3.夜襲
「戦争は、勝利に向かっていた。少なくとも、あのとき私たちは、そう信じていた。」
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艦隊の失踪により、その後の空爆は中断され、私たちは慎重に今後の戦略を練り直す結果となった。
通信も救難信号も発されず、ただ沈黙と残骸だけが漂っていたというあの事件――あれを境に私たちは日本の新兵器や戦略に強い警戒を抱いた。
だが、それ以降、同様の事件は二度と起こらなかった。
――――――
あれからの戦争はアメリカ優位に進んでいた。
当初こそ日本人特有の強靭さと兵器には苦戦を強いられたが、所詮は人間である。
攻撃を受ければ傷付くし、銃弾を浴びれば倒れる。
戦いが進むにつれ、アメリカの圧倒的な兵力と強力な兵器、そして戦略を以て太平洋戦争はアメリカの勝利に近づいていた。
そして、1945年。
アメリカ軍は日本本土への侵攻に向けて、その最初の大規模な一手を打った。
沖縄上陸作戦。
太平洋戦争において最大規模の上陸作戦であり、同時に、私にとって“最初に恐怖の記憶”を残す作戦でもあった。
当初の経過は順調だった。
激しい抵抗こそあったが、私たちの物量と制空権は明らかに日本軍を上回っていた。
艦隊は戦艦、巡洋艦、駆逐艦を合わせて十数隻におよび、圧倒的な火力と兵力を背景に、次々と上陸拠点を確保していった。
野戦基地が築かれ、補給線も安定し、少なくとも戦術的には成功と呼べる進行だった。
まだ侵攻は始まったばかりだったが、誰もが日本の敗北は時間の問題だと確信していて、空気は楽観的だった。
私はテントで同僚たちとコーヒーを飲みながら、ぼんやりと会話を交わしていた。
前線にいた兵士たちは、疲れ果ててはいたものの、安堵したような表情を浮かべていた。本土決戦が始まる前に、少しは休める——そう思えば、誰もが肩の力を抜いていた。
酒を密かに持ち込んでいた奴もいた。
ある者は甲板でタバコをふかしながら、海の向こうに沈む陽を見つめていた。
誰もが、この戦争の終わりを、現実のものとして想像し始めていた。
「これだけやられりゃ、日本も降伏するだろう」
「……ああ。あとは本土決戦か。だが、そこまでもつかね?」
そんな他愛ない会話すら、あの時の私たちには、勝利の余韻のように聞こえていた。
もし日本がまだ戦い続けるなら、さらに強力な攻撃を加えるだけだと——。
だが——その安堵は、長くは続かなかった。
――――――
最初の衝撃は、私が眠りにつこうとした夜だった。
テントの中、薄い毛布を肩にかけてまどろんでいた、その時だった。
突如として地面が爆ぜた。
激しい振動が地面を揺らし、耳をつんざくような轟音があたりに響いた。
何が起きたのか分からない。砲撃か?空襲か?それとも味方の誤爆か?
反射的に外へ飛び出すと、そこには異様な光景が広がっていた。
戦車隊や仲間が寝ていたはずのテントは影も形もなく、地面が大きく抉れ、巨大な大穴がぽっかりと口を開けていた。
まるで、内側から爆発したかのように地面が裏返り、土砂と鉄骨の破片が空へと舞っていた。
爆発跡なのは明らかだった。
しかし、私の直感が叫んでいた。
砲撃でも、航空爆弾でも、あれほどの規模にはならない。
そんな破壊力は、私の知る限り存在しない。
私は混乱の中で身を低くしながら、仲間と顔を見合わせた。
誰もが目を見開き、言葉を失っていた。
その時だった。
――穴の中から、“あれ”が這い出してきた。
闇と霧が、穴の底からじわじわと溢れ出すように広がり、そしてその中から、巨大な影がゆっくりと姿を現した。
無音のまま地を這うような動き。
そして、空気が冷え込むような異質な気配。
私の脳が拒絶しようとしていたが、理解した。
——霧影だった。
だが、これまでの報告や、私自身が見てきた姿とはまるで違っていた。
かつては霧の中を静かに漂い、人間に無関心だったその生き物は、今、異様なほど鋭い眼光を放ち、口元からは熱を帯びた蒸気を荒く漏らしていた。
その一歩ごとに、地面が微かに震えた。
まるで地そのものが、その存在に怯えているかのように。
霧影は後ろ足で立ち上がった。
いつもの四足の姿勢でも十分すぎるほど巨大だったが、立ち上がったそれは、もはや“山”だった。
黒く濡れた皮膚が軋み、筋肉が波打ち、霧の中から現れたそれは、私たちの知る悠然たる神獣などではなく、獰猛な獣だった。
そして、咆哮した。
それはもはや音ではなく、衝撃そのものだった。
霧影の咆哮が周囲に放たれた瞬間、世界が一瞬静止したように感じた。
次の瞬間、爆風のような衝撃波があたりを襲った。
テントが吹き飛び、人が宙に舞い、戦車が軋みを上げて横倒しになる。
耳を塞ぐ間もなく、鼓膜が張り裂けそうな痛みが頭に響いた。
仲間のひとりが、叫び声をあげる間もなく吹き飛び、私は地面に叩きつけられて砂と血の味が口の中に広がった。
——おとなしい? 無害? 守り神?
違う。
そんなものではなかった。
あれは、怒りと憎悪に満ちた存在だった。
そして、その憎しみは明らかに“人間”に向けられていた。
そして、戦いが始まった。
――いや、戦いなどとは呼べなかった。ただの、一方的な蹂躙だった。
霧影は咆哮と共に腕を振り下ろし、足元にいた兵士たちを、虫けらのように叩き潰した。
地面が轟音と共に割れ、人も機械も血と鉄の塊と化して地面に埋まった。
尾がうねり、横薙ぎに払われた。
テントも、砲座も、塹壕さえも、何もかもが紙のように吹き飛ばされた。
――明らかだった。
あれは無差別に暴れていたのではない。
私たちを狙っていた。
「撃て! 撃てぇぇ!!」
誰かの叫び声が夜空に響き渡った。
戦車が砲火を上げ、弾丸が霧影の胴体に炸裂する。
命中した。
だが、効いていない。
霧影は微動だにせず、次の瞬間、戦車を片手で掴み上げると、まるでおもちゃのように兵士たちへと投げつけた。
爆発音と断末魔が入り混じり、辺りは地獄と化した。
最初の地面の爆発で、私たちはほとんどの戦車を失っていた。
残された数台も、暴れ回る霧影の前では何の意味もなかった。
次々と踏み潰され、押し潰され、火を噴きながら沈黙していった。
私たちは、機関銃を構え、榴弾を撃ち、できる限りの抵抗を試みた。
だが、それはまるで、嵐に小石を投げるようなものだった。
霧影は私たちの攻撃などまるで意に介さず、ゆっくりと医療施設へと歩を進めた。
そこには、先の作戦で負傷した兵士たちが収容されていた。
施設は一瞬にして崩れ、内部にいた者たちの断末魔が、耳を塞ぎたくなるほどの凄絶さで響き渡った。
その直後、日本人捕虜たちが収容されていた建物の壁が崩れ、日本兵と沖縄の民間人たちが混乱の中で外へ飛び出してきた。
彼らは、ちょうど霧影の正面に出てしまった。
絶望的な距離だった。
そして、霧影は足を止めた。
明らかに、彼らを見た。
この時、私は心の奥底で「チャンスだ」と思った。
「今だ……あの怪物が日本人たちを蹴散らしてくれれば、自分たちは逃げられる」
そう思ったのだ。
今にして思えばあまりに利己的だったが、あの時の私にとって、道徳や倫理などどうでもよかった。
ただ、生き延びたかった。ただ逃げたかった。それだけだった。
しかし、現実は――残酷なまでに裏切った。
霧影は日本人たちを無視し、彼らの背後にいた私たちの方へと、突進し始めた。
――いや、無視したというより、避けたのだ。
明らかに目の前にいた彼らを見ていた。
だが、霧影は一歩も踏み込まなかった。
その巨体がほんの少し、彼らを避けるように進路を変えたのを、私はこの目で見た。
「……ウソだろ、何で!?」
仲間の誰かが叫んだ。
私たちも、心の中で同じ叫びをあげていた。
なぜ、あれほどの怪物が、目の前の日本人ではなく、わざわざ遠くにいる私たちを狙う?
答えは、分からなかったが、霧影の動きはあまりにも明確だった。
私たちを見据え、私たちを選び、私たちを“排除すべき敵”と認識しているかのように。
私たちは必死に、艦隊が停泊していた港へと駆け出していた。
戦車隊はすでに壊滅し、手持ちの小火器も霧影にはまるで通用しない。
逃げ道は、もはやそこしかなかった。
背後では霧影が、兵士たちを一人、また一人と容赦なく潰しながら迫ってくる。
そのたびに、地面が揺れ、悲鳴が夜の闇に飲み込まれていった。
ようやく港に辿り着いたとき、艦隊はすでに迎撃態勢に入っていた。
サーチライトが霧の向こうに立つ巨影を捉え、戦艦の主砲が轟音とともに火を吹いた。
砲弾が霧影の頭部を正面から捉え、凄まじい爆発が海岸線を揺るがす。
轟音と爆炎が視界を覆い、私は思わず地面に伏せた。
霧影は、よろめくことすらなく爆煙の中から姿を現すと、そのまま戦艦へと突進した。
その突撃の衝撃だけで艦体全体がひしゃげ、大きく傾いた。
だが、それで終わりではなかった。
霧影の爪が鋼鉄を紙のように裂き、悲鳴と轟音の中で戦艦を——持ち上げた。
それは、人間の理解を遥かに超えた光景だった。
数万トンもの鋼鉄の巨体を、まるで乾いた木の枝のように軽々と振り上げたのだ。
そしてそれを、他の艦の甲板にいた兵士たちを狙って叩きつけた。
海におけるアメリカの力の象徴が、ただのバットのように振り回される。
巨砲も、装甲も、戦略も通じない。
巡洋艦も、駆逐艦も、次々に無力化されていった。
戦艦の主砲すら無意味で、ただ海に火と煙を撒き散らすだけ。
私はそのとき、連合艦隊の誇る“大艦巨砲主義”が、ただの無駄撃ちとして終わる光景を目の当たりにしていた。
瞬く間に、港は火の海と化した。
空を舞っていた戦闘機は虫のように叩き落とされ、海に浮かぶ艦船は、兵士たちを殺すためのバットとして使われた。
強力な武器を備え、大勢の仲間を乗せた空母も戦艦も、ただ“大きいだけの鉄屑”として無惨に火を吹き、次々に沈んでいった。
もう、誰もが戦意を失っていた。
私たちは生き延びようと、残された艦船へと殺到した。
人の波が甲板へ、通路へ、階段へと溢れかえる。
その中で、私が艦に乗れたのは、ただの幸運だったとしか言いようがない。
だが、そのわずかな幸運すら、霧影の前では意味を成さなかった。
霧影が港に横付けされていた巡洋艦を地上に引きずり上げ、逃げようとしていた兵士たちの群れを一息に叩き潰した瞬間——私が乗っていた駆逐艦と貨物艦は、兵士たちの乗艦を待たず、出航を始めた。
「待ってくれ! 置いて行かないでくれ!」
「乗せてくれ……頼む、頼むから……!」
「なんでだよ……なんでなんだよ!」
残された兵士たちは、必死に助けを求める声を上げていた。
だが、その背後から、霧影が姿を現した。
巨大な影が覆いかぶさった次の瞬間、助けを求める声は、悲鳴と許しを乞う声へと変わった。
肉が潰れる音、骨が砕ける音、そして絶望が充満する叫びが、港全体に響き渡った。
だが、駆逐艦も、貨物艦も、彼らを助けに戻ることはなかった。
艦長も、船員たちも、彼らを見捨てたのだ。
あのまま全員が乗艦を終えるのを待てば、霧影の餌食になる。
自分たちが生き延びるためには、残された仲間を生贄にするしかない——それが、彼らの下した“最良の判断”だった。
しかし、仲間を見捨ててまで稼いだ時間は、ほんの僅かだった。
仲間たちを皆殺しにした霧影は、そのまま海へと身を沈め、泳いでこちらに迫ってきた。
その姿を見た瞬間、全身が凍りついた。
これまで数々の戦闘をくぐり抜けてきた。
銃撃戦、砲撃、爆撃——死の恐怖を感じても、それに理性で立ち向かうことはできた。
だが、これは違った。
これは理屈を超えた恐怖だった。
「こっちに来るぞ!」
「最大全速! 全速前進!」
駆逐艦も貨物艦も、全力で逃げようとしたが、それでも霧影の方が速かった。
まるで、海すら障害にならないかのように、巨大な体を滑らせて迫ってきた。
そして、私が乗る巡洋艦の後方にいた貨物艦が捕まった。
霧影は水面を割って姿を現し、そのまま貨物艦に乗り上がった。
甲板が悲鳴を上げて軋み、鋼鉄が裂け、船体が音を立てて潰れていく。乗っていた兵士たちは、なりふり構わず海へと飛び込んだ。
そのときだった。
スピーカー越しに、誰かの叫び声が聞こえた。
『頼む! 撃ってくれ! 奴を撃ってくれぇぇ!』
貨物艦が引き裂かれる音に負けないほどの、切実な叫びだった。
だが、巡洋艦の判断は——砲身を霧影に向けることだけだった。
撃たなかった。ただ全速力で逃げた。
きっと艦橋にいた艦長は、こう思っていたのだろう。
撃っても無駄だ。次に殺されるのは自分たちだ。
甲板にいた私たちも、それを悟っていた。
誰一人、抗議の声を上げなかった。
ただ呆然と、霧影に破壊されゆく貨物艦を見つめるだけだった。
中には、スピーカーに向かって小さく頭を下げ、謝罪の言葉を呟く者すらいた。
『お願いだ……!見捨てないでくれ!!』
スピーカーから響く声は、皮肉にもさっき自分たちが見捨てた仲間たちと同じ言葉だった。
今度は自分たちが生贄にされたと気づいたのだろう。その声には、次第に怒りも懇願も混ざり、最後は絶望だけが残った。
そして、貨物艦の中央で、突然、巨大な火柱が上がった。
爆薬庫に引火したのだろう。
絶叫と共に、艦そのものが爆ぜた。
『あああああああああああ!!!!!』
——その声を、私は今でも夢の中で聞く。
爆煙が晴れても、霧影は沈みゆく貨物艦の残骸に、まるで玉座のように腰を下ろしていた。
燃え上がる船体に囲まれながら、ただじっと、こちらを見ていた。
巡洋艦はすでに遥か彼方へ離れていた。
追ってくる気配はなかった。
ようやく逃げきれたのだ。多くの仲間を失い、誇りも倫理も踏みにじってなお、生き延びた。
甲板の誰もが、胸をなで下ろしていた。
だが——その時だった。
霧影の背にある棘が、ぼうっと赤く輝き始めた。
まるで脈打つように、ゆっくりと、しかし確実に光を強めていく。
「……なんだ?」
誰かが呟いた。
次の瞬間、視界全体が真紅の光に染まり、耳をつんざく爆音と共に、巡洋艦が爆発した。
何が起きたのか、まったく分からなかった。
ただ、凄まじい衝撃が私の体を宙に吹き飛ばし、海面に叩きつけた。
全身が砕けるような痛みに襲われ、息もできず、意識が遠のく。
最後に見えたのは、炎に包まれて崩れ落ちる巡洋艦だった。
艦橋も、甲板も、そこにいた仲間たちの姿も、もう何も残っていなかった——。
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