恋喰
春。桜が舞う新学期。
教室の窓際に座る僕――桐生レン――の隣に、ひとりの転校生がやってきた。
「黒瀬アイです。よろしくお願いします」
白く透き通る肌、漆黒の瞳、そして整った顔立ち。
まるで人形のように静かで、教室中の視線が一斉に集まった。
(……会ったことあるような……?)
初めて見るはずなのに、心の奥がざわつく。
不思議な既視感に、胸が少し高鳴った。
⸻
席替えの結果、アイは僕の隣になった。
初めて話すのに、どこか昔から知っている気がする。
「よろしく、桐生くん」
「あ、ああ、よろしく」
放課後。アイが筆箱を忘れたというので貸すと、小さく笑って「ありがとう」と言った。
その笑顔は、どうしてか、胸にすとんと落ちるようだった。
それから僕らは、自然と一緒に帰るようになった。
道を歩きながら、くだらない話や学校の噂話を笑い合う。
しかし時折、彼女は昨日話したことを覚えていない素振りを見せた。
「昨日、どこに行ったか覚えてる?」
「え……? 昨日?」
「ほら、放課後に一緒に……」
「あ、そっか。ごめん、忘れちゃった」
不思議に思ったけれど、僕は「まあ、天然なんだろう」と流してしまった。
⸻
ある日、駅前で偶然アイと出会った。
カフェに入り、コーヒーを飲みながら並んで座る。
「こういうの、デートみたいだね」
冗談めかして言った僕に、彼女は目を大きく開けてから笑った。
「うん、そうかもしれないね」
でも、その夜、家に帰ってふと思い出そうとしても、昨日の記憶が霧のように消えていった。
食べたアイスの味も、カフェでの会話も、あの日見た夕焼けも――まるで存在しなかったかのように。
(……あれ? 昨日、何してたっけ?)
胸に小さな不安が広がる。
⸻
次の日、教室で僕は思い切って尋ねた。
「昨日、俺たち一緒に帰ったよね?」
「え……そうだっけ?」
彼女はきょとんとした顔をした。
その夜、僕は放課後の教室でアイと二人きりになった。
夕日が窓から差し込む中、彼女は小さく呟いた。
「桐生くん……ごめんね。私、人の記憶を食べちゃうの」
ぞくりと背筋が冷えた。
どういうことだ?
「悪意はないの。気づかれないくらい、ちょっとずつ……でも、桐生くんは気づいちゃったんだね」
彼女は真剣な眼差しで僕を見つめる。
恐怖よりも、不思議な悲しさが胸に迫る。
⸻
「……それでも、一緒にいたい」
僕は自然にそう言った。
記憶を失っても、彼女と過ごす時間は確かにここにある。
アイは驚いたように目を見開いた後、小さく笑った。
「……うん。じゃあ、これからも、よろしくね」
その日から、僕らの時間は始まった。
記憶は失われても、心に残るのは「今一緒にいる幸せ」だった。
⸻
春の夕焼けの下で、僕は誓った。
たとえ明日の記憶が消えても、また君を好きになる――と。
――――
【完】