言って笑っていたお母様の顔を思い出す。
鏡の前で初めてこのドレスを着たとき、お母様は何度も褒めてくださった。
お父様も、少し照れくさそうに笑っていた。
『……うん。よく似合っているよ。』
その言葉が、とても嬉しかった。
両親も招待客として会場に来ていたが、私は友人たちと過ごすため、少し離れた場所にいた。
会場の隅に立ち、楽しそうに踊る人々を眺める。
「エミリア。」
クラリスが駆け寄ってきた。
隣には、彼女の婚約者がいた。
「とても綺麗よ。」
「ありがとう。クラリスも、とても素敵だわ。」
「ありがとう。」
クラリスは嬉しそうに笑った。
「私たち、少し踊ってくるわね。」
「ええ。楽しんできて。」
二人は手を取り合い、ダンスの輪へ入っていった。
私はその後ろ姿を見送り、微笑んだ。
幸せそうだった。
とても。
「……素敵ね。」
思わず呟く。
いつか、私も。
レオンと、あんなふうに踊れたら。
そう思うだけで、胸が温かくなった。
けれど、同時に少しだけ寂しくもなった。
……今日も、来ないのかな。
そんなことを考えてしまう自分が嫌だった。
レオンは忙しい。
それは分かっている。
卒業式に帰ってくると約束したわけでもない。
それなのに、私はどこかで期待していた。
今日なら、もしかしたら。
そんな小さな希望を、どうしても捨てられなかった。
やがて、一曲目が終わった。
二曲目。
三曲目。
一人の青年が、私をダンスに誘ってくれた。
けれど、私は丁重にお断りした。
青年は少し残念そうに微笑み、別の令嬢のもとへ向かっていった。
私は、その後ろ姿を見送った。
……申し訳ないことをしてしまった。
でも、どうしても。
初めての舞踏会から、ずっとそう決めていた。
レオンと踊る日を、待っていたのだ。
「まあ。エミリア様。」
背後から声がした。
振り返ると、ヴィオレッタ様が立っていた。
深紅のドレスに身を包み、一人の青年を伴っている。
「お一人ですの?」
「……はい。」
「まあ。せっかくの卒業舞踏会ですのに。」
ヴィオレッタ様が微笑む。
「最後まで壁の花でいらっしゃるおつもり?」
「……まだ、舞踏会は終わっておりませんから。」
「そうでしたわね。」
彼女は楽しそうに笑った。
「幼い頃の約束を信じていらっしゃるのでしたわ。」
私は、そっと手を握りしめた。
「……はい。」
「でも、結局どなたも迎えにいらっしゃらなかったのね。」
胸が、きゅっと痛んだ。
レオンは、まだ来ていない。
きっと、今日も忙しいのだろう。
それでも、彼との約束を大切にしてきた七年間が、無駄になるわけではない。
「……私は、もう少しだけ待ってみようと思います。」
そう答えると、ヴィオレッタ様は少し呆れたように肩を竦めた。
「……どこまでも、おめでたい方ですこと。」
そう言い残し、青年を伴って去っていった。
私は、そっと息を吐いた。
……もう少しだけ。
そう思って、会場を見渡す。
けれど、どこにもレオンの姿はなかった。
ふと、少し離れた場所に両親がいるのが見えた。
お母様が、こちらに気づいて微笑んでくれた。
お父様も、小さく手を振ってくれる。
私は、そっと微笑み返した。
……ありがとうございます。
このドレスを着て、今日ここにいられること。
それだけでも、私は幸せなのだと思う。
でも。
……レオン。
会いたい。
どうしても、会いたい。
その気持ちだけは、消えてくれなかった。
やがて、楽団の演奏が止まった。
学園長が、会場の中央へ進み出る。
「皆様。本日の舞踏会も、残すところ最後の一曲となりました。」
会場から、名残惜しそうな声が上がる。
最後の一曲。
それが終われば、卒業舞踏会も終わる。
私は、そっと自分の手を見つめた。
何度もダンスを練習した。
最初は先生の足を踏んでばかりだった。
それでも、いつかレオンと踊れる日が来ると思って、練習を続けてきた。
……今日も、会えないのかな。
胸が、きゅっと締めつけられた。
七年間、ずっと信じてきた。
でも、今日が終わってしまったら。
私は、また明日から同じように待ち続けられるのだろうか。
……レオン。
会いたい。
もう一度、私の名前を呼んでほしい。
私は、そっと胸元に手を添えた。
そのときだった。
ざわり。
会場の入口から、ざわめきが広がった。
学園長が、入口へ視線を向ける。
「皆様。最後の一曲を前に、特別なお客様をご紹介いたします。」
会場の扉が、ゆっくりと開いた。
黒い礼装に身を包んだ青年が、一歩を踏み出す。
銀色の髪が、魔導灯の光を受けて輝いた。
その姿を見た瞬間、私の時間が止まった。
「アルセリア王国よりお越しの、若き英雄レオン・アシュフォード卿です。」
次の瞬間。
会場が、驚きの声に包まれた。
「……まさか。」
「レオン・アシュフォード様ですって?」
「隣国の英雄……。」
私は、思わず息を呑んだ。
そして、懐かしい青い瞳を見つめた。
「……レオン?」
見間違えるはずがなかった。
七年という月日が流れても。
どれほど立派な青年に成長していても。
私は、あの瞳を知っていた。
昔よりもずっと背が高くなっていた。
肩幅も広くなり、立ち姿には騎士らしい落ち着きがある。
けれど、私を見つけた瞬間に浮かべた笑顔だけは、七年前と少しも変わっていなかった。
「……レオン。」
小さく呟いた。
レオンは丁寧に一礼した。
会場から、大きな拍手が沸き起こる。
私は、ただ彼を見つめていた。
……本当に?
本当に、帰ってきてくれたの?
夢ではないだろうか。
瞬きをしたら、消えてしまうのではないだろうか。
そんなことを考えてしまうほど、信じられなかった。
すると、少し離れた場所にいたヴィオレッタ様が、急に表情を変えた。
「……レオン・アシュフォード様?」
彼女の隣には、先ほどの青年が立っていた。
「ヴィオレッタ嬢。最後の一曲も、よろしければ私と――」
「ごめんなさい。少し失礼するわ。」
「……え?」
青年が差し出しかけた手を残し、ヴィオレッタ様はレオンのもとへ歩き出した。
彼女は優雅にドレスの裾を整え、レオンの前で一礼した。
「レオン様。ようこそお越しくださいました。私、ランカスター侯爵家のヴィオレッタと申します。」
そして、微笑んだ。
「よろしければ、最後の一曲をご一緒していただけませんか?」
「申し訳ありません。」
レオンは丁寧に頭を下げた。
「最後の一曲は、すでに踊る相手を決めているんです。」
「……そうでしたの?」
ヴィオレッタ様の笑顔が僅かに強張った。
「どちらのご令嬢ですの?」
「七年前に、約束した人です。」
会場がざわめいた。
「七年前……?」
「どういうことですの?」
「そんなに昔から……?」
私は、胸がどきりと跳ねるのを感じた。
七年前の約束。
まさか。
まさか、レオンは今も覚えていてくれたのだろうか。
レオンはゆっくりと会場を見渡し、やがて私を見つけた。
「……エミリア。」
遠くからでも、唇がそう動いたのが分かった。
……覚えていてくれた。
私の名前を。
私との約束を。
七年前の、あの日のことを。
レオンは真っ直ぐに歩き始めた。
人々が道を開ける。
華やかな令嬢たちの間を通り抜け、誰にも目を向けず、ただ私のもとへ。
「……嘘。」
ヴィオレッタ様の声が聞こえた。
「まさか……あの子のところへ……?」
私は、もう彼女の方を見ることができなかった。
レオンが、一歩ずつ近づいてくる。
ずっと、会いたかった人が。
私のところへ。
やがてレオンは私の前で足を止めた。
「久しぶり、エミリア。」
七年前と、同じ笑顔だった。
「……レオン?」
「うん。」
「本当に……レオンなの?」
「そうだよ。」
彼は少し照れくさそうに笑った。
「ごめん。ずいぶん待たせちゃったね。」
その瞬間。
胸の奥に溜まっていたものが、溢れそうになった。
七年間。
何度も、彼のことを考えた。
頑張っているだろうか。
元気にしているだろうか。
怪我はしていないだろうか。
そして、いつか。
また会えるだろうか。
信じていた。
でも、不安だった。
忘れられていたら、どうしよう。
もう、私のことを好きではなかったら。
そんなことを考えるたびに、胸が苦しくなった。
けれど、今。
レオンが、私の目の前にいる。
「……本当に、待たせすぎです。」
私は、涙を堪えながら笑った。
レオンは一瞬驚いた顔をして、それから声を上げて笑った。
「あはは。ごめん。」
「本当に、もう……。」
「うん。反省してる。」
彼は真っ直ぐに私を見つめた。
「でも、どうしても今日、帰ってきたかったんだ。」
「……どうして?」
「国境での任務が続いていて、なかなか帰れなかったんだ。でも、君の卒業式だけは、どうしても間に合わせたかった。」
「……私のために?」
「うん。七年前の約束を、果たしたかったから。」
その言葉に、胸がいっぱいになった。
「……レオン。」
彼は優しく微笑んだ。
「君との約束を忘れたことは、一度もなかったよ。」
私は、涙を堪えるように唇を結んだ。
「……手紙も、少なくなってしまったから。」
「ごめん。でも、君からの手紙は全部読んでいたよ。何度も。」
「……本当ですか?」
「うん。僕にとって、大切な宝物だったから。」
「……レオン。」
胸が、じんわりと温かくなった。
けれど、一つだけ。
どうしても、確かめたいことがあった。
「……レオン。王女殿下との婚約のお話は……。」
レオンは少し驚いたように目を見開いた。
「そんな噂があったの?」
「……はい。」
「正式な話ではないよ。」
彼は、私を真っ直ぐに見つめた。
「僕が迎えに行きたい人は、七年前から決まっている。」
「……レオン。」
胸の奥に残っていた最後の不安が、すっと消えていった。
レオンは、そっと手を差し出した。
「最後の一曲、僕と踊っていただけませんか?」
私はその手を見つめた。
七年前。
白い花の咲く庭園で。
小指を絡めて交わした約束。
大きくなったら、立派にエスコートできるような男になる。
そう言って、レオンは私の手を取ってくれた。
あの日の言葉が、胸の奥に蘇った。
「……はい。」
私は微笑んだ。
「喜んで。」
彼の手を取る。
温かかった。
七年前より、ずっと大きくなった手。
でも、確かにあの日と同じ温もりだった。
そのとき、レオンの視線が私の腕に向いた。
幼い頃、魔物から彼を庇ったときにできた、小さな傷痕。
今では、よく見なければ分からないほど薄くなっている。
「……まだ、残っていたんだね。」
「ええ。でも、もう痛くありませんよ。」
レオンは少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「あの日、君が僕を守ってくれた。」
「……はい。」
「今度は、僕が君を守りたい。」
私は、彼の手を握り返した。
「……では、これからは二人で守り合いましょう。」
レオンは驚いたように目を見開き、それから嬉しそうに笑った。
「……うん。そうだね。」
そして、少し照れくさそうに続けた。
「実は、ずっとダンスを練習していたんだ。」
「……私もです。」
「本当?」
「ええ。いつか、あなたと踊れる日が来ると思って。」
レオンは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、踊ろうか。」
楽団が、最後の一曲を奏で始めた。
私たちは、会場の中央へ歩き出した。
レオンが私の手を取り、もう片方の手をそっと背中に添える。
私も彼の肩に手を置いた。
そして、最初の一歩を踏み出す。
けれど。
……あれ?
ほんの少し、足がもつれそうになった。
レオンも、わずかに動きを止める。
「……ごめん。」
彼が小さく囁いた。
「ふふっ。私もです。」
お互い、あれほど練習してきたのに。
いざ一緒に踊ろうとすると、どうにもぎこちない。
七年ぶりに会えた嬉しさと、緊張と。
きっと、いろいろな気持ちが溢れているのだろう。
私は、そっと顔を上げた。
すると、レオンも私を見つめていた。
青い瞳。
幼い頃から、何度も見つめてきた瞳。
その目が、優しく細められる。
「……エミリア。」
「はい?」
「もう一度、行こうか。」
「……はい。」
私たちは微笑み合った。
そして、もう一度ステップを踏む。
一歩。
また一歩。
レオンの動きに合わせて、私も足を運ぶ。
最初は少しだけ戸惑っていた。
けれど、彼の手の温もりを感じ、瞳を見つめているうちに、不思議と身体が軽くなっていった。
次の一歩が、自然に分かる。
レオンが私を導き、私はその動きに応える。
少しずつ。
少しずつ。
二人の呼吸が、重なっていく。
「……エミリア、上手になったね。」
レオンが微笑んだ。
「ふふっ。ずっと練習していたんです。」
「知っているよ。手紙に書いてあったから。」
「……覚えていたんですか?」
「もちろん。最初は先生の足を踏んでしまったんだよね。」
「もう。そんなことまで……。」
私は思わず笑ってしまった。
レオンも楽しそうに笑う。
その瞬間、身体から余計な力が抜けた。
ステップが、さらに軽やかになる。
レオンが私を導き、二人でゆっくりと旋回する。
淡い水色のドレスが、ふわりと広がった。
もう、足元を気にする必要はなかった。
彼の動きが分かる。
私の動きも、きっと彼に伝わっている。
まるで、ずっと一緒に踊っていたかのように。
音楽が、少しずつ盛り上がっていく。
レオンの動きに合わせて、私も軽やかにステップを踏む。
ドレスの裾が、花びらのように舞う。
私は自然と笑っていた。
レオンも笑っていた。
もう、言葉はいらなかった。
七年間、離れていたはずなのに。
まるで、その時間を取り戻していくようだった。
やがて、周囲から小さな声が上がり始めた。
「……まあ。」
「なんて綺麗な……。」
最初は、近くで踊っていた一組が足を止めた。
それから、もう一組。
さらに、もう一組。
人々の視線が、少しずつ私たちへ集まっていく。
けれど、私は気づかなかった。
ただ、レオンを見つめていた。
七年前。
春の庭園で、二人でダンスの真似事をした。
あのときは、何度も足が絡まり、笑いながらくるくると回った。
今は違う。
レオンは私を優しく導き、私はその手に身を委ねる。
あの日、憧れていたダンスを。
今、本当に踊っている。
音楽が、さらに盛り上がっていく。
レオンが私の手を取り、大きく旋回した。
淡い水色のドレスが、魔導灯の光を受けて輝く。
いつの間にか、広い舞踏会場で踊っているのは、私たちだけになっていた。
けれど、そんなことにも気づかなかった。
私の目には、レオンしか映っていなかったから。
レオンの手が、私を優しく導く。
私は、その手を信じて身を任せる。
音楽が最高潮へ達する。
最後の旋律に合わせ、レオンが私を引き寄せた。
そして、二人でゆっくりと動きを止める。
一瞬の静寂。
次の瞬間。
割れんばかりの拍手が、会場を満たした。
鳴り続ける拍手の中、私たちは見つめ合った。
レオンは、七年前と変わらない優しい笑顔を浮かべていた。
「……おかえりなさい、レオン。」
「ただいま、エミリア。」
――おしまい。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
七年前に交わした小さな約束を、ずっと大切にしてきたエミリアとレオン。
離れていた時間は長かったけれど、二人がそれぞれの場所で努力し、最後の一曲で再会する物語をお届けしました。
幼い頃の約束が、二人にとってかけがえのない未来につながっていたら嬉しいです。
少しでも楽しんでいただけましたら、感想や評価などで応援していただけると、とても励みになります!
ほかにも異世界恋愛の短編や中編、長編ファンタジーなどを投稿していますので、よろしければそちらもお読みいただけると嬉しいです。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします!




