後は野となれ国滅べ
「キアラ! お前は俺が破産してもいいのか!?」
第一王子の私室に呼び出された聖女キアラは、部屋の主のダニーロからすさまじい剣幕で怒鳴りつけられていた。
「借金の返済期限が迫っているんだ! お前の力を使って何とかしろ! 次の賭けで俺を勝たせるんだ!」
「何度も申し上げていますが、それはできません」
怒りの形相を浮かべるダニーロに怯みつつも、キアラはきっぱりと命令を拒否する。
「私の力は幸運の女神からいただいた神聖なもの。それを賭け事に使うのは、神意に背きます」
「何が神意だ。元はただの平民のくせに偉そうな口を利いて!」
ダニーロが机を拳で叩くと、いくつもの借用書がバラバラと床に落ちる。キアラはとっさにかがんで、それを拾おうとした。ダニーロが舌打ちする。
「これでもまだ嫌だと言うのか?」
ダニーロはキアラの手を思い切り踏んだ。痛みと暴行を受けたショックで、キアラは顔をしかめる。
「もう一度言う。俺のために力を使え」
「……できません」
靴の下敷きになっている右手を惨めな気持ちで見ながら、キアラは首を左右に振った。ダニーロが「強情な奴め」と吐き捨てる。
「出ていけ、キアラ」
ダニーロがキアラの手から足を退ける。キアラは痛む甲をさすりながら、よたよたと立ち上がった。
「失礼します、ダニーロ殿下。また夕食の時に」
「夕食? 何を言っているんだ」
ダニーロが鼻を鳴らした。
「俺はお前に、この国から出ていけ、と言ったんだ。どんな能力も、俺の役に立たなければないのと同じだ」
ダニーロがキアラに言い渡したのは、国外追放処分だった。
こうして聖女キアラは、取るものも取りあえず祖国を後にすることになったのである。
****
キアラが生まれた国では、百年に一度、信仰対象である幸運の女神の神意を問う儀式が行われていた。国中の女性にクジを引かせ、当たりを引いた者を「女神に選ばれた女性」、すなわち「聖女」として祭り上げるのだ。
その当たりクジを引いたのがキアラだった。こうして教会で下働きをしていた信心深い平民のキアラは、一夜にして特別な地位を得たのである。
王宮に住み、豪華なドレスをいくつも贈られ、王族と同じテーブルで三食を共にする。平民だった頃から考えると、考えられないことばかりだった。
けれど、その内に雲行きが怪しくなる。第一王子のダニーロが、キアラの力に目をつけたのだ。
聖女となった者は、女神から幸運の力を与えられるという。祈るだけで、運がよくなるという不思議な能力だ。
事実、キアラはこの力を使って、嵐が来る前に農作物の取り入れを進言したり、山中で遭難した人を捜し当てたりしていた。
――お前、便利な力を持っているんだな。だったら、俺が賭けで必ず勝つようにもできるよな?
ギャンブルが趣味のダニーロは、最近負けが続いて借金がたまっていたのだ。
ダニーロの言うとおり、キアラの力があれば賭け事で勝つくらいは簡単にできる。だが、キアラはそんなことのために幸運の力を使う気はなかった。
ダニーロから力を行使するように命令されては断り、命令されては断り……。そういったやり取りが何度も続く内に、日に日にダニーロの機嫌が悪くなっているのにはキアラも気づいていた。
(けれど、まさか国外追放だなんて)
馬車に揺られながら、キアラはため息ばかり吐いていた。しかし、いつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。
王宮を出てから十日目。ついに馬車は、国境の関所に到着した。
「ここから先は、ご自由になさってください」
御者はキアラを関所付近の宿場町で降ろすと、来た道を戻っていった。
(国の外まで送り届けなくてよかったのかしら?)
そんなふうに疑問に思いつつも、キアラは関所の役割を果たしている砦を目指して歩く。
騒ぎを目にしたのは、ある高級宿屋の前を通りかかった時だった。
「一体どこにいったんだ……。本当に隅々まで探したんだろうな?」
「もちろんでございます。枕カバーの中からカーペットの下まで、抜かりなく」
「それでもまだ見つからないのか。このままでは、申し訳なくて国に帰れないな……」
困り果てていたのは二人の男性だ。一人は執事風の中年。もう一人は、二十代くらいの黒髪の青年だった。
(あら? あの方は確か……レオナルド様?)
キアラが青年の名前を思い出すのと、彼がこちらに気づくのが同時だった。
「キアラ殿?」
「ご機嫌よう、レオナルド様」
キアラはできるだけ深く膝を折って挨拶した。レオナルドは隣国の王太子なのだ。丁寧な対応を心がけなければならない。
キアラの言葉に、レオナルドは爽やかに「おはよう」と応じる。
「先日の舞踏会以来だな」
レオナルドは白い歯を見せて笑った。キアラは半月ほど前に王城で行われた国際舞踏会で、レオナルドにダンスに誘われたことを思い出す。
(……王城での舞踏会、ね)
国外追放されたキアラには、もう縁のないイベントだ。彼女はひそかに嘆息した。
「それにしても、こんなところであなたと会うなんて思ってもみなかった。キアラ殿はダニーロ殿下のお気に入りだから、絶対に王城から出してもらえないと聞かされていたんだが」
自国の第一王子の名前を出され、キアラの顔がどんよりと曇っていく。ダニーロがキアラを手放さなかったのは、他人に幸運の力を使われるのを防ぐためだ。別に気に入られていたわけではない。
(隠しておいてもしょうがないわね)
ここで黙っていても、どうせその内にレオナルドの耳にも噂は入るだろう。
キアラはレオナルドに、ダニーロから国外追放を言い渡されたいきさつを語った。話し終わると、レオナルドはポカンと口を開けて固まってしまう。
「聖女を追い出すなんて……」
レオナルドは絶句した。
「今にきっと、この国はひどい目に遭うだろう。……ところでキアラ殿。これからどうするか決まっているのか?」
「いいえ、何も」
追放が決定したのは突然のことだったので、キアラは何の準備もできていなかった。頼れそうな親類縁者が外国にいるわけでもないし、どうしようかと頭を悩ませていたのである。
そう話すと、レオナルドは意外なことを言う。
「だったら、僕の国に来ないか?」
「レオナルド様の国に?」
「僕の客としてもてなそう。好きなだけ滞在してくれ。今後の身の振り方は、その間に決めればいい」
「そんな……よろしいのですか?」
魅力的な申し出だが、レオナルドは外国の王子だ。そんなに甘えてしまってもいいのかとキアラは躊躇する。
けれど、レオナルドは意に介さず、「構わないさ」と大きく頷いた。
「ここであなたを見かけたのも、何かの縁だ。それに覚えているか? 舞踏会で、『いつか僕の国にあなたを招待したい』と伝えたことを。あの時キアラ殿は、『ぜひ』と言ってくれたじゃないか」
(そんな会話もしたわね……)
半分くらいは社交辞令だったのだが、自国から出たことのないキアラが外国に憧れていたのも事実だ。
少し迷った末、キアラは「分かりました」と言った。
「ご招待をお受けいたしましょう。これからよろしくお願いいたします、レオナルド様」
「そうこなくてはな。よし、早速出発を……」
「あの……殿下」
申し訳なさそうに口を挟んだのは、先ほどレオナルドと話していた執事風の男性だ。
「探し物はよろしいので?」
「あっ……そうだったな」
レオナルドは眉をひそめた。キアラは「探し物?」と首を傾げる。
「金の懐中時計だ。父から成人の祝いにもらった品でね。いつも肌身離さず持ち歩いていたのに、いつの間にかなくなっていたんだ」
「お父様からの贈り物をなくした? 一大事ではありませんか! 最後に見たのはいつですか?」
「朝、身支度をした時はまだあった。だが、宿屋を出る時に確認したら消えていたんだ」
「どこかに落としたのかと思って、宿屋の店員たちにも探してもらったのですが、見つからないのです。お陰ですっかり困り果てていたところでして」
「そうだったのですね……」
キアラは考え込んだ。
(なくなったのは、レオナルド様が大切にしている懐中時計。これを探し出すことは……神意には背かないわね)
教会で働いていたキアラには、女神がどんな行為なら許可してくれるのか、きちんと分かっていた。
キアラは「私に任せてください」と言うと、顔の前で指を組む。
「私の幸運の力で、懐中時計を探してみましょう」
キアラは固く目を瞑る。懐中時計、懐中時計……、と心の中で何度も念じた。
すると、腰の辺りに衝撃を感じる。思わず目を開けると、薄汚い身なりの男性が地面に倒れていた。どうやら、キアラとぶつかった拍子にバランスを崩してしまったらしい。
「大丈夫ですか?」
キアラは男性の傍にかがみ込んだ。その時、キアラは彼のポケットから金色の鎖が飛び出しているのに気づく。
男性の粗末な身なりには不相応な品だ。興味を引かれたキアラが鎖を引っ張ると、その先にぶら下がっていたのは一目で高価な品と分かる懐中時計だった。
「それは僕のじゃないか!」
レオナルドが叫んだ。倒れていた男性が慌てて逃げ出す。
「泥棒! 誰か捕まえてくれ!」
執事風の男性が大声を出すと、町の住民が一斉にこちらを向いた。足の速い者が何人か人混みから飛び出し、あっという間にその泥棒を取り押さえる。彼は警備隊の詰め所へ連行されていった。
住民が教えてくれたところによると、あの男性はスリの常習犯だったらしい。今回も、レオナルドが出発の準備で忙しくしている隙に懐中時計を盗んだのだろう。
「聖女の幸運の力……。噂には聞いていたが、素晴らしいな」
懐中時計をしっかりと服の中に収めながら、レオナルドはすっかり感心していた。
「やはりあなたは特別な人だ」
「そんなことありませんよ」
キアラは控えめに首を振りながら、レオナルドと共に馬車に乗り込んだ。
こうしてキアラは祖国をあとにして、レオナルドの父が治める隣国に向かったのだった。
****
隣国で、キアラは丁重にもてなされた。国王から臣民に至るまで、皆キアラを歓迎してくれているようだ。
まるで王族のような立派な部屋を与えられ、食事は国中の珍味を集めたものが提供され、身の回りを世話してくれる侍女までつけてもらえた。
けれど、キアラは落ち着かない気分だった。
(レオナルド様は……どうしてここまで私によくしてくれるのかしら?)
侍女曰く、キアラの好待遇は、レオナルドの指示によるものらしい。
きっと善意からもてなしてくれているのだろう。レオナルドは、国外追放されたキアラを慰めようとしているのだ。
好意的に解釈すれば、そう考えることもできる。
だが、キアラはもう一つの可能性を捨てきれないでいた。
(レオナルド様も……私の力を利用しようとしているのかもしれない)
懐中時計を見つけた時のレオナルドの感激ぶり。それに、彼は時々自分のことを眩しそうに見つめていると、キアラは気づいていた。
ひょっとしたら、レオナルドはキアラの幸運の力を良くないことに使う計画を立てているのではないか。キアラを便利な女だと思って、心の中では舌なめずりをしているのかもしれない。
行く当てのなかった自分を拾ってくれたレオナルドは、キアラにとっては恩人だ。
けれど、ダニーロから幸運の力を私欲のために使うように何度も命令されてきたキアラは、すっかり疑心暗鬼に陥っていたのだった。
そんなキアラの疑惑に決着がついたのは、彼女が隣国へ招待されてから三カ月ほどたった日のことだった。
「キアラ殿の力で金鉱を見つけ出せないか、だって?」
王太子の執務室の近くを通りかかったキアラは、レオナルドと財務大臣が会話しているのをたまたま耳にしてしまった。
「学者たちによると、西の山から金が取れるのは間違いないそうです」
財務大臣が言った。
「けれど、あの山は広いですからな。金を掘り当てるまで採掘を続けていたら、大赤字になってしまいます。そこで、キアラ殿の出番というわけです」
(……金鉱ね。それくらいは別に問題ないかしら)
二人の話を聞きながら、キアラはそう判断した。
レオナルドには世話になっているし、金鉱を探すのはその恩返しだと思えばいい。
上がった収益で財務大臣が私腹を肥やそうとしているなら別だが、王太子に相談していることから考えるに、きっと彼は国庫を潤そうとしているだけだろう。
国を運営するためには資金が必要だということは、キアラにも理解できる。女神も力を使うのを許してくれるだろう。
だが、レオナルドはそう思わなかったらしい。聞こえてきた冷たい声に、キアラはドキリとした。
「何をふざけたことを言っているんだ」
レオナルドは厳しい口調で財務大臣を批難した。
「キアラ殿の力を使うだって? 僕は彼女にそんなことをさせるつもりはない」
「しかし……」
「話は終わりだ」
レオナルドはきっぱりと言い切った。財務大臣はしばらく粘ったが、王太子の決意は変わらない。
「失礼します」
財務大臣が無念そうに言う。彼がいきなり扉を開けたものだから、外にいたキアラは身を隠す暇もなかった。
「あっ……」
レオナルドもこちらに気づき、思わず声を上げた。キアラは顔をうつむかせる。
「す、すみません。立ち聞きするつもりはなかったのですが……」
キアラは気まずい思いでモジモジした。財務大臣もどこかばつの悪そうな顔で、そそくさと去っていく。
「キアラ殿、少しいいか?」
レオナルドの言葉に、キアラは黙って頷いた。会話を盗み聞きしたことを叱られるのだろう、と思って気が重くなる。
執務室に入ったキアラは、勧められるままにソファーに腰かけた。その向かいにレオナルドも座る。
「心配しなくても、僕はあなたの幸運の力を利用するつもりはない」
怒られると思っていたキアラは、レオナルドの第一声に驚いて顔を上げた。彼の真っ直ぐな表情を見ながら、「どうしてですか?」と尋ねる。
「そんなことのために、あなたをこの国に招待したわけではないからだ」
はっきりと言い切られ、キアラは彼のことを疑っていた自分を恥じた。レオナルドは強欲なダニーロとは違う。彼は純粋に、キアラの身を案じて自国に招いてくれたのだ。
「キアラ殿と会えただけで運がよかったんだ。これ以上の幸運は身に余る」
「私と会えたことが幸運? ……ああ、懐中時計の件ですね」
キアラは国境での事件を思い出した。
「あの程度の幸運で満足するなんて、レオナルド様は欲がないのですね」
キアラは感心してそう言ったが、レオナルドは「そんなことないさ」と苦笑した。
「僕にも欲はある。僕はキアラ殿に、できればずっとこの国にいてほしいと思っているんだ」
「ずっと……?」
「それに僕が幸運だと言ったのは、国境での再会だけを指しているわけじゃない。国際舞踏会であなたと出会えたことも、僕にとっては忘れられない出来事だった」
「はあ……」
そう言われても、キアラにはレオナルドの言葉の意味がよく分からなかった。レオナルドは恥ずかしそうに、「もう少しはっきり表現したほうがいいか?」と呟いた。
「つまり、こういうことだよ」
レオナルドはキアラの右手を取り、甲にそっと唇を落とした。
それは、紳士が挨拶代わりに女性にするキスとはまったく違うものだった。確かな情熱を感じ取り、キアラの体は自然と熱くなっていく。
「あなたは他国の聖女。僕がどうこうできる相手じゃなかった。でも、今はこうして一緒にいる。これほどの幸運はそうないだろう?」
レオナルドはキアラの手を離して、軽くかぶりを振った。
「自分でもひどいことを言っているのは分かっている。あなたの不幸を『幸運』と言い表わすなんて。でも、これは僕の嘘偽らざる気持ちなんだ」
意外な言葉の数々にどうしていいのか分からず、キアラは手を差し出した格好のまま、ソファーの上で固まっているしかなかった。
****
「お客様が来ておりますよ」
王太子の執務室から出たタイミングで、キアラは使用人に声をかけられた。レオナルドの告白で頭がいっぱいになっていたキアラは、何も考えずに「分かりました」と頷いて応接室へ向かう。
来客の中年男性と面会した時もキアラは上の空だったが、彼がキアラの祖国からの使者だと名乗った時は、さすがにハッとなった。
「キアラ様、どうか我が国にお戻りください」
使者が深々と頭を下げる。どういうことだろう、とキアラは混乱した。
「私は追放されたのですよ? 今さら戻れません」
「国王陛下は、キアラ様の追放処分を取り消すとおっしゃっています」
使者が額の汗をハンカチで拭きながら言った。
「人民の動揺を防ぐために今のところは伏せておりますが、情報が外に漏れるのも時間の問題でしょう。実はキアラ様がいなくなってから、王族に奇妙な出来事が連続して起こるようになったのです」
使者の顔が青ざめる。
「第二殿下は落雷に打たれて意識不明。第三殿下は、狩りの最中に流れ矢に当たって死亡。第四殿下は城の庭に迷い込んだイノシシに重症を負わされて寝たきりに……。そのほかの王族も、不運としか思えないような事故で悲惨な目に遭っているのです」
「まあ……」
「皆は、これは幸運の女神の鉄槌だと噂しています。キアラ様を追い出したことに女神が怒っているのだ、と。占い師たちは、このままでは王家の血が根絶やしになって国が滅ぶという予言を出しました。巷でも、反逆を企てる者の噂があちこちで囁かれています」
聞けば聞くほど、祖国はひどい状況になっているらしい。使者は身を乗り出した。
「国王陛下は、ぜひともキアラ様に国に戻っていただき、これ以上の災難を避けたいと考えておいでです。もちろん、タダでとは申しません。爵位に多額の年金……。その他、ありとあらゆる待遇を保障いたします」
使者は必死で頭を下げる。よっぽど追い詰められているのだろう。
祖国の王室を襲った不幸の数々に、キアラは戸惑うばかりだった。
****
「くそっ……! 何で俺がこんな目に遭わなければならないんだ!」
第一王子ダニーロは、イライラしながら王城の庭を歩いていた。そんな彼を遠巻きに見つめるのは、城に仕える貴族や使用人たちだ。
「第二殿下もお気の毒に。とうとう意識が戻らないままお亡くなりになって……」
「不幸を恐れるあまり、王妃様が心を病んでしまったという噂は本当かしら?」
「これも全部、ダニーロ殿下のせいよ。近づいたら、どんな巻き添えを食うか分からないわ」
城に住む者は、皆が皆ダニーロを恐れていた。
息子が勝手に聖女を追放したことを快く思っていなかった国王は、彼を庇おうとはしない。それどころか、「早くキアラ殿のところへ謝罪に行け」と何度もダニーロに命令を下していた。
(誰があんな女のところへなど行くか!)
ダニーロはすっかり憤慨していた。
(この不幸の連続だって、ただの偶然に決まっている。占い師は、その内に俺にも悪いことが起きると言っているが……。そんな妄言、誰が信じるものか!)
ダニーロは近くに生えていた木に思い切り拳を打ちつけた。すると、頭上からブンブンという羽音が聞こえてくる。
顔を上げたダニーロは、木の枝にぶら下がる巨大な巣から何十匹ものハチが出てきたのを見て、頬を引きつらせた。
ハチは黒雲のように群がると、ダニーロに一斉攻撃を始めた。露出している肌に鋭い針を突き立てられ、ダニーロは悲鳴を上げて逃げ出す。
「誰か! 助けてくれ!」
しかし、皆は遠巻きに見つめるだけだった。あとで覚えていろよ、と心の中で毒づきながら、ダニーロは厩舎に駆け込む。
騎乗したダニーロは、ハチを振り切るために馬を疾走させた。
無我夢中で走っていたダニーロは、いつの間にか王宮を抜けて、城下に出る。まだしつこく耳元で飛び回るハチを手のひらで追い払った。
「ぐっ!」
ハチに注意を向けていたダニーロは、目の前の看板に気づかなかった。堅い板に激突したダニーロは、馬から振り落とされる。
「痛っ……」
道を無様に転がり回ったダニーロは、よろよろと立ち上がった。燃えるように熱い鼻に手を遣ると、指先が血で真っ赤に染まる。
ダニーロは悪態をつく気力もなく、近くの民家に上がり込んだ。
「おい、医者を呼べ。俺は第一王子のダニーロだ。言うことを聞かないと牢獄に……」
「第一王子だって!?」
ダニーロが名乗った途端に、室内がにわかに騒がしくなった。玄関先に一国の王子がいきなり現われたのだから無理もないが、どこか不穏な気配を察知したダニーロは、室内の様子に目を遣る。
一室だけの部屋には、数人の逞しい男性がいた。彼らがテーブルに広げているのは、王宮の見取り図だ。
なぜこんなものが民家にあるんだ、と思った時には、ダニーロは男たちに組み伏せられていた。
「何をするんだ、この無礼者が!」
しかし、男たちはダニーロの言葉など耳に入っていない。手を叩いて、第一王子を捕らえたことを喜んでいる。
「まさか獲物のほうから俺たちのところに来てくれるとはな!」
「この調子で、残った王族も捕まえようぜ」
「本当にツイてるよなあ!」
彼らの会話を聞いている内に、ダニーロはある可能性に行き着いた。
(まさか……こいつらは反逆者なのか!?)
ダニーロは、よからぬことを企む者たちが近頃増えてきたという噂を思い出した。怪我をしたダニーロが救いを求めた民家は、反逆者のアジトになっている建物だったのだ。
(なんて運が悪いんだ……!)
あまりのことに、ダニーロは我が身の不運を呪わずにはいられない。
勢いづいた反逆者たちは、ほかのアジトの仲間にも連絡を取って王宮を襲撃。国王を含む王族は全員捕らえられ、処刑や幽閉の憂き目にあった。
「キアラ! 俺が悪かった! 許してくれ!」
第一王子ダニーロも、その言葉を最後に断頭台の露と消えた。
こうして王室が全滅した国は、君主制から共和制に移行した。国名も変わり、まったく新しい国家として再スタートすることになったのである。
****
祖国滅亡の知らせを、キアラは隣国で受け取った。私室で革命の詳細が書かれた報告書に目を通していると、ノックの音と共にレオナルドが入室してくる。
「あなたの祖国では、大変なことが起きたな」
「ええ。ですが、私にはもう関係ありませんから」
キアラは報告書を引き出しにしまった。レオナルドが腕組みする。
「キアラ殿は祖国からの帰還命令を拒否した。どうしてだ?」
「どうしてだと思います?」
キアラは右手の甲をそっと押さえた。レオナルドが息を呑む。
「私、決めたんです」
キアラはレオナルドをじっと見つめた。
「ずっとこの国に……あなたの傍にいよう、と」
「キアラ殿……!」
レオナルドの表情に、段々と笑いが広がっていく。それを見たキアラは、自分の選択は間違っていなかったと確信した。
「ありがとう、キアラ殿」
レオナルドが再びキアラの右手を取り、甲にキスをした。
滅んでしまった国に、キアラは未練を感じていない。彼女にとって大切なのは、女神への信仰心だけだ。祈りなら、外国にいても捧げられる。
(……いいえ、「信仰心だけ」というのは間違っているわね)
キアラの中で、レオナルドの存在は日に日に大きなものとなっていっていた。女神を愛するのと同様に、キアラはレオナルドのことも想っている。そう断言できたから、この国に残ることにしたのだ。
レオナルドが顔を上げる。その時、何の前触れもなく彼のポケットから懐中時計が滑り落ちた。
レオナルドは慌てて鎖をつかもうとして、体勢を崩す。彼の目の前にあったのは、キアラの顔だった。
気がついた時には、キアラの唇とレオナルドの唇が重なっていた。
「あっ……すまない」
レオナルドはあたふたとキアラから離れた。キアラは一瞬呆けたあと、頬を染めてくすりと笑う。
(ありがとうございます、女神)
祈ってもいないのに幸運を授けてくれるなんて、今日の女神は随分と気前がいい。
そう思いながら、キアラは愛するふたりからの贈り物を堪能するように、唇をそっと撫でた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
少しでも作品がお気に召しましたら、下の☆☆☆☆☆を★★★★★にしていただけると嬉しいです。




