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9.終戦

「私たちは奴を止める術を持っていなかった。唯一の希望は、日本が持ちかけた“まやかし”だった。」

 

■■■■■■

 

 大統領は、日本からの提案を正式に受け入れた。

 そして政府は、史上最も異様な作戦——「偽旗(Operation)作(False)戦(Flag)」を実行することを決定した。

 未だ混乱と避難民であふれかえるニューヨークにおいて、霧影を欺くための“偽りの光景”が次々と作り出されていった。

 まるで日本がすでにアメリカを占領し、支配しているかのような——そんな虚構が、街全体を覆い尽くした。


 日本から提供された日の丸が、自由の女神の肩に掛けられ、エンパイア・ステート・ビルの頂上に翻った。

 マンハッタンの通りには日本語の看板が並び、五番街の交差点には「銀座通り」と書かれた標識まで設置された。

 軍の主導で、日本軍の象徴となる装飾が各所に配置された。かつてウォール街を見下ろしていたワシントン像には、日本の武士の兜がかぶせられた。

 タイムズスクエアの掲示板には、「大日本帝国万歳」と日本語のスローガンが映し出された。

 

 この光景は、アメリカ国民にとって悪夢だった。

 星条旗が降ろされ、代わりに日章旗がはためいている。

 市民たちはその光景を信じられないまま見つめ、口を閉ざし、目を伏せ、ある者はただ茫然と立ち尽くしていた。

 胸に刻まれた誇りと愛国心が、音を立てて崩れていくのを感じながら——。


 だが、それだけでは足りなかった。

 

「より確実に日本だと思わせる必要がある。」


 ニューヨークの至る所にスピーカーを設置し、日本の童謡や軍歌を流すことが決定された。

 やがて、静まり返った街に「ふるさと」の旋律が流れ始めた。

 懐かしい故郷を歌う優しい日本の歌が、かつて自由の象徴だったこの都市に響き渡る。

 一日にして、ニューヨークは“日本の都市”のような姿に作り替えられた。


 国民にも「これは降伏ではなく生存のための策である」と、作戦の意図は伝えられていた。

 しかし、予測されていた通り反発は激しかった。


「ふざけるな!こんなのは屈辱だ!」

「俺たちは日本に支配されるのか!?」

「こんなことをして、もし化け物が気にしなかったらどうするんだ!」


 星条旗が降ろされた街角で、拳を握りしめる者。

 掲げられた日の丸を引きちぎろうとして、軍に制止される者。

 泣きながらラジオを抱える退役軍人、国旗を握りしめ嗚咽する母親——誰もが、この異様な光景に耐えきれずにいた。


 そして、もっとも屈辱を感じていたのは、兵士たち——特に太平洋側で日本軍と戦っていた者たちだった。

 日本の旗を掲げる任務を与えられた部隊では、ほぼ全員が露骨に嫌悪感を示し、無言のまま旗を手にした。

 かつて命を懸けて戦った戦場で、多くの仲間を奪った敵。

 その象徴である「日の丸」を、今、自分たちの都市の頂に掲げなければならない。


 “イエローモンキー”と呼び、軽蔑していた国の旗を、自らの手で掲げるという皮肉。

 それは、戦死した戦友たちの名誉をも踏みにじる行為のように感じられた。

 旗を掲げながら涙を流す者、地面に膝をついて動けなくなる者もいた。

 彼らにとってこの作戦は、命令であっても、耐え難い辱めだった。


 しかしながら、ニューヨークにいる国民や兵士のうち、実際にデモや反発を起こしたのはごく一部に過ぎなかった。

 それよりも多くの人々、特に霧影の脅威を直に目の当たりにし、故郷を焼かれ、家族を失った者たちは、何も言わずに作戦を受け入れた。

 もはや反発する気力すら、奪われていた。


「アメリカが滅びるよりはマシだ……」

「……方法があるなら、とっくに試しているさ……」


 その呟きには、もはや希望も怒りもなかった。

 あるのは、避けられぬ破滅の気配と、それに抗うことすらできない無力感だけだった。

 この作戦が失敗すれば、ニューヨークは灰になる。

 それは確定した未来のように、誰の頭にも焼き付いていた。


 だから今は、敵国の旗に縋るしかない。

 誇りも、歴史も、信念も、恐怖の前には意味を失った。

 あの怪物は、理屈では止まらない。

 情も、交渉も通じない。

 その存在は、終焉そのものだった。


 人々はただ、無言で空を見上げていた。

 赤い円が描かれた布が、異様に青い空を切り裂くように翻っていた。


 そして——霧影はニューヨークに迫った。


 空母を玩具のように投げ飛ばし、精鋭の師団を跡形もなく踏み潰し、熱線で街という街を灰に変えてきた、恐怖そのもの。

 その巨体が赤い霧を撒き散らしながら、腐食した大地を引き裂き、世界最大の都市へと、怒りと憎悪をまとって進撃していた。


 この時点で、迎撃部隊という言葉はもはや意味をなさなかった。

 空も、海も、地上もすでに蹂躙され、何を試しても通じなかった。

 残された手段はただひとつ——虚構の降伏。見せかけだけの、偽りの服従。


 住民たちや避難民たちは、建物の影や避難船に身を潜めながら、誰も声を発さなかった。

 作戦に強く反発していた者たちでさえ、実際に霧影の姿を目にした瞬間、その異様な気迫に打ちのめされ、日本の旗に縋るように沈黙した。

 反発の声を上げていたのは、霧影の脅威を“まだ知らなかった”ニューヨーク市民たちだった。

 だがその恐怖が現実となった今、彼らは初めて、言葉を失った。


 街は静まり返り、スピーカーから流れる童謡だけが虚ろに響いていた。

 まるで子守歌のように——死を前にした街を優しく包む、皮肉なほど穏やかな旋律。

 誰もが祈っていた。

 いや、多くの者は祈る気力すら尽き果て、ただ運命の時を受け入れるしかなかった。


 そして、霧影の足がニューヨークの目前で、止まった。


 轟音も、振動も消えた。


 まるで世界そのものが、呼吸を止めたかのような静寂。

 怪物は、黒い影をたたえたその目で、ゆっくりと眼下の街を見下ろしていた。


 翻る日本の旗。

 自由の女神に巻かれた赤い布。

 スピーカーから流れる、日本の童謡——「ふるさと」。


 それらすべてを、霧影は無言で見つめていた。

 しばしの沈黙のあと。


「……まさか、本当に……?」


 誰かが、信じられないといったように呟いた。

 兵士たちは、全員が同じ表情だった。驚きと、困惑、そしてわずかな希望が入り混じった顔。


 霧影は、ニューヨークの街を睨み、時折、遠くに潜む兵士や砲台に視線を送った。

 すべてを見透かしているような、静かな怒りを秘めた瞳だった。


 そして——何もせず、静かに背を向けた。


 霧影はニューヨークを破壊することなく、そのままゆっくりと別の方向へと移動を始めた。


 作戦は……成功したのだ。


 それから数週間、霧影の行く先々で同じ作戦が繰り返された。

 霧影の進路を予測し、その都市に急ピッチで日本の国旗を掲げ、日本の童謡を流した。

 政府は工場を総動員し、旗や看板を大量に生産。

 役所や軍事施設、企業のビル群には日の丸が翻り、街の広場には日本語の標識が設置された。

 かつてのアメリカの都市は、次々と「偽の日本」に作り変えられていった。

 そして、そのたびに霧影は攻撃をせずに立ち去った。


 しかし、すべての都市がこの作戦を受け入れたわけではなかった。

 

「こんな屈辱に甘んじるくらいなら、戦って死ぬ!」

「これは日本の策略だ!我々は騙されている!」


 反対派の市民や州兵が立ち上がり、国旗を破り捨て、日本の歌が流れるスピーカーを破壊した街もあった。

 彼らは、最後まで戦おうとした。

 

 だが、結果は変わらなかった。

 霧影は、彼らの街に立ち止まることなく侵入し、すべてを踏み潰した。

 怒りを、憎しみを、恐怖を伴って——何も残さず、ただ消し去った。

 

 政府も私たちも、彼らを助けることなく見捨てた。

 ようやく希望の兆しが見えてきたのに、奴の機嫌を損ねたくなかったからだ。


 やがて、霧影は進路を変え、日本へと向かい始めた。

 かつて破壊の限りを尽くし、そして日本軍によって占領されたアメリカ西海岸を、霧影は無言のまま通過していった。


 その際、霧影が放ったのは“赤い霧”ではなく、“白い霧”だった。

 腐敗しきった大地を包み込み、静かに、穏やかに、それを浄化していった。

 そして、何も言わず、何も壊さず、霧影は海へと姿を消した。


 それにより、数ヶ月にわたりアメリカを蹂躙した災厄は、あっけなく終息を迎えた。

 英雄的な反撃もなければ、壮絶な決戦もなかった。

 ただ、敵国の旗を掲げ、童謡を流し、恐怖に膝を折って欺いた——それが、唯一人類が霧影に成し得た“勝利”だった。


 街は静まり返り、人々は歓声もなく、涙もなく、ただ空を見上げていた。

 誰もが口に出さずとも、心の奥底で理解していた。


 ——我々は、勝ったのではない。

 騙して、生き延びただけなのだ。


――――――

 

 霧影が日本近海へと姿を現したという報告が届くと、日本軍もまた、静かに動き出した。

 破壊された都市の復興を最低限まで整え、和平の条件を果たしたことを確認すると、日本は次々とアメリカ占領地からの撤退を開始した。


 サンフランシスコの港では、戦艦「長門」や「大和」をはじめとする艦隊が、日本兵を乗せて祖国への帰路についた。

 それは勝者の帰還ではなかった。

 彼らもまた、霧影の暴走に振り回された者に過ぎなかった。


 日本はアメリカの技術を手に入れたが、原爆で深い傷を負い、戦争で国力は著しく消耗していた。

 アメリカは、国そのものが滅びかけた。

 この戦争に、勝者など存在しなかった。


 太平洋戦争は終わった。

 だが、その果てに残ったのは、焦土と化した大陸、無数の死者、そして——霧影という名の、理解も制御もできぬ“恐怖”だった。

https://www.pixiv.net/artworks/130091179

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