第9話 茶番
夜会の喧騒が遠ざかり、二人はゆっくりと会場へと戻ってきた。
エリュシオンの視線は変わらずアデルの背中を追っていた。彼女のドレスの裾が揺れ、柔らかな光を反射する。華やかな夜会の中にあって、彼女の存在はひときわ際立っていた。
「ふふ、そんなに見つめないでくれる?」アデルが振り返りながら微笑む。
エリュシオンは一瞬口を開きかけたが、苦笑すると黙って肩をすくめた。
会場へ足を踏み入れた瞬間、微かな緊張が走った。
人々の視線が二人に向けられる。アデルの肩を寄せるようにしてエリュシオンは静かに歩を進めた。
すると、彼らの前に一人の女性が現れる。
サブリナ・ウィルザード——ウィルザード王国の第二王子ハロルドの妻。
三年前、アデルの婚約者だった男を寝取った女。
「まあ、アデル様。お久しぶりね」
サブリナは悪びれもせず、むしろ得意げに微笑んだ。
その桃色の髪を優雅にかき上げる仕草には、自信が満ちていた。
「ええ、ご無沙汰しております、サブリナ」
アデルは涼しげに応じた。
だが、周囲の空気は一変していた。社交界において、醜聞は永遠に語り継がれるもの。三年前の出来事が、人々の記憶から消え去ることはない。
ざわざわと、静かな動揺が広がる。
「そう堅苦しい挨拶は抜きにしましょう?」
サブリナは微笑みながら、一枚の書状を取り出した。
細長い指先が、その紙を宙にひらめかせる。周囲の貴族たちの視線が、その書状に集まった。
華やかな夜会のはずなのに、アデルの耳に届くのは衣擦れの音と、抑えきれない好奇心に満ちた囁き声ばかりだった。先ほどまで楽しげに会話していた貴族たちの視線が、一斉にアデルとサブリナに注がれている。
「アデル様。こちらをご存じ?」
アデルの瞳がわずかに細められた。
書状に見覚えがあった。
エリュシオンが初めて彼女に見せたものと同じ。
たしか彼はこう言っていた——『レストリア王家の王女と私との婚姻が約束されています』。
「アデル様。これをご存じ?」
サブリナの声は甘く響くが、その底には冷たい刃のようなものが潜んでいた。彼女の唇は紅く彩られ、ゆったりと微笑を浮かべている。その余裕は、この場を完全に自分の支配下に置いているという自信の表れなのか。
アデルは書状を一瞥しながら、内心の波を静かに鎮めた。サブリナがこんなものを持ち出してくる以上、当然、ただの戯れでは済まされない。
「わたし最近、エルフ語を嗜む殿方と仲良くなりまして」
サブリナはくすくすと笑いながら、周囲に軽く視線を巡らせた。彼女の言葉に興味をそそられた貴族たちが、こぞって耳を傾ける。
「風の噂で聞いたところによりますと、あなた方お二人はこの書状があることによって結婚の話がでている、とか?」
優雅にグラスを傾けながら、サブリナは意味ありげに視線を上げた。彼女の隣に立つ夫、ハロルドがわずかに顔をしかめる。しかし、彼の制止の動きをサブリナはまるで気にも留めていない。
「しかしこの書状はエルフ語で、『危急存亡の際、西のエルフの王ルーセリアスの名の下にレストリア王国を助ける。逆もまた然り。』と書かれているそう。酔っ払ったときに書いたのかも、とも言っていたわ」
社交界にいる者たちが息を呑む気配が伝わってくる。ざわめきは瞬く間に広がり、興味と好奇心に満ちた視線がアデルへと注がれる。
「これもまた……風の噂程度ですが。アデル様、おかわいそうに」
サブリナの声音は同情を装いながらも、含み笑いを滲ませていた。
「エリュシオン陛下はあなたを欺いていらっしゃる」
広間の空気が一瞬張り詰める。
「あなたは最初、陛下に『自身との婚姻関係が示されている』と聞いていたとか……しかしそれは、真っ赤な嘘。実際にこの書状を成立させたのは当時のエルフの王——エリュシオン陛下のお父君であらせられる、ルーセリアス様」
サブリナの唇が、勝ち誇ったようにわずかに上がる。
エリュシオンが祖父のアーチボルトと同盟を組み戦争をしていたのではなく、その父が戦っていた。
「こんな書状を使って、あなたはエリュシオンを脅していたのかしら? それとも、西のエルフの王が私を騙したのかしら?」
彼女はあくまで優雅な態度を崩さず、観客の目を楽しませるように緩やかに指先で書状をなぞった。
その仕草は、もはや一つの演劇のようだった。
彼女の周囲には、すでに無数の視線が集まっている。まるで月明かりの下、スポットライトを浴びる女優のように、サブリナはその瞬間を存分に楽しんでいた。
サブリナの演説は雑だった。だが、社交界とはより面白い話を真実として扱うもの。内容の正確さなど関係ない。ただ、人々が何を信じたいか、それが全てなのだ。
「あぁ! なんて。可哀想なアデル女王」
またざわめきが広がる。抑えきれない好奇心と、面白がる気持ちが空間を満たしていた。
この瞬間、エリュシオンが何を語ろうとも、この場の空気はサブリナの言葉に傾き始めていた。彼女の毒のある甘い言葉は、確かに彼らの興味を引いたのだ。
エリュシオンは唇を引き結び、静かに言った。
「……アデル。私は——」
言わなければならない。
自分がアデルを騙していた。 最初から。
しかし、それでも彼女を愛してしまった。
だからこそ、この場で真実を語らなければならない。
エリュシオンが言葉を紡ごうとした瞬間——
「まあ、そんなこととっくの昔に知っていてよ」
アデルの声が響いた。
一瞬、時間が止まったかのような静寂。
驚きが場を包む。
サブリナが一瞬言葉を失い、エリュシオンさえも目を見開く。
「……知って、いたのか?」
エリュシオンはかすれた声で問いかけた。
「ええ。だって、あなた、嘘をつくとき、いつも左の口角がわずかに下がるのよ」
そんな癖が自分にはあったか、と疑問に思いながらもエリュシオンは沈黙するしかなかった。
「でもね、そんなこともう関係ないの」
アデルは扇子をゆっくりと閉じ、ゆるやかに微笑みながらエリュシオンの腕を取る。その仕草は優雅でありながら、どこか挑戦的だった。
「私たちは両思いですもの」
社交界の空気が張り詰めた。一瞬の静寂が訪れ、次の瞬間にはざわめきが広がる。驚愕と戸惑い、そして興味が入り混じった波が会場を包んだ。
「ねぇ、エリュシオン?」
アデルが穏やかに目配せする。その瞳には確かな自信と、彼女らしい誇りが宿っていた。
エリュシオンは一瞬の間をおいてから——
「もちろん」
そう答え、幸福に満ちた微笑みを浮かべる。その表情には何の迷いもなかった。
瞬間。
会場が祝福の声に包まれた。拍手と歓声。高揚した声が夜会場の天井へと弾けるように響き渡る。
貴族たちはこの結末を歓迎した。
なぜなら、彼らはアデルが中継ぎの女王であることを知っていたからだ。彼女はいずれ王座を降りる。しかし、それまでの間、彼らはこの美しくも劇的な物語を存分に楽しむことができる。まるで舞台の幕が下りる前の最高潮の場面を目の当たりにしているようだった。
サブリナは、その光景を唖然と見つめていた。
「そんな……」
今度は彼女の番だった。立場が逆転するとは思わなかった。彼女の計算では、アデルは狼狽し、エリュシオンは釈明を始めるはずだった。
王に対しての無礼。だがアデルを貶めることができればそれでもよかった。そして彼女の言葉は社交界の空気を完全に支配する——はずだった。
しかし、目の前の二人は堂々とし、誇らしげにすら見える。
まるでこの結末こそが最初から決まっていたかのように。
「……嘘よ……そんなはず、ない……」
サブリナの声は、誰にも届かなかった。歓声にかき消されるようにして、彼女の敗北は静かに決定づけられた。
夜会の喧騒の中で、アデルとエリュシオンはただ互いを見つめ合っていた。彼らにとって、この騒ぎなど、取るに足らないものなのかもしれない。
□
夜会の熱気から遠ざかる。 アデルは来たときとは別で、エルフの、エリュシオンの馬車で帝都の宿まで帰った。
馬車の中は、静寂とともに揺れるランタンの灯りだけが揺らめいていた。 カーテンの隙間からわずかに見える帝都の夜景は、月の光を受けてひっそりと輝いている。
「……ふふ、」
「っ、く、」
馬車に乗り、しばらく経ったあと、アデルとエリュシオンの体は小刻みに震えた。 まるで空気の張り詰めた重要な会議のときに、見てはいけないものを見てしまった時のように。
「——茶番。」
アデルは一瞬、真面目な顔でそう呟いた。
「く、はは、っやめてくれ」
エリュシオンは堪えきれず、肩を震わせながら笑い出した。 それにつられるように、アデルの唇も震え、やがて声を立てて笑い出す。 二人ともたいそう愉快そうに、王や女王という仮面をかなぐり捨てて笑っていた。
「アデル、謝ろうと思うんだけど、」
「いいわ。許す」
「まだ謝ってない、っく、だめだよ」
「謝らないで。いや。あとでひと通り話を聞いて、ケジメとして謝ってもらうか決めるわ」
アデルは腕を組み、気取った様子で顎を上げた。 エリュシオンは微笑みながら、その仕草を目に焼き付けるように見つめた。
「話はすべてが終わってから聞くわ」
「そうか……ちなみにあの書状のこと、知ってたの?」
エリュシオンがふと問いかけると、アデルは少し驚いたように瞬きをし、それから愉快そうに扇子を広げて口元を隠した。
「書状? 知らなかったに決まってるじゃない」
「え? でも」
「——あんなのハッタリよ、ハッタリ。あそこで言葉をつまらせたら負け」
エリュシオンは目を瞬かせ、やがて再び笑いを堪えるように口元を押さえた。
「一度はエルフ語のわかる人を見つけて、あの書状を訳してもらおうと考えたこともあったわ」
エリュシオンは静かに聞いていた。 アデルの声はどこか遠い思い出を辿るように、夜の馬車の揺れに乗って穏やかに響く。
「でも、やめた。私、ふたつのこと同時並行するの苦手なのよね」
アデルはくすりと笑い、夜の闇を背景にした彼女の横顔が、月光を受けて幻想的に浮かび上がる。
「そこはアーチボルトに似たのだな。僕を好きになってくれたわけではなく?」
エリュシオンが肩をすくめると、アデルは瞳を細めた。
「それは後付けの理由。ただ、自分の直感を信じたの。あぁこれはおそらく悪い話じゃないってね」
彼女の言葉に、エリュシオンは微笑んだ。
夜の静寂が二人を包む。 揺れるランタンの明かりが、馬車の中でゆらゆらと影を描き出す。
そこからは穏やかなものだった。
二人はお互いの気持ちを隠すのをやめて、夜の優しい揺らぎの中に身を委ねた。
馬車の進む音が静かに響き、帝都の夜は、まるで二人だけの世界のように静かだった。
「……ちなみにエリュシオン」
「なんだい?」
「あなたいくつなの?」
「え、230歳だけど」
「え」
「え?」
帝都の夜は、驚く声すらも飲み干していく。