2.戦時中
「戦争が始まっても、あいつは変わらなかった。まるで人間の争いなんて興味がないみたいに。」
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1941年、日本とアメリカの間に緊張が高まり続けていた。
経済制裁、在米資産の凍結、ABCD包囲網……外交交渉はすでに形骸化し、すべてが戦争への道筋を描いていた。
ヨーロッパではドイツが西欧を席巻し、ロンドンには爆弾の雨が降っていた。
日本はすでに三国同盟を結び、アジアでの戦線拡大に躍起になっていた。米国との対立は、もはや避けようのない現実だった。
しかし、不可解なことがひとつあった。
真珠湾を巡る軍事的な緊張は確かに存在していたが、日本は最後の一線――攻撃――をなかなか越えようとしなかった。
何度も機は訪れた。
軍部内部でも開戦を主張する声は日ごとに強くなっていた。
それでも日本はどこか戦争に対して慎重で、ためらっているように見えた。
それは、日本近海にいた霧影の存在が原因だった。
「軍が動くと、あれがどう反応するか分からない」
公式には語られなかったが、日本政府も軍部も――特に日本軍の上層部には、そう考える者たちが確かにいた。
もし真珠湾を攻撃し、米国が本格的に反撃を始めた場合、太平洋に広がる縄張りを荒らされた霧影が、いかなる行動を取るのか。
誰にも予測はつかなかった。
歴史を振り返れば、日清戦争や日露戦争、満州事変といった拡張政策があったが、戦争を推し進める勢力と慎重な勢力がいつもせめぎ合っていた。
戦争では強硬姿勢を見せながらも、国際社会との協調を模索する姿もあった。軍備を拡張する一方で、国民には節度ある平和を説いていたようにも見えた。
そんな“どっちつかず”の態度は、太平洋戦争の直前も同じだった。
しかし、皮肉なことに――最終的に日本が開戦に踏み切った理由のひとつもまた、“霧影の存在”だった。
世界各国の一部研究者は、この存在に以前から注目していたが、特にドイツは霧影を「神の遺物 」と呼んで執着していたようで、日独伊三国同盟の裏では、あの霧影の軍事的転用について水面下で交渉が進んでいたとも聞く。
彼らは異様なほど執拗に情報を求め、報告書、写真、軍人の証言までありとあらゆる手段で入手を試みていた。
ナチスはオカルトと科学の境界を平然と踏み越えており、トゥーレ協会やアーネンエルベといった組織が、神話や超常現象の研究を軍事利用に結びつけようとしていた。
日本の近海に棲む霧影もまた、単なる大型生物ではなく、生物兵器以上の何か、戦争の行方を左右する“力”として利用できるとして認識されていた。
ドイツ側は霧影の研究・捕獲、あるいは制御すら見据えて、日本に共同研究を持ちかけてきたらしいが、日本はこれを拒否した。
曰く、「あれには手を出すべきでない」と
それは技術的な限界ではなかった。信仰に近い、根深い感情だった。
日本にとって、あの存在は“使う”ものではなく、“共に在る”ものであり、決して人間の手で弄ぶべきではないものだった。
それが神であれ、怪物であれ――日本は、決してその禁を破ろうとはしなかった。
それでも、アメリカも世界も無関心ではいられなかった。
表向きには、あれは“無害な存在”とされていたが、その巨大な体躯、纏う白い霧、そして神話の時代から語り継がれてきた逸話――どれを取っても、あれはただの生物ではなかった。
日本が“神”として霧影を崇め、研究すら拒んでいるという事実。
それが私たち、アメリカにとっては何よりも不気味だった。
なぜ調べないのか。なぜ触れようとしないのか。
その無関心こそが、何かを隠しているように見えた。
やがて、軍と諜報の間で疑念がささやかれ始めた――日本は霧影を生物兵器として秘かに育てているのではないか、と。
ドイツとの共同研究を拒否したのも、真の技術を独占するための芝居ではないのか、と。
もし、あの巨大な生物が意図的に動かされる存在であれば、それはもはや戦争の均衡を根底から崩す“究極兵器”となる。
そして、その“兵器”が敵国の領海にいる――それは、我々にとって到底見過ごせることではなかった。
いや、今思えば……むしろアメリカこそが、最も深い関心を霧影に寄せていた。
未知の生物――それも太古から生き延び、自然と共鳴する存在――から得られる可能性は、軍事利用に留まらなかった。
生物学。医学。兵器工学。そして、新たなエネルギー源の発見。
霧影は、人類の科学にとって“夢”だった。
科学の名のもとに、あらゆるものを解体し、理解し、利用するという発想。
それが、我々の――アメリカの強みであり、そして恐ろしさでもあった。
表向きは「国際協調」「共同監視」などと称していたが、実際には、我々は霧影の研究・解明を主導するつもりだった。
いや、もっと言えば――あれを日本から“奪う”つもりだったのだ。
それは、アメリカやナチス・ドイツに留まらなかった。
ソ連をはじめとする、他の列強諸国もまた、同様の関心と警戒を抱いていた。
霧影の存在は、もはや一国の問題ではなかったのだ。
そして、世界からの圧力は、ついに“最後通告”という形を取った。
――霧影を日本政府の管理下から切り離し、国際的な監視体制に引き渡すこと。
全ての活動記録、位置情報、生態データを開示せよ。
以後の管理と監視は、連合国が共同で行う。
これを日本が拒否するのであれば、それは“潜在的脅威”と見なされ、すなわち――排除の対象となる。
日本に残された道は、どちらも過酷だった。
従えば、太古より崇めてきた“神”を、他国の手に売り渡すことになる。
拒めば、戦争が始まる。
そして、日本は後者を選んだ。
その選択は、国家の誇りと信仰に根差したものだったのかもしれないし、単なる頑なさだったのかもしれない。
あるいは、霧影に手を出すことへの、言い知れぬ“恐れ”があったのかもしれない。
いずれにせよ、歴史はその瞬間、決定的に動いた。
――1941年12月。
太平洋戦争が、勃発した。
――――――
戦争が始まった後も、日本からの“霧影”目撃情報は変わらず続いていた。
軍の偵察記録、日本軍からの傍受通信、民間の報告を解析すると、戦況が激化していく中にあっても、霧影は定期的に姿を現していた。
それも、戦場からは遠く離れた場所で。
日本軍が南方諸島へ侵攻し、やがて米軍の反攻が始まっても、霧影はただ海を漂い、時折、岸に上がっては静かに歩くだけだった。
ガダルカナル、マリアナ、レイテ……次々と火がつく太平洋戦線をよそに、日本本土の漁村や山間部では戦争の最中でも霧影は時折現れ、何事もなかったかのように徘徊し、戦場の喧騒とは無縁に生きていた。
そんな霧影に対し、日本軍は関与しようとしなかった。
まるで戦争の世界とは別の存在のようだった。
日本近海の前線で戦う兵士たちも、時折、水平線の向こうに巨大な影が浮かぶのを目撃していた。
波間から覗く、異様なまでに大きな背。霧の帳の中に、一瞬だけ浮かぶ輪郭。
だがそれは、ただそこに“いる”だけだった。戦闘に加わることもなければ、咆哮すらしなかった。
兵士たちは、不安と畏怖を紛らわすようにこう冗談を言ったものだ。
「戦争が終わるまで、あいつは動かねえつもりなんじゃないか」と。
米軍が一度、艦砲射撃で威嚇を試みたことがあるという。
だが霧影は微動だにせず、ただ静かにその巨体を海へと沈めていった。
それを最後に、軍部もそれに対して無理に関与することはなくなった。
私自身も、1943年のある夜、南鳥島沖で航行中に“それ”を見た。
真夏だというのに急に霧が立ちこめ、見張りの男たちが騒ぎ始めた。
舷窓の向こうに、霧の壁を裂くように浮かぶ巨大なシルエットがあった。乗組員の誰もが脅威だと認識して神経質になっていたが、そいつはこっちを見ただけでただ通り過ぎただけだった。
ただ、それだけだった。
米軍もやがて霧影を“戦争に関与しない生物”として認識し始めた。
動かない霧影は、脅威ではない。
むしろ――戦後、我々が研究・利用するべき“資源”であるのなら、無闇に傷つけるのは避けるべきだ、という暗黙の了解が生まれていた。
上層部から明言されたわけではないが、前線の判断や攻撃の選定には、確実にその意識が滲んでいた。
静かな日々が続いていた。
霧影は戦争に干渉せず、我々もそれに手を出さなかった。
――東京への空爆が始まる、その時までは。
最初の異変は、東京への初めての空襲作戦――いわゆる“ドーリットル空襲”の成功の直後に起きた。
爆撃機部隊は任務を終え、太平洋上の艦隊へ帰投していた。
日本本土への奇襲は成功。全機とはいかずとも、多くの機体が無事帰還し、私たちに勝利の報告を発信していた。
だが、その直後から、艦隊との連絡が途絶えた。
最初は通信の不具合かと思われた。嵐や機器の故障、あるいは敵の電波妨害。
だが、すぐにそれは“ただの障害”ではないと誰もが気付いた。
近くにいた艦隊が確認に向かうと、そこにあるはずの艦隊は存在せず、広大な海の真ん中に僅かな残骸だけが漂っていた。
付近をくまなく捜索したが、生存者は確認できなかった。
残された破片だけでは、何が起きたのかは判別できず、ましてや艦隊全体が沈むほどの攻撃を受けながら、通信すら発信できなかったという事実は、我々を混乱させた。
日本軍の報復か?
だが、いかに奇襲といえど、応答も救難信号もないまま艦隊が沈むなど、常識では考えられない。
この時点では、誰もその理由を知る由もなかった。