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第7話 魔窟




夜会も更けてきた。華やかな音楽と人々のざわめきの中で、アデルはふと、数年前の夜を思い出していた。当時と同じように挨拶回りを——そう思っていたが、エリュシオンと共にいるだけで自然と人が寄ってくる。


「エリュシオン様、あぁ、なんと神々しい……!」

「西方にある貴国では、どのようなものが流行っているのですか?」

「陛下におかれましては——……」


まるで太陽の周りに集まる向日葵のように、人々は彼に視線を向け、言葉を捧げる。

エリュシオンは、エルフの中でも物腰が柔らかい部類に入ると聞いていた。確かに、高飛車な態度もなければ、人間を見下すような素振りもない。それどころか、ひとたび穏やかに微笑めば、周囲の者たちはまるで陽だまりに包まれたように、恍惚とした表情になる。


「……エリュシオン、少し外すわね」


アデルは扇子を広げ、そっと囁くように言った。エリュシオンは、微かに瞳を細めながら、彼女の仕草を見つめる。


「わかった。長くは待たせないでくれよ」


甘やかな声音。その言葉は、決して他意のないもののはずなのに、どこか名残惜しさが滲んでいた。アデル「えぇ」と微笑みを返しながら、静かに踵を返した。




窓から見える景色は素晴らしかった。この館が丘の上に建っているのか、帝都の輝かんばかりの街並みが一望できる。無数の灯が宝石のように煌めき、まるで夜空の星々が地上に降り注いだかのようだ。


「……あとでバルコニーに出てみようかしら」


ぼんやりとそう思いながら、手にしたグラスを傾け、スパークリングワインを口に含む。冷えた液体が喉を滑り落ち、微かに甘く、ほろ苦い余韻を残す。

——そのときだった。


「……アデル?」


聞き覚えのある声が、ふいに耳を打つ。

一瞬、思考が止まった。この数年間、一度も耳にすることのなかった声。忘れていたわけではない。ただ、意識の底へ沈めていた。

ゆったりと振り向く。


そこに立っていたのは、ウィルザード王国第二王子——かつての婚約者、ハロルド・ウィルザードだった。

淡い金髪、整った顔立ち。端正な白の礼服に身を包んだその姿は、昔と変わらぬ優雅さを保っていた。だが、その瞳の色だけは違う。

驚き、動揺、そして——わずかな後悔が滲むような、複雑な色をしていた。


アデルは、何も言わなかった。ただ、ゆるやかに扇子を動かしながら、静かに彼を見つめる。

夜会のざわめきは遠のき、二人の間にだけ、異質な静寂が落ちる。

ハロルドの口元が、一瞬、かすかに震えた。けれど、彼はすぐに表情を整え、ひとつ息を吐くと、もう一度、アデルの名を呼んだ。


「……久しぶりだね」


それは、まるで失われた時間を取り戻そうとするかのような声音だった。

アデルは目を細める。金色のシャンデリアの光が、彼女の瞳に複雑な陰影を落とす。ハロルドの顔を映しながら、彼女はふと呟いた。


「……よかった」


静かな声に滲むのは、感情の色を悟らせない淡さ。一瞬だけ落ちる、幼なげな一言。

だが、その言葉に込められた意味を測りかねたのか、ハロルドは一歩近づこうとした——


「開口一番が謝罪でしたら、この扇子でぶっていましたわ」


優雅に広げられた扇子が、ゆるりと空をなぞる。そして、ふふっと零れた笑み。

けれど、それは昔のような陽だまりの笑顔ではなかった。毒を含んだ美しい果実のように、艶やかで、甘く、そして冷たい微笑みだった。


ハロルドは息を呑む。

それでも、彼は目を逸らさなかった。まるで、過去に手を伸ばすように——あるいは、過去に囚われたままの男の未練のように。


「触れるな、無礼者」


冷えた刃のような声音が、静かに、けれど鋭く響いた。


「私はアデル・レストリア」


彼女は扇子をすっと閉じ、まるで王笏を掲げるように胸元へ添える。背筋を伸ばし、夜会の光を受けた紅のドレスが、まるで鮮血のように揺れた。


「この会議に名を連ねる、女王の一人よ」


その場の空気が張り詰める。

アデルとハロルドにしか聞こえないぐらいの声量。彼女の配慮だ。周囲の貴族たちの囁きが遠のき、まるで世界が一瞬、彼女の言葉に支配されたかのようだった。


ハロルドの瞳がわずかに揺れる。彼の知るアデルは、こんな表情をする女ではなかった。かつての彼女は、温かく、優しく、どこか隙のある娘だったはずだ。だが今、目の前に立つ彼女は——まるで玉座に座す女王そのものだった。


「……なんてね」


ふっと、アデルは肩をすくめた。先ほどまでの威圧感が嘘のように霧散する。柔らかく微笑みながら、ハロルドを覗き込むように言った。


「ハロルド殿下。サブリナ嬢はお元気?」


流れるような口調で、彼の()の名を口にする。

ハロルドの眉がわずかに動く。


「サ、ブリナ……? あ、あぁ、元気だ」


彼の返答はどこかぎこちない。アデルの微笑みは変わらぬまま、けれど瞳の奥には、何か別の光が宿っていた。


「今回、サブリナ嬢からお手紙が届いたの」

「手紙……!?」


一国の女王、しかも元婚約者になんてことを、とハロルドは息を呑んだ。

だが当の本人はここにはいない。どこにいるんだ、と彼は内心愚痴る。


「伝えたかったのはそれだけよ、それでは」


アデルは優雅にその場を去ろうとする。しかし、次の瞬間——


「待ってくれ」


ハロルドがとっさに彼女の手首を掴んだ。力強く、まるで過去を引き止めるかのように。


「離してくださいません?」


アデルは静かに言ったが、ハロルドは手を離さない。


「君が、その、まだ独り身だと聞いた」


アデルの眉がぴくりと動く。だんだんと声が大きくなる。会場は広い。窓際にいるとはいえ、周囲の人間が気づき始め、数人がコソコソとこちらを見聞きしている。


「あのときの過ちを許してくれとは言わない。だがもし、君に僕を思う心があるのなら……!」


ハロルドの言葉が一人歩きをする。役者のようだ。そういえば昔からこんな人だった、と眉根を寄せながらうんざりしたようにアデルは思い返した。

彼の手を振り払う。


「——まさかとは思いますが」


アデルは静かに微笑んだ。だが、その微笑みは凍るように冷たかった。


「私が、あなたの妻の予備(スペア)だとでも?」


ハロルドが息を呑む。

スペア——第二王子の彼が、一番囚われてきた言葉。アデルは扇子を開き、軽く肩をすくめる。


「妻としてサブリナを選んだのはあなた。私はあなたの人生の()()()ではないの。過去は振り返るものではなく、教訓として学ぶものよ。学びがないのなら、あなたの国の未来も知れたものね」


乾いた笑みを零し、アデルは踵を返す。

これぐらいの言葉で国際問題には発展しないだろう。

宰相あたりには「燃えかすを燃やしてどうするんですか」と小言を言われそうだが。

いまの会話で火をつけたのは彼だ。


「では、お元気で」


そのまま迷いなく歩き去る。彼女の後ろ姿は、未来を見据える女王そのものだった。




廊下へと出る。会場の熱気を帯びた体を冷やすように、夜の空気が肌を撫でた。紅を灯す燭台が並ぶ長い廊下。絨毯に沈む足音は、彼女以外の誰のものでもない。


元婚約者との邂逅——。

それは、予想していたよりもずっと些細で、ずっと無意味だった。


学園にいたころ、「もし自分が婚約者に振られて、その婚約者と自分じゃない女性に数年後の夜会で会ったらどうする?」そんな質問を受けたことがある。

いやに具体的な問いだった。だが、下世話な話も、噂も、胸をときめかせるような恋の話も——学園の限られた友人の間でしかできなかった。


そのときの私は、なんて答えたんだっけ。

アデルは記憶を辿る。たしか、「もしかしたら泣いてしまうかもね」そう答えたはずだった。

——今なら、笑い話にもならない。

アデルは小さく息を吐く。

胸元でそっと広げた扇子を動かしながら、左手首を見下ろした。指の跡が、薄紅の痕を残している。


「あの男。私の柔肌に跡をつけるなんて」


まったく、下品な話だ。

しかし、彼女は本来、泣き寝入りするタイプではなかった。役職が人を作る、と言うべきか。女王という立場は、彼女を鍛え上げた。執務、外交、社交界——それらを乗り越え、彼女は、かの英雄ですら顔をしかめるほどのたくましさを身につけていた。

そして、それをよく知る者が、一人。


「本当だ。誰につけられたの——?」


煉獄から姿を現したような、低い声。毒のような、甘い声。耳に絡みつく、馴染みのある声。

けれど、それは、穏やかで優しいだけの声ではなかった。

アデルは、名を呼ぼうとする。

——だが、その前に。

ひやりとした指が、そっと彼女の手首をなぞった。まるで、痕をなぞるように。

彼の瞳が、暗い夜のように静かに揺れる。


「エリュシオン……?」


彼は、ただ静かに微笑んだ。




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