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幼い頃の約束を信じて壁の花になった私を、隣国の英雄が迎えに来てくれました

作者: 豆柴の旅々
掲載日:2026/10/25

「大きくなったら、僕のお嫁さんになってくれる?」


 それは、私が十歳の頃のことだった。


 春の陽射しが降り注ぐ庭園で、幼馴染の少年が真剣な顔でそう尋ねてきた。


「……本当に?」


「うん。絶対に迎えに来るから。」


「でも、レオンは遠くへ行ってしまうのでしょう?」


「そうだけど……。」


 レオンは少し困ったように眉を下げた。


 レオン・アシュフォード。


 私より一つ年上の幼馴染で、アシュフォード侯爵家の次男。


 幼い頃から一緒に遊び、ときには喧嘩もした。


 そんな彼が、隣国アルセリア王国へ留学することになったのだ。


 剣術と魔法の才能を認められ、王立学院への特別入学を許されたのだという。


 けれど、レオンが留学を決意したのには、もう一つ理由があった。


 それは、半年前のこと。


 私たちは屋敷の近くの森で遊んでいた。


 そのとき、突然、一匹の魔物が現れたのだ。


 レオンは持っていた剣で私を守り、必死に魔物を追い払おうとした。


 けれど、魔物は突然レオンに向かって飛びかかった。


「レオン、危ない!」


 私は咄嗟に彼を突き飛ばした。


 次の瞬間、鋭い爪が私の腕をかすめた。


 幸い、駆けつけた護衛によって魔物は討伐され、私の怪我も大したことはなかった。


 けれど、レオンはひどく落ち込んでいた。


「……どうして、僕を庇ったの?」


「だって、レオンが怪我をしたら嫌だもの。」


「でも、エミリアが怪我をしたじゃないか。」


「……うん。でも、レオンが無事でよかった。」


 そう答えると、レオンは泣きそうな顔で私の手を握った。


 そして、留学の話が持ち上がったとき、彼は迷わず行くと決めたのだ。


「僕、もっと強くなる。」


 レオンは、私の腕に残る小さな傷痕を見つめた。


「今度こそ、エミリアを守れるように。」


 私は、そんなレオンが大好きだった。


 強くて、優しくて、いつも一生懸命な男の子。


 そして、私のために涙を流してくれる人。


 だから、遠くへ行ってしまうのは寂しかったけれど、彼の決意を応援したかった。


「……いつ帰ってくるの?」


「分からない。向こうで勉強して、一人前になるまでは、簡単には帰れないんだって。」


「……そうなの?」


「うん。でも、必ず帰ってくる。」


 レオンは真っ直ぐに私を見つめていた。


「今度こそ、君を守れるくらい強くなって帰ってくる。」


「……じゃあ、私も約束します。」


「何を?」


「レオンが帰ってくるまで、ずっと待っています。」


 レオンの顔がぱっと明るくなる。


「本当?」


「はい。だから、立派になって帰ってきてくださいね。」


「うん。僕、向こうでいっぱい頑張る。」


「……でも、無理はしないでくださいね。」


「分かってるよ。」


「本当に?」


「……たぶん。」


「もう、レオンったら。」


 二人で笑い合った。


 それから、レオンが小指を差し出す。


「じゃあ、約束だ。」


「はい。約束です。」


 私たちは小指を絡めた。


「それに、大きくなったら、君を立派にエスコートできるような男になる。」


 レオンは真剣な顔でそう言った。


 私は、少しだけ悪戯っぽく笑った。


「まあ! それじゃあ、私をダンスに誘ってくださるのかしら?」


「もちろん!」


 レオンは胸を張った。


「君を立派にエスコートしてみせる!」


「ふふっ。では、楽しみにしていますね。」


 すると、レオンが私の前に立ち、恭しく頭を下げた。


「エミリア。僕と踊っていただけませんか?」


「まあ。今からですか?」


「うん。練習しておかないと。」


 私は思わず笑ってしまった。


「ふふっ。喜んで。」


 差し出された手に、そっと自分の手を重ねる。


 私たちはまだ、ダンスの作法なんて知らなかった。


 それでも、レオンは私の手を引き、庭園の真ん中でくるくると回った。


「きゃっ。レオン、速すぎます!」


「あはは。ごめん。」


 二人で笑い合った。


 白い花びらが、春風に舞っていた。


 いつか、また。


 この人と一緒に笑える日が来ますように。


     ◇


 それから、七年が過ぎた。


 十七歳になった私は、王都にある貴族学園の卒業を、一ヶ月後に控えていた。


「エミリア、また婚約のお話を断ったそうね。」


 昼休み。


 食堂で向かいに座った友人のクラリスが、呆れたように尋ねてきた。


「ええ。昨日、お父様から聞いたの。」


「今度はどちらの方?」


「ローレンス伯爵家のご子息よ。誠実な方だそうだけれど……。」


「お断りしたのね。」


「……ええ。」


 クラリスは小さく息を吐いた。


「もう七年よ?」


「分かっているわ。」


「本当に、まだ待つつもりなの?」


「……ええ。」


 私は小さく頷いた。


 レオンが隣国へ旅立ってから、七年。


 その間、彼の活躍は何度も伝わってきた。


 王立学院を首席で卒業したこと。


 王国騎士団の選抜試験で、歴代最年少の合格者となったこと。


 国境に現れた魔物の大群を討伐し、多くの人々を救ったこと。


 今では、隣国で彼の名前を知らない者はいないという。


 人々は彼を、若き英雄と呼んでいた。


「すごいでしょう? レオンは昔から努力家だったの。」


「……本当に嬉しそうね。」


「もちろんよ。」


 私は微笑んだ。


 彼が立派になったことは、心から嬉しい。


 けれど。


 ……少しだけ、遠い人になってしまった気もする。


 幼い頃、庭園で一緒に遊んでいた男の子。


 私の手を取って、くるくると回ってくれた男の子。


 そのレオンが、今では隣国の英雄なのだ。


「ねえ、エミリア。」


「何?」


「最近、レオン様からお手紙は届いているの?」


「……先月、一通届いたわ。」


「そう。」


 クラリスは、それ以上尋ねなかった。


 以前は毎月のように届いていた手紙も、今では数ヶ月に一度になっていた。


 忙しいのだろう。


 それは分かっている。


 それでも、手紙を待つ時間が長くなるたびに、少しだけ寂しくなった。


「そういえば、最近あなたのことを『学園一の壁の花』なんて呼ぶ人がいるそうよ。」


「……壁の花?」


「ええ。舞踏会でも、いつも端の方にいるでしょう?」


「そうね。」


「ダンスに誘われても断ってしまうし。もう少し楽しんでもいいと思うのだけれど。」


「……でも。」


 私は少し迷ってから、微笑んだ。


「舞踏会で最初に踊る相手は、決めているの。」


 クラリスは、私の顔をじっと見つめた。


「……レオン様?」


「ええ。」


「本当に頑固なんだから。」


「ふふっ。よく言われるわ。」


 そう答えながら、少しだけ胸が痛んだ。


 私だって、踊りたくないわけではない。


 華やかなドレスを着て、誰かと手を取り合って踊る。


 そんな光景を見るたびに、羨ましいと思うこともある。


 けれど、どうしても忘れられないのだ。


『大きくなったら、君を立派にエスコートできるような男になる。』


 あの日のレオンの笑顔を。


「……でもね、クラリス。」


「何?」


「もし、レオンが約束を忘れていたら……私、どうしたらいいのかしら。」


 口にしてから、自分でも驚いた。


 これまで、誰にも言えなかったことだった。


 クラリスは、少しだけ表情を和らげた。


「……不安なのね。」


「ええ。少しだけ。」


 私は笑おうとした。


 けれど、うまく笑えなかった。


 クラリスは、そっと私の手に触れた。


「……エミリア。無理に笑わなくてもいいのよ。」


「……ありがとう。」


 その言葉が、少しだけ嬉しかった。


     ◇


 私の家は、由緒ある伯爵家ではあるけれど、決して贅沢な暮らしをしているわけではなかった。


 それでも、お父様とお母様は、私が学園に通うことを心から喜んでくれた。


「せっかくの学園生活なんだから、たくさん楽しんでいらっしゃい。」


 入学するとき、お母様はそう言って笑っていた。


 けれど、私はあまり社交が得意ではなかった。


 大勢の人が集まる場所では、何を話せばいいのか分からなくなることもある。


 ダンスも、最初は苦手だった。


 先生の足を踏んでしまい、何度も謝ったことを覚えている。


 それでも練習を続けてきたのは、いつかレオンと踊りたかったからだ。


 そんなある日のこと。


 学園から帰ると、お母様が私を呼んだ。


「エミリア。ちょっとこちらへいらっしゃい。」


「はい、お母様。」


 案内された部屋には、一着のドレスが掛けられていた。


 淡い水色の、美しいドレスだった。


「……まあ。」


 思わず声が漏れた。


「卒業舞踏会のために用意したのよ。」


「……私に?」


「もちろん。」


 お母様は嬉しそうに笑った。


「あなたには、この色が似合うと思ったの。」


 私は、そっとドレスに近づいた。


 柔らかな布地。


 控えめだけれど、丁寧に施された刺繍。


 華美な装飾はない。


 それでも、私にはとても美しく見えた。


「……ありがとうございます、お母様。」


「気に入ってくれた?」


「はい。とても。」


 私は微笑んだ。


 けれど、少しだけ気になってしまった。


「……でも、こんな素敵なドレス、高かったのではありませんか?」


 お母様は、少し驚いたように目を丸くした。


 それから、優しく笑った。


「まあ。そんなことを心配していたの?」


「……はい。」


「大丈夫よ。お父様とも相談して、前から少しずつ準備していたの。」


「……そうだったのですか?」


「ええ。娘の卒業式ですもの。」


 お母様は、私の肩にそっと手を置いた。


「あなたが喜んでくれるなら、それで十分なのよ。」


「……お母様。」


 胸が、じんわりと温かくなった。


 私は、もう一度ドレスを見つめた。


 このドレスを着て、卒業舞踏会に出る。


 きっと、周りにはもっと華やかな令嬢たちがいるだろう。


 でも、私には、このドレスが一番素敵に思えた。


「……大切に着ますね。」


「ええ。楽しんできてちょうだい。」


 お母様はそう言って微笑んだ。


 私も笑った。


 けれど、心の中では、少しだけ考えていた。


 ……お母様。


 せっかくこんな素敵なドレスを用意してくださったのに。


 また、壁の花になってしまったら、ごめんなさい。


     ◇


 卒業式が近づくにつれ、学園では舞踏会の話題が増えていった。


 誰と踊るのか。


 どんなドレスを着るのか。


 どの曲が楽しみなのか。


 友人たちが嬉しそうに話しているのを聞くたびに、私も少しだけ胸が弾んだ。


 けれど、同時に不安にもなった。


 ……レオンは、帰ってきてくれるだろうか。


 そんなことを考えていた、ある日の放課後。


「まあ。また婚約のお話を断ったそうですわね。」


 廊下を歩いていると、背後から声がかかった。


 振り返ると、数人の令嬢が立っていた。


 中心にいるのは、ヴィオレッタ・ランカスター侯爵令嬢。


 美しい金色の髪を持つ、学園でも目立つ存在だった。


「はい。ありがたいお話でしたが、ご縁がありませんでしたので。」


「ご縁、ですって?」


 ヴィオレッタ様が口元を押さえる。


「幼い頃の結婚の約束を、いまだに信じていらっしゃるのでしょう?」


「……はい。」


「七年も前のお話ですのよ?」


「ええ。」


「……本当に信じていらっしゃるの?」


 私は、すぐには答えられなかった。


 七年。


 長い時間だった。


 それでも、レオンの言葉を信じていたかった。


「……私にとっては、今でも大切な約束ですから。」


 そう答えると、ヴィオレッタ様は小さく笑った。


「……ご存じ?」


「何でしょう?」


「レオン様には、アルセリア王国の王女殿下との婚約話があるそうですわ。」


「……えっ?」


 思わず声が漏れた。


「まあ。ご存じなかったの?」


「……はい。」


「今や隣国の英雄ですもの。王女殿下との婚約話が持ち上がっても、不思議ではありませんわね。」


「……そうですね。」


 私は、どうにかそう答えた。


 胸の奥が、きゅっと痛んだ。


 レオンが立派になったことは、心から嬉しい。


 けれど、彼の隣に立つのが自分ではなく、王女殿下になるのだとしたら。


 ……そっか。


 そうよね。


 レオンは、もう隣国の英雄なのだ。


「それでも、まだお待ちになるおつもり?」


 ヴィオレッタ様の声に、私は顔を上げた。


「……はい。」


「本当に、おめでたい方ですこと。」


 私は、そっと手を握りしめた。


「……ですが、レオン本人からは、まだ何も聞いておりませんから。」


 声が震えないように、ゆっくりと言葉を続ける。


「せめて、彼の気持ちは、彼自身から聞きたいと思っています。」


 ヴィオレッタ様は、少し面白くなさそうに扇を閉じた。


「……卒業式までには、現実をご覧になった方がよろしくてよ。」


 そう言い残し、彼女たちは去っていった。


 私は、しばらくその場に立っていた。


 ……王女殿下との婚約話。


 本当なのだろうか。


 もし、本当だったら。


 私は、レオンの幸せを祝福できるだろうか。


 そんなことを考えながら、窓の外を見つめた。


 春の陽射しが、校庭を明るく照らしている。


「……レオン。」


 小さく名前を呼んだ。


 会いたかった。


 もう一度、あの笑顔が見たかった。


 けれど、その願いが叶うことが、少しだけ怖くなっていた。


     ◇


 卒業式を数日後に控えた夜。


 夕食を終えた私を、父が書斎へ呼んだ。


「エミリア。少し話がある。」


「はい、お父様。」


 父は机の前に座り、私を見つめた。


 いつもは穏やかな父が、今日は少しだけ真剣な表情をしていた。


「……お前も、もうすぐ卒業だな。」


「はい。」


「学園生活は楽しかったか?」


「……はい。クラリスという友人もできましたし、いろいろなことを学べました。」


「そうか。それはよかった。」


 父は嬉しそうに微笑んだ。


 それから、少し言いにくそうに口を開いた。


「……エミリア。卒業したら、別の縁談を考えてみないか。」


 私は、静かに父を見つめた。


「……お父様。」


「お前がレオン殿を大切に思っていることは知っている。だが、もう七年になる。」


 父は申し訳なさそうに微笑んだ。


「お前には、幸せになってほしいんだ。」


 その言葉に、胸が温かくなった。


 父は、私のことを心配してくれている。


 何度か届いた縁談を断る私を、これまで一度も責めなかった。


 きっと、ずっと見守ってくれていたのだろう。


「……ありがとうございます。」


 私は父の手に、そっと自分の手を重ねた。


「でも、もう少しだけ、私の気持ちを大切にさせていただけませんか。」


「……エミリア。」


「レオンとの約束は、今も私にとって大切なものなのです。」


 父はしばらく黙っていた。


 やがて、深く息を吐いた。


「……そうか。」


「はい。」


「お前は、本当に母さんに似て頑固だな。」


 父が苦笑する。


 私も小さく笑った。


「よく言われます。」


「……そういえば、母さんから聞いたぞ。卒業式のドレス、とても喜んでくれたそうだな。」


「はい。本当に素敵なドレスでした。」


「そうか。それならよかった。」


 父は嬉しそうに頷いた。


 その顔を見ていると、胸の奥が少しだけ苦しくなった。


「……お父様。」


「どうした?」


「私、少し申し訳なく思っているんです。」


「……何をだ?」


「せっかく学園に通わせていただいて、素敵なドレスまで用意してくださったのに……。」


 私は俯いた。


「卒業舞踏会でも、きっと壁の花になってしまいます。」


 父は、少し驚いたように私を見つめた。


「……壁の花?」


「はい。舞踏会で、誰とも踊らずに端の方に立っている令嬢のことです。」


「……そうか。」


「お父様も、お母様も、私に楽しんでほしいと思ってくださっているのに。」


 私は、膝の上で手を握りしめた。


「……ごめんなさい。」


 すると、父は小さく笑った。


「何を謝ることがある。」


「……えっ?」


「父さんも母さんも、お前が誰かと踊る姿を見るために、学園へ通わせたわけではないぞ。」


「……お父様。」


「お前が楽しく過ごしてくれたら、それでいいんだ。」


 父は優しく微笑んだ。


「ドレスだって同じだ。お前が気に入ってくれたのなら、それだけで十分だよ。」


 その言葉を聞いた途端、胸の奥に押し込めていたものが、少しずつ溢れてきた。


「……お父様。」


「どうした?」


「もし……。」


 声が、小さく震えた。


「もし、レオンが約束を忘れていたら、私はどうしたらいいのでしょう。」


 父は何も言わなかった。


「七年間、ずっと信じてきました。でも、最近は手紙も少なくなって……。」


 私は膝の上で、ぎゅっと手を握った。


「王女殿下との婚約話もあるそうです。レオンが幸せになるのなら、それは喜ばしいことだと思っています。」


 そこで、言葉が止まった。


 ……本当に?


 本当に、笑って祝福できる?


「……でも、私は。」


 視界が滲んだ。


「私は、レオンと一緒にいたいんです。」


 父は、静かに私の言葉を聞いていた。


「……そうか。」


 やがて、父が優しく頷いた。


「それが、お前の本当の気持ちなんだな。」


「……はい。」


「だったら、その気持ちを大切にしなさい。」


 私は顔を上げた。


「……よろしいのですか?」


「ああ。ただし、無理をして笑う必要はない。」


 父は私の手を、そっと握り返した。


「もし、つらいことがあったら、父さんにも母さんにも話してくれ。お前は一人ではないのだから。」


「……お父様。」


「それに、今はまだ何も決まっていないのだろう?」


「……はい。」


「ならば、答えが出る前から諦める必要もない。」


 父は穏やかに微笑んだ。


「お前が自分で選んだ道なら、父さんは応援するよ。」


 私は、何度も頷いた。


「……ありがとうございます。」


 涙を拭い、ようやく笑うことができた。


「私も、幸せになりたいと思っています。」


 書斎を出ると、お母様が廊下で待っていた。


「……エミリア。」


「お母様?」


 お母様は私の顔を見て、少しだけ眉を下げた。


「……泣いていたの?」


「……少しだけ。」


「そう。」


 お母様は、それ以上何も尋ねなかった。


 ただ、そっと私を抱きしめてくれた。


「卒業式、楽しんできてね。」


「……はい。」


「あなたが笑っていてくれたら、お父様も私も嬉しいのよ。」


「……ありがとうございます。」


 私は、お母様の温もりを感じながら、小さく頷いた。


 少しだけ、心が軽くなった気がした。


 でも、不安が消えたわけではない。


 レオンが今、何を思っているのか。


 私との約束を、まだ覚えていてくれているのか。


 その答えは、彼に会わなければ分からないのだから。


     ◇


 そして、卒業式の日が訪れた。


 王都の大聖堂で卒業証書を受け取った後、学園の大広間では、在校生や招待客も交えた盛大な卒業記念の舞踏会が開かれていた。


 天井には無数の魔導灯が輝き、楽団が優雅な旋律を奏でている。


 華やかなドレスに身を包んだ令嬢たち。


 その隣には、彼女たちをエスコートする青年たちの姿があった。


 私は、淡い水色のドレスを着ていた。


 お母様が、この日のために用意してくれたものだ。


『あなたには、この色が似合うと思ったの。』


 そう言って笑っていたお母様の顔を思い出す。


 鏡の前で初めてこのドレスを着たとき、お母様は何度も褒めてくださった。


 お父様も、少し照れくさそうに笑っていた。


『……うん。よく似合っているよ。』


 その言葉が、とても嬉しかった。


 両親も招待客として会場に来ていたが、私は友人たちと過ごすため、少し離れた場所にいた。


 会場の隅に立ち、楽しそうに踊る人々を眺める。


「エミリア。」


 クラリスが駆け寄ってきた。


 隣には、彼女の婚約者がいた。


「とても綺麗よ。」


「ありがとう。クラリスも、とても素敵だわ。」


「ありがとう。」


 クラリスは嬉しそうに笑った。


「私たち、少し踊ってくるわね。」


「ええ。楽しんできて。」


 二人は手を取り合い、ダンスの輪へ入っていった。


 私はその後ろ姿を見送り、微笑んだ。


 幸せそうだった。


 とても。


「……素敵ね。」


 思わず呟く。


 いつか、私も。


 レオンと、あんなふうに踊れたら。


 そう思うだけで、胸が温かくなった。


 けれど、同時に少しだけ寂しくもなった。


 ……今日も、来ないのかな。


 そんなことを考えてしまう自分が嫌だった。


 レオンは忙しい。


 それは分かっている。


 卒業式に帰ってくると約束したわけでもない。


 それなのに、私はどこかで期待していた。


 今日なら、もしかしたら。


 そんな小さな希望を、どうしても捨てられなかった。


 やがて、一曲目が終わった。


 二曲目。


 三曲目。


 一人の青年が、私をダンスに誘ってくれた。


 けれど、私は丁重にお断りした。


 青年は少し残念そうに微笑み、別の令嬢のもとへ向かっていった。


 私は、その後ろ姿を見送った。


 ……申し訳ないことをしてしまった。


 でも、どうしても。


 初めての舞踏会から、ずっとそう決めていた。


 レオンと踊る日を、待っていたのだ。


「まあ。エミリア様。」


 背後から声がした。


 振り返ると、ヴィオレッタ様が立っていた。


 深紅のドレスに身を包み、一人の青年を伴っている。


「お一人ですの?」


「……はい。」


「まあ。せっかくの卒業舞踏会ですのに。」


 ヴィオレッタ様が微笑む。


「最後まで壁の花でいらっしゃるおつもり?」


「……まだ、舞踏会は終わっておりませんから。」


「そうでしたわね。」


 彼女は楽しそうに笑った。


「幼い頃の約束を信じていらっしゃるのでしたわ。」


 私は、そっと手を握りしめた。


「……はい。」


「でも、結局どなたも迎えにいらっしゃらなかったのね。」


 胸が、きゅっと痛んだ。


 レオンは、まだ来ていない。


 きっと、今日も忙しいのだろう。


 それでも、彼との約束を大切にしてきた七年間が、無駄になるわけではない。


「……私は、もう少しだけ待ってみようと思います。」


 そう答えると、ヴィオレッタ様は少し呆れたように肩を竦めた。


「……どこまでも、おめでたい方ですこと。」


 そう言い残し、青年を伴って去っていった。


 私は、そっと息を吐いた。


 ……もう少しだけ。


 そう思って、会場を見渡す。


 けれど、どこにもレオンの姿はなかった。


 ふと、少し離れた場所に両親がいるのが見えた。


 お母様が、こちらに気づいて微笑んでくれた。


 お父様も、小さく手を振ってくれる。


 私は、そっと微笑み返した。


 ……ありがとうございます。


 このドレスを着て、今日ここにいられること。


 それだけでも、私は幸せなのだと思う。


 でも。


 ……レオン。


 会いたい。


 どうしても、会いたい。


 その気持ちだけは、消えてくれなかった。


 やがて、楽団の演奏が止まった。


 学園長が、会場の中央へ進み出る。


「皆様。本日の舞踏会も、残すところ最後の一曲となりました。」


 会場から、名残惜しそうな声が上がる。


 最後の一曲。


 それが終われば、卒業舞踏会も終わる。


 私は、そっと自分の手を見つめた。


 何度もダンスを練習した。


 最初は先生の足を踏んでばかりだった。


 それでも、いつかレオンと踊れる日が来ると思って、練習を続けてきた。


 ……今日も、会えないのかな。


 胸が、きゅっと締めつけられた。


 七年間、ずっと信じてきた。


 でも、今日が終わってしまったら。


 私は、また明日から同じように待ち続けられるのだろうか。


 ……レオン。


 会いたい。


 もう一度、私の名前を呼んでほしい。


 私は、そっと胸元に手を添えた。


 そのときだった。


 ざわり。


 会場の入口から、ざわめきが広がった。


 学園長が、入口へ視線を向ける。


「皆様。最後の一曲を前に、特別なお客様をご紹介いたします。」


 会場の扉が、ゆっくりと開いた。


 黒い礼装に身を包んだ青年が、一歩を踏み出す。


 銀色の髪が、魔導灯の光を受けて輝いた。


 その姿を見た瞬間、私の時間が止まった。


「アルセリア王国よりお越しの、若き英雄レオン・アシュフォード卿です。」


 次の瞬間。


 会場が、驚きの声に包まれた。


「……まさか。」


「レオン・アシュフォード様ですって?」


「隣国の英雄……。」


 私は、思わず息を呑んだ。


 そして、懐かしい青い瞳を見つめた。


「……レオン?」


 見間違えるはずがなかった。


 七年という月日が流れても。


 どれほど立派な青年に成長していても。


 私は、あの瞳を知っていた。


 昔よりもずっと背が高くなっていた。


 肩幅も広くなり、立ち姿には騎士らしい落ち着きがある。


 けれど、私を見つけた瞬間に浮かべた笑顔だけは、七年前と少しも変わっていなかった。


「……レオン。」


 小さく呟いた。


 レオンは丁寧に一礼した。


 会場から、大きな拍手が沸き起こる。


 私は、ただ彼を見つめていた。


 ……本当に?


 本当に、帰ってきてくれたの?


 夢ではないだろうか。


 瞬きをしたら、消えてしまうのではないだろうか。


 そんなことを考えてしまうほど、信じられなかった。


 すると、少し離れた場所にいたヴィオレッタ様が、急に表情を変えた。


「……レオン・アシュフォード様?」


 彼女の隣には、先ほどの青年が立っていた。


「ヴィオレッタ嬢。最後の一曲も、よろしければ私と――」


「ごめんなさい。少し失礼するわ。」


「……え?」


 青年が差し出しかけた手を残し、ヴィオレッタ様はレオンのもとへ歩き出した。


 彼女は優雅にドレスの裾を整え、レオンの前で一礼した。


「レオン様。ようこそお越しくださいました。私、ランカスター侯爵家のヴィオレッタと申します。」


 そして、微笑んだ。


「よろしければ、最後の一曲をご一緒していただけませんか?」


「申し訳ありません。」


 レオンは丁寧に頭を下げた。


「最後の一曲は、すでに踊る相手を決めているんです。」


「……そうでしたの?」


 ヴィオレッタ様の笑顔が僅かに強張った。


「どちらのご令嬢ですの?」


「七年前に、約束した人です。」


 会場がざわめいた。


「七年前……?」


「どういうことですの?」


「そんなに昔から……?」


 私は、胸がどきりと跳ねるのを感じた。


 七年前の約束。


 まさか。


 まさか、レオンは今も覚えていてくれたのだろうか。


 レオンはゆっくりと会場を見渡し、やがて私を見つけた。


「……エミリア。」


 遠くからでも、唇がそう動いたのが分かった。


 ……覚えていてくれた。


 私の名前を。


 私との約束を。


 七年前の、あの日のことを。


 レオンは真っ直ぐに歩き始めた。


 人々が道を開ける。


 華やかな令嬢たちの間を通り抜け、誰にも目を向けず、ただ私のもとへ。


「……嘘。」


 ヴィオレッタ様の声が聞こえた。


「まさか……あの子のところへ……?」


 私は、もう彼女の方を見ることができなかった。


 レオンが、一歩ずつ近づいてくる。


 ずっと、会いたかった人が。


 私のところへ。


 やがてレオンは私の前で足を止めた。


「久しぶり、エミリア。」


 七年前と、同じ笑顔だった。


「……レオン?」


「うん。」


「本当に……レオンなの?」


「そうだよ。」


 彼は少し照れくさそうに笑った。


「ごめん。ずいぶん待たせちゃったね。」


 その瞬間。


 胸の奥に溜まっていたものが、溢れそうになった。


 七年間。


 何度も、彼のことを考えた。


 頑張っているだろうか。


 元気にしているだろうか。


 怪我はしていないだろうか。


 そして、いつか。


 また会えるだろうか。


 信じていた。


 でも、不安だった。


 忘れられていたら、どうしよう。


 もう、私のことを好きではなかったら。


 そんなことを考えるたびに、胸が苦しくなった。


 けれど、今。


 レオンが、私の目の前にいる。


「……本当に、待たせすぎです。」


 私は、涙を堪えながら笑った。


 レオンは一瞬驚いた顔をして、それから声を上げて笑った。


「あはは。ごめん。」


「本当に、もう……。」


「うん。反省してる。」


 彼は真っ直ぐに私を見つめた。


「でも、どうしても今日、帰ってきたかったんだ。」


「……どうして?」


「国境での任務が続いていて、なかなか帰れなかったんだ。でも、君の卒業式だけは、どうしても間に合わせたかった。」


「……私のために?」


「うん。七年前の約束を、果たしたかったから。」


 その言葉に、胸がいっぱいになった。


「……レオン。」


 彼は優しく微笑んだ。


「君との約束を忘れたことは、一度もなかったよ。」


 私は、涙を堪えるように唇を結んだ。


「……手紙も、少なくなってしまったから。」


「ごめん。でも、君からの手紙は全部読んでいたよ。何度も。」


「……本当ですか?」


「うん。僕にとって、大切な宝物だったから。」


「……レオン。」


 胸が、じんわりと温かくなった。


 けれど、一つだけ。


 どうしても、確かめたいことがあった。


「……レオン。王女殿下との婚約のお話は……。」


 レオンは少し驚いたように目を見開いた。


「そんな噂があったの?」


「……はい。」


「正式な話ではないよ。」


 彼は、私を真っ直ぐに見つめた。


「僕が迎えに行きたい人は、七年前から決まっている。」


「……レオン。」


 胸の奥に残っていた最後の不安が、すっと消えていった。


 レオンは、そっと手を差し出した。


「最後の一曲、僕と踊っていただけませんか?」


 私はその手を見つめた。


 七年前。


 白い花の咲く庭園で。


 小指を絡めて交わした約束。


 大きくなったら、立派にエスコートできるような男になる。


 そう言って、レオンは私の手を取ってくれた。


 あの日の言葉が、胸の奥に蘇った。


「……はい。」


 私は微笑んだ。


「喜んで。」


 彼の手を取る。


 温かかった。


 七年前より、ずっと大きくなった手。


 でも、確かにあの日と同じ温もりだった。


 そのとき、レオンの視線が私の腕に向いた。


 幼い頃、魔物から彼を庇ったときにできた、小さな傷痕。


 今では、よく見なければ分からないほど薄くなっている。


「……まだ、残っていたんだね。」


「ええ。でも、もう痛くありませんよ。」


 レオンは少しだけ悲しそうに微笑んだ。


「あの日、君が僕を守ってくれた。」


「……はい。」


「今度は、僕が君を守りたい。」


 私は、彼の手を握り返した。


「……では、これからは二人で守り合いましょう。」


 レオンは驚いたように目を見開き、それから嬉しそうに笑った。


「……うん。そうだね。」


 そして、少し照れくさそうに続けた。


「実は、ずっとダンスを練習していたんだ。」


「……私もです。」


「本当?」


「ええ。いつか、あなたと踊れる日が来ると思って。」


 レオンは嬉しそうに笑った。


「じゃあ、踊ろうか。」


 楽団が、最後の一曲を奏で始めた。


 私たちは、会場の中央へ歩き出した。


 レオンが私の手を取り、もう片方の手をそっと背中に添える。


 私も彼の肩に手を置いた。


 そして、最初の一歩を踏み出す。


 けれど。


 ……あれ?


 ほんの少し、足がもつれそうになった。


 レオンも、わずかに動きを止める。


「……ごめん。」


 彼が小さく囁いた。


「ふふっ。私もです。」


 お互い、あれほど練習してきたのに。


 いざ一緒に踊ろうとすると、どうにもぎこちない。


 七年ぶりに会えた嬉しさと、緊張と。


 きっと、いろいろな気持ちが溢れているのだろう。


 私は、そっと顔を上げた。


 すると、レオンも私を見つめていた。


 青い瞳。


 幼い頃から、何度も見つめてきた瞳。


 その目が、優しく細められる。


「……エミリア。」


「はい?」


「もう一度、行こうか。」


「……はい。」


 私たちは微笑み合った。


 そして、もう一度ステップを踏む。


 一歩。


 また一歩。


 レオンの動きに合わせて、私も足を運ぶ。


 最初は少しだけ戸惑っていた。


 けれど、彼の手の温もりを感じ、瞳を見つめているうちに、不思議と身体が軽くなっていった。


 次の一歩が、自然に分かる。


 レオンが私を導き、私はその動きに応える。


 少しずつ。


 少しずつ。


 二人の呼吸が、重なっていく。


「……エミリア、上手になったね。」


 レオンが微笑んだ。


「ふふっ。ずっと練習していたんです。」


「知っているよ。手紙に書いてあったから。」


「……覚えていたんですか?」


「もちろん。最初は先生の足を踏んでしまったんだよね。」


「もう。そんなことまで……。」


 私は思わず笑ってしまった。


 レオンも楽しそうに笑う。


 その瞬間、身体から余計な力が抜けた。


 ステップが、さらに軽やかになる。


 レオンが私を導き、二人でゆっくりと旋回する。


 淡い水色のドレスが、ふわりと広がった。


 もう、足元を気にする必要はなかった。


 彼の動きが分かる。


 私の動きも、きっと彼に伝わっている。


 まるで、ずっと一緒に踊っていたかのように。


 音楽が、少しずつ盛り上がっていく。


 レオンの動きに合わせて、私も軽やかにステップを踏む。


 ドレスの裾が、花びらのように舞う。


 私は自然と笑っていた。


 レオンも笑っていた。


 もう、言葉はいらなかった。


 七年間、離れていたはずなのに。


 まるで、その時間を取り戻していくようだった。


 やがて、周囲から小さな声が上がり始めた。


「……まあ。」


「なんて綺麗な……。」


 最初は、近くで踊っていた一組が足を止めた。


 それから、もう一組。


 さらに、もう一組。


 人々の視線が、少しずつ私たちへ集まっていく。


 けれど、私は気づかなかった。


 ただ、レオンを見つめていた。


 七年前。


 春の庭園で、二人でダンスの真似事をした。


 あのときは、何度も足が絡まり、笑いながらくるくると回った。


 今は違う。


 レオンは私を優しく導き、私はその手に身を委ねる。


 あの日、憧れていたダンスを。


 今、本当に踊っている。


 音楽が、さらに盛り上がっていく。


 レオンが私の手を取り、大きく旋回した。


 淡い水色のドレスが、魔導灯の光を受けて輝く。


 いつの間にか、広い舞踏会場で踊っているのは、私たちだけになっていた。


 けれど、そんなことにも気づかなかった。


 私の目には、レオンしか映っていなかったから。


 レオンの手が、私を優しく導く。


 私は、その手を信じて身を任せる。


 音楽が最高潮へ達する。


 最後の旋律に合わせ、レオンが私を引き寄せた。


 そして、二人でゆっくりと動きを止める。


 一瞬の静寂。


 次の瞬間。


 割れんばかりの拍手が、会場を満たした。


 鳴り続ける拍手の中、私たちは見つめ合った。


 レオンは、七年前と変わらない優しい笑顔を浮かべていた。


「……おかえりなさい、レオン。」


「ただいま、エミリア。」


 ――おしまい。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


七年前に交わした小さな約束を、ずっと大切にしてきたエミリアとレオン。


離れていた時間は長かったけれど、二人がそれぞれの場所で努力し、最後の一曲で再会する物語をお届けしました。


幼い頃の約束が、二人にとってかけがえのない未来につながっていたら嬉しいです。


少しでも楽しんでいただけましたら、感想や評価などで応援していただけると、とても励みになります!


ほかにも異世界恋愛の短編や中編、長編ファンタジーなどを投稿していますので、よろしければそちらもお読みいただけると嬉しいです。


これからも、どうぞよろしくお願いいたします!

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