第8話 きっと君は知らない
エルフは執念深い生き物だ。
西のエルフの王として、エリュシオンが一番理解している性質だ。
しかし、自分自身に焦点を向けるならば、そんな性質は母体に置き忘れたかのように希薄だった。
他者と関わることなどほとんどなく、彼らに対する認識もただの色や形の違いに過ぎなかった。「この人間は黒髪」「あちらは金髪……いや、銀か?」といったように。
肌の色に興味を持つこともなかったし、物事に執着することもない。
長い間を生きるというのに、一つのことに執着していてはままならないのでは? という考えは次第に、「長く生きる者が、ひとつのことに囚われるなど愚かしい」という考えに変容していた。
そう考えていたはずだった。
王であるエリュシオンは、エルフの執着心という性質を、時に冷ややかに見下ろし、蔑ろにすらしていた。
——それが、いま、自分の身に起こるまでは。
女王という肩書きに押しつぶされそうになりながらも、森で大粒の涙を流しながら花冠を作っていた人の子である彼女を見た、そのときから。
皮肉なことに、彼は今まさに、執着にも似た激情に振り回されている。
アデル・レストリアという女に。
手首の内側。薄い皮膚。
エリュシオンの指が、彼女の赤くなった肌をなぞる。たったそれだけで、目の前の華奢な肩がかすかに揺れた。
「エリュシオン……?」
自分はいま、どんな顔をしているだろうか。
彼女に名前を呼ばれるだけで、暖かい気持ちになるのに。
それと同時に、ほの暗い衝動が自身を駆り立てる。
名を呼ばれただけで、胸の奥に熱が生まれる。彼女は知っているのか?彼がどれほどの時間、この声を求め、目を追い、触れたいと願っていたのかを。
呼吸が近い。
「僕の愛し仔」
アデルは、エリュシオンの手を振り払おうとした。しかし、彼がそれを許さない。
そのまま、彼女を壁へと追い詰める。
「赦しがほしい」
細められた琥珀の瞳が、彼の表情を探るように見上げる。その動きが、余計に彼の欲を煽った。
エリュシオンは、指先でアデルの顎をそっとすくい上げる。長い睫毛が伏せられる。
「……っ」
息を吸う暇もなく、彼は彼女の唇を奪った。
——甘い。
薄く色づいた柔らかな唇が、熱を帯びて絡みつく。触れるだけのキスではない。
彼女が息をつく間も与えず、唇を押し開き、深く沈める。啜るように、絡めとるように、彼女の息ごと奪い去るように。
アデルの指が、エリュシオンの衣の袖を掴んだ。逃げようとする仕草。しかし、エリュシオンは逃がさない。
さらに深く、求めるように。舌が触れ合い、溶けるような熱が喉の奥に落ちていく。
「……ん、ぁ……」
囁くような、抗うような声。その声すらも、エリュシオンは飲み込んだ。
「アデル……」
唇が離れた瞬間、アデルは荒い息を吐く。琥珀色の瞳が、かすかに潤んでいた。
けれど、その表情には、幸福と困惑の色が混ざっている。
「少し、乱れてしまったね」
エリュシオンは、満足げに彼女の唇の端を指で拭った。そこには、鮮やかな紅が滲んでいる。
アデルは乱れた呼吸を整えながら、手でそっと口元を隠すと、静かに呟いた。
「エリュシオン」
「……なんだい」
「エリュシオンは、怖いの?」
ふいに告げられた、幼なげな言葉にエリュシオンは驚く。
これなら罵声を浴びせかけられた方がまだマシだ。
エリュシオンは目をそらした。
彼女の言葉が、まるで鋭い刃のように胸の奥を刺す。冷静を装いながらも、心の奥でじくじくと燻る感情があった。
「……怖い? そんなことはないさ」
薄く笑いながら答えたが、その指先がわずかに震えていた。アデルには、それがはっきりと見えていた。
「あなたを許せるのは私だけ?」
「……——君は、本当に。意地が悪い」
まるでエリュシオンの心の奥底を覗き込むように、核心を突いてくる。
許せる? そんな話ではない。
許すかどうかではなく、許されたいのは自分の方なのに。
エリュシオンは唇を噛み、低く呟いた。
「さっきの男が、君の手を握っていたな。……婚約破棄をした、ある意味で幸運な男」
アデルは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに「ああ」と思い出したように頷いた。
「ええ、握られてたわね。ハロルドのこと知っていたんだ」
あまりにもあっさりと認めるものだから、エリュシオンの眉がピクリと動いた。
「アデル、あの時、まんざらでもない顔をしていただろう?」
「は? そんなことないわよ」
「いや、あった」
「ないってば」
「あったんだ」
「……しつこいわね!」
アデルが扇子でエリュシオンの肩をパシッと叩く。しかしエリュシオンは怯まない。
「ジェレミーにも、笑いかけていただろう?」
「えっ、笑っちゃだめなの?」
「……僕の前でだけで笑って」
「えぇ? ちょっと待って、なにその最難関クエストみたいな」
冒険者やってた? とでも言いたげにアデルは思わず口をあんぐりと開ける。この男は一体何を言い出すのか、と。
エリュシオンは、薄く微笑んだ。だが、その目の奥にはどこか影が差していた。
燭台の揺れる明かりが、その横顔を淡く照らし出す。
「……僕は、」
彼は一瞬言葉を切る。そして、苦しげに吐き出すように続けた。
「君に、嘘をついている」
懺悔のような響きを持つその言葉に、アデルは思わず目を瞬かせる。
彼の声は静かだったが、その低い響きが心の奥にじわりと染み入るようだった。
「嘘?」
彼女の素直な反応に、エリュシオンは視線を落とす。かすかに苦笑しながら、彼は指先を自身の唇へと這わせた。
アデルの紅の名残を拭った唇。彼女の温もりが、まだそこに残っている気がする。不確かな余韻にすがるように、彼の指先はほんのわずかに震えた。
「それはまだ言えない。ただ……僕は、怖いんだよ」
低く、押し殺した声だった。
「君が、誰かの手を取るのも。誰かのために笑うのも。誰かと共に生きていくのも——」
言葉が喉に詰まり、彼は静かに息を吐く。
「……怖くて、たまらない」
エリュシオンの瞳は、夜の闇を湛えていた。その奥で揺れるのは、怒りでも憎しみでもない。ただひたすらに純粋な、どうしようもない不安と焦燥。
アデルは、その言葉を静かに受け止めた。琥珀色の瞳が、まるで秘密を暴くように彼を見つめる。その眼差しは揺るぎない。まるで彼の心の奥底に、まっすぐ光を差し込むようだった。
そして、ぽつりと呟く。
「なんだ、そんなこと」
「……そんなこと?」
エリュシオンの声が、少しだけ鋭くなる。まるで、彼の告白を軽く受け流されたような気がして。
しかし——
「だって、エリュシオンってば、たまにすっごい顔して睨んでくるから、もうとっくに気づいてたもの」
アデルはケロリと言ってのけた。
彼はずっと、自分の中の嫉妬を隠してきたつもりだった。
決して口には出さず、気づかれぬように押し殺してきたはずなのに。
まるで見透かしたような彼女の言葉が、心の奥を軽く突いてくる。
「……」
エリュシオンは言葉を失う。
「ほら、また睨んでる」
アデルはニヤリと笑い、扇子を閉じると、すっと彼の胸元に押し付けた。
「そんな怖い顔しなくても、私はどこにも行かないわよ」
エリュシオンの心臓が、一瞬だけ跳ねる。
「だからね——」
アデルは彼の襟元を引っ張り、そっと囁く。
「安心しなさい、嫉妬深い王様?」
彼の耳元に落ちる甘やかな声。まるで囁くような魔法の呪文のように、エリュシオンの心を縛りつける。
彼は、しばらく彼女を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「ハハ、敵わないな……夜会に戻らなくては」
そう呟くエリュシオンの声は、どこか掠れていた。
彼女の指先が離れ、微かな香りとともに名残惜しげな温もりが消えていく。
「そうこなくっちゃ」
アデルは手早く口紅を直すと、夜会の会場へと歩を進めた。彼女の歩みは優雅で、揺れるドレスの裾が光を反射しながら揺らめいていた。
その背に、エリュシオンは低く囁く。
人生を賭けた大きな嘘に、君が気づくとき。
きっと、もう——人間には戻れない。
それでも君は、僕を赦してくれるだろうか。
冷えた空気が、彼の頬を撫でた。音楽と笑い声に満ちた華やかな夜会の向こうに、彼の世界は静かに揺らぎ続けていた。