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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ヒトの感情を食べる魔女と感情を食べてほしいお客の話

感情を食べる魔女と錬金術師の話

作者: みそ

感情を食べる魔女の話の続きです。

一部、残酷な描写があります(ぬるいですが)のでご注意ください。

その日、烏が届いた。魔女たちが使う黒い鳥。ヒトにとっては不吉の象徴であろうそれは、魔女にとっては見慣れたものだ。

だが、その日見た烏は、何故かとても不吉なものに見えた。


『最近、魔女たちの様子がおかしいの』

烏は、旧知の魔女の声でそう言った。森の魔女はその職能ゆえに、人脈が広い。

彼女の情報は大概の場合、とてつもなく早く、そして正確だ。


魂喰いの魔女は烏からこぼれる森の魔女の声に耳を聳て、そしてその美しい眉を寄せた。


「…物騒なこと」


魔女たちは世界の理から外れる事ができない。

魔女の摂理は世界の理の範疇の中にあって、そこから逸脱することはない。理由などない。それが魔女で、この世界だ。

にもかかわらず、最近、魔女たちが己の摂理を逸脱する事象が散見されているらしい。むやみやたらと力を行使し、気づけばその力を失っている。そういうことが頻発しているのだという。烏は、魔女のもとにそんな情報をもたらした。何事かが起こっている。


「何をどう気を付けたものかしらね…」


だがそれは、彼女の預かり知らない遠いところで起こっている事象だった。彼女に直接の関係などない、不穏な事件。ただそれだけのものだった。

その時はまだ。



ーーーーーーーーーーー


それからどれほどかが経ったある日。烏のメッセージはすでに脳裏の隅に追いやられた頃のことだった。魔女の店の扉を叩いたのは、こんな路地裏に似つかわしくない雰囲気の男たちだった。彼らは城からの使いだと名乗った。


『魔女殿。貴殿は人の感情を食すと聞いた。これは貴殿への正式な依頼だ。詳しい依頼内容については、城で説明を』


その中の一人、官僚らしき男は表情一つ変えずにそう言った。

人間味のない男だ。これまで魔女が相対してきたヒトとはまるで別の生き物のように見えた。感情のかけらも感じられない口調が不気味だ。魔女が拒否するなどとは欠片も思っていないのだろう。返事をするまでもなく、さあ、と扉の外へと誘われた。


感情を食べて欲しい相手が誰かも、どういう感情かも分からない依頼は気持ちが悪かったが、しばしの逡巡ののち、魔女は男について店を出た。城下に店を構えている以上、城からの要請を断る事は今後の商売に関わると思ったからだ。この店を手放すつもりはまだなかった。


城につくと、魔女が案内されたのは応接室でも謁見の間でもなかった。長い回廊を渡り、階段を上って、漸くたどり着いた先にはやけに重厚な扉がそびえていた。警護の兵士だろう。扉の両側で守りを固めていた男たちが、魔女を案内してきた官僚らしき男の手の一振りに反応して、その巨大な扉を開いていく。


扉の向こうに見えた巨大な空間には、高い場所に設置された壇上に数人と、それと向かいあうようにして設置された柵の後ろに、多くにヒトが居た。そしてその間。ちょうどこの空間の真ん中あたりに、男が一人立っている。

男は薄汚れていて、その手首にはいかにも重そうな手錠がかけられていた。

ただ、その眼が。酷く怜悧で昏く、そして異様にぎらついていた。


ーーーーーーーーーーーー


そこではどうやら裁判が行われているようだった。

被告人は手錠の男らしい。


朗々と罪状が読み上げられる。

曰く、男は村を1つ壊滅させたらしい。老若男女関係なく、村人のすべてをその手にかけたのだと、読み上げられる罪状が物語っていた。


だが、どんな罪を語られようと、男の表情はひとつとして動かなかった。ただ自分を糾弾する者たちをひたと見つめるその表情には、ただ一つ、隠し切れない憎悪が溢れていた。あの憎悪を以て村を一つ壊滅させたのだ、といわれれば、誰でも納得せざるを得ない、そんな表情だった。


いつ来たものか、気づけば、やたらと身なりの良い男が魔女のすぐそばに立っていた。魔女がそちらに目をやると、薄い唇に人差し指が立てられる。静かに、と仕草だけで伝えて、男は魔女の耳元に唇を寄せた。そして囁く。


「あの男の感情を食ってくれ」 


傲岸不遜な雰囲気で、男が嗤う。依頼の体をとってはいるが、魔女が断るとはつゆほども思っていない事が伺えた。挨拶もなしにもたらされた突然の依頼に、魔女の眉根がわずかに寄った。


「あなたどなた?」


聞けば、男は面白そうに眼を細めた。


「これは失礼した。私はこの国の第一王子だ。城下に住まうものが私の顔を知らないなどという事があると思っていなくてね」

「それは失礼を。世事には疎くて申し訳ないわ。魔女には関係のないことすぎて」

「そうだった。魔女とはそういう存在だったね。そして、あそこにいる男もどうやら同類らしい。まあ、彼はもちろん魔女でないのだが。知っているか?あの男は錬金術師なのだよ」


男が手錠の男のほうへ視線を向けた。それにつられるようにして、魔女も手錠の男へ目を向ける。


罪状は引き続き読み上げられている。


汝、錬金術師。

お前は己の研究のために村の全員を殺害した。お前の実験のための材料にしたのだ。

お前のした事は許されることではない。

だが、お前の研究は全人類、この国のために有用なものだ。お前が心の底から悔い改めるのなら、本来死罪に値する罪ではあるが、生きながらえることもできるだろう。この国に忠誠を誓い、この国のために働くのなら。王と、民とのために研究を続けるというのなら。


「錬金術師なら、国のために働いたりしないでしょう。あんな条件、受け入れるはずがないわ。だって、錬金術師の本分は世界の理を解き明かすことだもの。その結果、ヒトの世界の国というものに貢献することがあったり、ヒトの生活の向上につながることがあったとして、それは錬金術師達が国のために働いた結果ではないもの」

「その通りだね。しかし、彼は望んで人の世界に降りてきたのだよ。彼の妻がこの国の辺境の村にすむ人だった」

「錬金術師の愛する者がヒトであることは、錬金術師がヒトの世界のために存在することとイコールではないわ」

「人も錬金術師も魔女も、すべて同じこの世界に存在する隣人だ。独立不羈ではいられないさ。すべてが相互に作用しあい、この世界を作り出している。彼は人の世界に干渉することを自ら選んだんだ」

「傲慢ね。世界を作り出す、だなんて。私たちが許されていることなんて、ただこの世界に存在することくらいよ。世界の理の中に、私たちの存在がある、それだけの事」

「そうか?だが、我々の祖先は野を開き、山を削り、街を作ってここまで発展してきたじゃないか。魔女だってそうだろう。昔にはなかった技術を操り、薬を作り、年を経るにつれて世界へ干渉する手立ては増えていく」

「それで世界を作り出したつもりでいるところが傲慢だというのよ」

「では言い方を変えよう。いずれ、我々は世界を作り替えることだってできる」

「ヒトの世界の権力者というのは、みんなお前のように傲慢なの?そもそも、錬金術師という存在自体が、魔女と同じく、国に属し縛られるようなものではないのよ。だからと言って、錬金術師や魔女がその職能をもって大量のヒトを殺すことが許されるという話ではない。それは世界の理をこえることだもの。理をこえた魔女や錬金術師がどうなるのかはよく分かっていないけれど、あの男だって錬金術師のままではいられないのではないかしら」


そこでふと思い出した。

烏のメッセージ。世界の理をこえて力を揮い、魔女としての能力を失った魔女のことを。


「それは困るんだ」


男が魔女の肩を抱く。その感触の悍ましさに、魔女は目を見開く。


「だから、そのために其方を呼んだ」


耳元で男が囁く。


「あの男は錬金術師なんだ。妻と娘を失って狂ってしまったね」


嫌な予感がする。魔女は男の手から離れようと身をよじった。

だが、男の手から逃れられない。背筋に悪寒が走る。

男から、得体のしれない気配がした。


「あの男は妻と娘を蘇らせるため、村を一つ、滅ぼしたのだ。このまま野放しにすることはできぬ。だが、我々にはあの男が必要だ。わかるだろう?人の蘇生には失敗したが、あの男の技術はこの世を作り替えるために有用だ。だから、其方にはあの男の感情を食ってもらいたい。あの男の憎しみ、妻と娘への愛情...。あの男がこれからも国の為に身を捧げ続ける為に不要なそれらを」


男は表情を変えず、口元に微笑を浮かべてそう言った。

他者を従わせるのに慣れた声音。この男は、世界のすべてが己の思うとおりになると思っている。


「憎しみの感情ですって?」


錬金術師の暗い眼をみて魔女は呟く。


「なぜあの錬金術師は憎しみの感情を抱いているの。告訴文は罪状を読み上げるばかりで、そこに至る過程が省かれているわ。憎しみを抱くには、それなりの理由が必要でしょう。憎しみは、それなりの『何か』がないと生まれない。何かがあったからあの錬金術師は憎しみの感情に呑まれて村人を殺した。あの錬金術師が、一体『何』を憎んでいるというの」


魔女が淡々と告げれば、男の表情から笑みが消える。

忌々しそうな、強い視線が魔女の方を見た。


「そんな事が、其方に何の関係がある?其方はただ、あの男の感情を食えばいい。そうすればあの男は憎しみを忘れ、愛情を忘れ、これまで通り平和に生きていけるだろう。其方にはそれができるのだろう。知っているぞ。其方は伯爵令息の感情を食ったのだ。彼はそれまでの行動が嘘のように大人しくなったそうだぞ。婚約者のことを悪く言うこともなく、婚約解消の取り消しを願うこともなく、ただ淡々と日々を過ごしている。まるで人形のようにな。あの男もそういう風になる。日々淡々と錬金術の研究にいそしむさ。奴は錬金術師だからな。強い感情のすべてを失えば、錬金術師の本分が奴を生かす。其方が奴の感情を食えば。そうだろう」


男から苛立ちの匂いがした。

どうやらこの男は、それほど優れた器を持つ為政者ではないらしい。

傲慢で、己を中心にしか考えられない小者。ヒトの国という枠組みを外れてしまえば何の力もない矮小な存在。だが。


この気持ち悪さはなんなのだろう。

男に抱かれている肩が気持ち悪かった。なにか得体のしれない悍ましいものが、自分とこの男の背後にある気がした。


(あの店での商いも潮時か)


目を閉じた魔女の脳裏に店の光景がよぎる。

こんな事なら、のこのこ城までついてくるのでは無かった。


魔女は目をつむったまま、深く息を吸い、そしてゆっくりとそれをすべて吐き出した。瞼を開く。目の前にある光景を見つめる。

昏い眼をした錬金術師の、その腕にかかった手錠を見つめる。

本当に錬金術師が己の錬金術のために村ごと人の命を啜ったのなら、錬金術師がいまここにいて、『錬金術師』のままでいられるはずがない。



ーーー最近、魔女たちの様子がおかしい

ーーーむやみやたらと力を行使し、気づけばその力を失っている



それが世界の理を越えた代償だというなら、錬金術師もまた、その能力を失っているはずだ。そして、それは魂喰いの魔女にも言える事だった。


「お前、魔女のことを何もご存じないのね。世界には理があり、魔女には魔女の摂理があり、人には人の理由がある。錬金術師には錬金術師のルールがあるのでしょう。私は何でもかんでも食えはしない。私が食うことができるのは、人の不要な感情。ただそれだけよ」


魔女は己の肩を抱く男を見上げた。

愚かなヒト。この男もまた、世界の理を越えようとしている。

一体、この者にはどのような代償が求められるのだろう。

何の力も持たない、只ヒトであるこの男に。


「錬金術師であるあの男にとって、それは不要な感情ではないでしょう。であれば、私にあの男の感情は食えないわ。こんな裁判の最中にあって、それでもあれほどに昏く強い眼をさせるあの感情が、あの男にとって不要なものだと思えない」


いえば、男が魔女の顎をつかんだ。荒々しい仕草だった。

狂気に満ちた瞳が魔女を見つめる。


「世界の理など知らぬ。魔女の摂理も知らぬ。お前の理由などいらぬ。これは命令だ。あの男の感情を食え」

「魔女はヒトの理由に忖度しない。ただあるがままにあるだけよ。ただそうあるからそうなの。それが魔女よ。私にはヒトの不要な感情以外は食えない。あの男がその感情を『不要だ』と思わない限り、喰うことはできない。私の気持ちがどうこうじゃないのよ。世界がそういう形をしているの。私にはどうしようもないわ」


男が嗤う。間近から魔女の瞳を覗きこむ瞳がぎらぎらと光っている。

ーーーこの男も狂っている。魔女はそう思った。


「そう思っているのはお前だけだ。我々は知っている。お前は人が不要としていない感情だって食うことができる。魔女のその制約は外せるものだ。理も摂理も超えて、お前は力を揮うことができる。そうする術をあの男が作り出したのだ。あの男の研究の成果。そうやって、あの男は錬金術師としての一線を超えた。あれはこの国に必要な人間だ。だが、危険な男だ。奴には首輪をはめておかなければいけない。そして、その首輪はお前がはめられる」

「何を言っているの。どんな生き物にも世界の理は変えられないわ」


魔女は己の顎を掴む男の手を強い力で振り払った。

間髪入れずに、男の逆の手が魔女の腕を掴む。

魔女と男の距離は変わらず、狂った瞳が魔女をひたと見つめた。


「そんな事は無い。今見せてやろう」


男が何か硬いものを魔女の額に当てた。一瞬見えたそれは、黒い石の姿をしていた。魔女の皮膚にそれが触れる。瞬間だった。

ざわりと肌が粟立つ。血の巡りが、急激に早くなった気がした。


これは良くないものだ。瞬時にそう思った。

それは、世界を捻じ曲げる、醜悪でなにか強大なもの。憎悪と慟哭、憧憬、傲慢に塗り固められた、おどろおどろしい、ヒトの感情の成れの果て。


「これは…何…」


魔女の五感が告げる。それは世界の理を破壊する。

どこか体の深い場所から、恐怖が溢れ出した。それと同時に魔女の中を走り抜けるそれは、魔力の奔流だった。なじみのある感覚だ。これまで何度となく繰り返してきた力の行使。ヒトの思い出を聞くたび、ヒトから感情を取り出すたびに繰り返した、魂喰いの能力。


恐怖に目を見開く。

自分が自分でなくなる。それが分かった。

ドロドロとした、何かとてつもなく重たいものが腹の底からこみ上げる。

これは己の意志ではない。魔女が振り向く。


被告人である錬金術師が。

驚愕の表情を浮かべてこちらを見ている。


これは魔女の摂理を越えさせるもの。

世界の理さえも、越えさせるもの。


思い出話も本人の同意も関係ない。

魔女の、魂喰いの能力が暴走する。



魔女が振り向くことで、その額から離れた黒い石は、傲慢な男の手の中で虹色に光り輝いた。もはや触れる必要もない。まるでそうとでも言っているかのようだった。


錬金術師の男から、憤怒と絶望の香りがした。

背後にいる男からは、傲慢と焦燥感の味がした。

裁判官からは潔癖と冷静のひやりとした感触。

聴衆からは恐怖の酸味。兵士から感じたわずかな恐怖は、溢れる使命感の中に埋没していく。


今、この場にいるヒト達の、多種多様な感情の種々----…


魔女の視界が明滅する。

強制的に感情を奪われ、苦しみ悶える人々の中で、錬金術師がひたとこちらを見つめていた。


その、昏い狂気に蝕まれた瞳の奥に、あたたかな光が見えた。

長い髪の、美しいヒト。優しい笑顔、あたたかな手のひら。微笑むその頬に小さなえくぼ。腕に抱える幼子が、こちらに向けて腕を伸ばすーーー


「やめてくれッ…!!!」


錬金術師の悲痛な声が響く。魔女の意識が再び現実に戻り、錬金術師と視線が絡む。狂気が伝わる。錬金術師が魔女へ、感情を明け渡そうとしている。

狂気に染まった原因となる感情ーーー。


あたたかな光景は消え失せ、代わりに闇夜を明々と照らす大きな炎が見えた。

小高い丘の上。積まれた藁の、さらにその上で焼かれているのは。


強い上昇気流に煽られる長い髪。焼けただれた皮膚。嫌な臭いが鼻をついた。

目の前の光景が信じられなかった。焼かれているのは、魔女ではなく、錬金術師でもなく、ただのヒトの女…錬金術師の妻と、その娘だった。


彼女たちに落ち度などなかった。

ただ、不作と度重なる天災に見舞われたその村で、彼女らは暴徒と化した村人の餌食になったのだ。彼女がヒトではないものーーー錬金術師と結ばれ、娘をもうけた。ただそれだけのことでーーーー。


流れ込んでくる強い絶望。憤怒、殺意。

錬金術師は、彼女たちをそんな目にあわさないために、国のために働き、ヒトのために尽くして、その研究成果を国へ報告して来たところだった。


魔女や、錬金術師、精霊に、もしかしたら神さえも。ーーーヒトにとって恐怖と畏怖の対象である存在の能力を、自在に引き出し使用する研究。それは、ヒトがこの世を作り替えるための研究だった。そして、今、魔女の背後にいて、魔女にその傲慢さも焦燥も、食い尽くされようとしている男が錬金術師に命じた研究だった。


焼け焦げた妻子を前にした錬金術師は、それからさらなる錬金術に身を投じた。

村人すべてを使用した、妻と娘の錬成。ヒトの命を、その存在を取り戻すための錬金術に。


錬金術師の摂理を越え、世界の理を破壊したその研究の結果は、惨憺たる有様だった。村人すべてが死に絶えた村の中に、妻子の姿はどこにもなかった。姿を失った村人たちの残した血の海だけが、かつてその村にヒトのいた痕跡を伝えていた。



錬金術師がわずかに微笑む。

魂喰いの能力が、その場に居合わせたすべての存在から、感情という感情を奪っていく。それはいつものように何かの形となって現れることもなく、魔女の五感に様々な形で伝わって、その体内に吸収されていく。


甘みも、辛味も、酸味も、この世のあらゆる味があった。

涼やかに、重々しく、讃美歌のように響きながら魔女の鼓膜を震わせる。

この世のすべての花の数よりなお多い、多種多様な香りがした。

冷たく、あたたかく、硬質で柔らかな手触りが魔女の肌を滑っていく。


ヒトたちの恐怖の声。神に許しを請い、家族を思って呻く声が聞こえるたびに、感情の渦は大きくなっていく。


有象無象の幸福、悲しみ、絶望、不安、虚栄心、責任感、傲慢、嫉妬、憧憬、そして恐怖。この世のあらゆる感情が入り乱れる。まるで嵐の中のようだ。感情の奔流が、大きく波打ち魔女に流れ込んでくる。


それをどうすることもできず、魔女はただそこに立ち続けた。

昏い色を失った、輝く錬金術師の瞳を見つめながら。



ーーーーやがて、傲慢な男の手にあった石に亀裂が走った。

一層白く輝くと、さらさらと小さな砂となって男の手からこぼれてゆく。

最後の一粒が地面に落ちた時、その空間に立っていたのは、魔女と錬金術師の男だけだった。



魔女は、いや、魔女はもはや魔女ではなかった。

自分でもわかった。彼女には、もはやヒトの感情を食うことはできない。

己の職能を失った元魔女は、ヒトビトが倒れ伏す地面をそっと歩き出す。


「世界の理を越えてしまったわ」


苦笑して呟けば、錬金術師が深々と頭を下げた。それは懺悔だろうか。それとも感謝か。


「お前もそうなのね」


錬金術師ーーーもはや錬金術師ではない男がゆっくりと面をあげる。

そして次の瞬間、彼は膝から崩れ落ちた。

もはやどれほどの力も残っていないのだろう。男は緩慢な動きで体をあお向ける。

その瞳に狂気はなかった。憤怒も恨みもなかった。ただ、暖かく灯る愛情がそこに揺れていた。


「村人たちを殺したとき、お前はすでに世界の理を越えていた。お前、この裁判が始まる前からすでに、錬金術師としての職能を失っていたのでしょう?」

「ああ」


深いため息のような声が男から漏れる。


「愚かなヒトたちはそれに気づくことができなかった。まだお前が錬金術師なのだと思い込み、その職能を欲しい侭にしようとしていた」

「その通りだ」

「お前は何がしたかったの?復讐?」

「そうだ、俺に研究を押し付けたくせに、俺の妻子を守ることもできなかったこの国の無能どもを殺して俺も死ぬつもりだった」


彼女が、ようやく男のそばにたどり着いた。

緩慢なしぐさでしゃがみ込むと、彼女は男の頬を撫でた。


「私、魔女ではなくなってしまったわ」

「それはすまない」

「いいのよ。今まで食べたことがないくらい、大量の感情を食べてしまって、もう食傷気味。魂喰いはもういいわ。でも」


男が彼女を見て微笑む。

その微笑みに、彼女は男の中に残った感情を読み取る。


「お前の、家族へ対する愛情。それは、最後に食べてみたかったかも」

「なぜ喰わなかったんだ?」

「喰わせなかったのはお前でしょう」


魂喰いの能力が暴走した瞬間、舌先に触れた極上の甘味。

それを引き戻し、代わりの感情を与えたのは男自身だ。あの瞬間に、よくもとっさにそんなことができたものだ、と思う。

その感情だけは、どうあっても失えない、錬金術師の最後の宝物だったに違いなかった。


「そうか。…そうか」

「季節が巡るように、魂もまた巡るもの。お前の旅路の先に、お前の愛する者たちが待っていることを祈っているわ」


世界の理を越え、さらにヒトの国の王子にも、魔女にさえ世界の理を越えさせた錬金術師。それはこの世にあって許容できぬ存在だろう。

男の生命力が、怪我もないのにその身から零れ落ちていくのが彼女にはわかった。

錬金術師としての摂理を越え、世界の理を犯し続けた男が、死のうとしている。


「ずいぶん優しいな」

「一生分の食事の代金だと思って頂戴。贅沢を言わせてもらえれば、もう少しゆっくり味わって食べたかったけれど」

「そこらに転がってる奴らは死んだのか?」

「生きているわよ。多かれ少なかれ、感情を私に食わせてしまったから、皆この後大変でしょうけど。特に、なんだったかしら。あの傲慢な男」

「ああ、この国の王子」

「そう、その男。あの石を持っていたあの男については、強い感情も弱い感情も、感情という感情をすべて失って、まっさらになってしまっていると思うけれど」

「それは、生きているとは、言えないな…」


男が心底楽しそうに笑う。

つられて、彼女も目を細めた。


「これから、何をして過ごそうかしら。城下町の店には、もう戻れないわね」


戻る意味も、もうないし。

何気なくつぶやいた言葉に、男が懐から一つの鍵を取り出す。

そしてそれを彼女に向けて差し出した。

彼女は苦笑とともにそれを受け取る。


「じゃあ、これをやろう。俺の家の鍵だ。場所は、まあ、お前ならわかるだろう」

「村一つが一夜にしてほろんだ場所にあるのでしょ?女性に勧める場所じゃないわねえ」

「そんな繊細さは持ち合わせてないだろう。俺がこれまで積み上げてきた研究の束がそこにある。あんたなら読んでも良い。もしも、…もしも、それを引き継いでも良いと思えるような錬金術師に出会ったら、そいつにそれを託してやってくれ」

「良い暇つぶしになりそうね」

「そうだろ。ああ、そうだ…暇つぶしついでに、もう一つ、野暮用を頼まれてくれないか」


男の焦点があわなくなってきている。

男の身に残る生命力はあとわずかだ。


「奥様と娘さんの墓にはどんな花を供えればいい?」


返してやれば、男は小さく笑って、心の底から安堵したような息を吐く。


「そのへんに生えている花を。可憐なものがいい」

「わかったわ」

「ああ、あんたのおかげで、俺は、二人への愛情だけをもって逝ける。余計な悲しみも憎悪もなく、後に思い残すこともなく。…あんたの言う通り、巡り巡った先で、二人に会えたら、何をおいても抱きしめてやれる。ただ、二人への気持ちだけで」


男の瞳が揺らぐ。

その眦から一筋、小さな水の粒が流れ落ちた。


「すまなかった。あんたを、巻き込んで」

「巻き込んだのはあなたじゃないわ。ついさっきまで、私は魔女だった。だから、仕方がなかったのよ。ただ、世界の理のままにあるがままにあるだけだもの。それが魔女だもの。そしてあなたも」

「それが実現可能だ、と思ったら突き詰めざるを、得ない…それが、錬金術師だ」

「そうね」

「もう、その柵ともおさらばだな」

「…そうね」


彼女はその指先で男の髪を梳いた。幼子が眠りにつく時のような優しさで。

男の、浅くなっていく息を、その最後の瞬間まで見届けようとするかのように。


「いつか、またね」

「ああ、いつか、また」


そして、男は息を引き取った。

彼女は手錠のついたままの男の両手を、祈りの形に組み合わせる。

そして小さく目を伏せて黙禱をささげてから、そっと立ち上がった。


「可憐な花、ね。森のに聞いてみようかしら」


もはや魔女ではない、只ヒトでもない無力な女は、そう呟いて小さく微笑んだ。

あとの惨状はもはや彼女になんの関係もない。


倒れ伏すヒトビトの間を縫って、彼女はその部屋を出て行った。

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― 新着の感想 ―
魔女は人間含む自然と寄り添う存在で、錬金術師は革新を求める生態をしてるんでしょうかね……世界観が良いですねー好みです! ヒトを愛する(興味を持つ?)こともある理|内(・)の存在なのに、利用しよう、利用…
コレは……森の魔女どうなるんだろう?
ナンか…ナンて表現したら良いのか…… 深淵の森の奥深くの秘境を垣間見せていただいたような、重厚な…… ああ、言葉になりません 素晴らしいお話を、どうもありがとうございます
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