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第6話 魔窟




社交界は、ある種の魔窟だ。自身の財を芸術品として昇華する、悪魔すらも皮肉る修羅の場。どんなに美しく着飾っていても、一皮剥けばそこにあるのは毒そのもの。甘い香りを纏った煮詰めた原液が、至るところで滴り落ちている。


そんな場に足を踏み入れる者は、皆それを理解しているはずだった。それでもなお、舞踏を踊る。毒を口に含み、微笑む。己の価値を示すために。己の誇りを守るために。


「女王陛下」


名を呼ばれ、アデルはそっと振り返った。控えめな仕草ではあるが、その首筋の動きすらも優雅だ。


今夜の彼女はまるで、舞台の上に立つ女王そのものであった。

纏うドレスは、気高く、見る者を魅了するような深紅のベルベット。胸元から流れるように広がる布地には、シャンパンゴールドの細やかな刺繍が施され、まるで夜空に瞬く星々を散りばめたかのように煌めいていた。スカートの裾には特殊な紋様が織り込まれ、光の加減で魔法のように模様が浮かび上がる。それはエルフの秘技によって織られた特別な布で、彼女の一歩ごとに柔らかく揺れ、神秘的な輝きを放つ。


肩を覆うケープは淡い金糸で縁取られ、まるで霧がかった森の朝露のような繊細な透明感を持つ生地で作られている。

それを止めるブローチには、深碧の宝石——森の奥深くにのみ存在する「エルドライト」が嵌め込まれていた。

宝石の内部には、まるで風がそよぐような幻想的な輝きが揺れ、アデルが動くたびに幽かに光を放つ。


「ジェレミー……どうしたの?」


彼女の問いに、ジェレミーは眉間に皺を寄せる。どこか眩しいものを見るかのように。人の機微のわかる男だ。さすがに「化けたな」とは軽々しく口にできなかった。そのかわりに年上のお兄さんぶって振る舞うのだ。


「どうしたもこうしたもないですよ。いいですか。サブリナ様に喧嘩を売られても、いなしてください」

「まぁ……それは向こう次第ね」

「あぁもう、アデル様……!」


深いため息が零れる。忠告しても無駄だとわかっているのに、それでも言わずにはいられない。彼は女王のしでかすことが大好きだが、同時に心配もしていた。それにレストリアにいる宰相から「とにかく忠告だけはしといてくださいね」と笑っていない目で言われている。所詮、中間管理職か調整役のようなものだ。

ただし彼は「責任」という言葉を名詞か何かだと思っているので、女王が何かやらかしたら最前線で面白がるタイプである。アデルも重々わかっていた。


「手紙のこと、知ってたのね」


アデルがふと微笑み、彼の表情を探るように見つめた。その瞳の奥に、どこか試すような色が滲む。「そういうとこだよ」という相の手を入れそうになるのを口を閉じてやり過ごす。


「……リンデルが俺に言わないわけないでしょう」

「それもそうね」


アデルが手のひらを軽く見せるようにして笑う。夜の灯りに照らされた彼女の指先は、繊細な彫刻のようだった。


アクセサリーもまた、エルフの職人が手がけたものだった。耳元で揺れるイヤリングは、繊細な蔦が絡み合うようなデザインで、そこに雫のように小さなクリスタルが輝く。首元には、薄く編まれた金のチェーンに、月の涙と呼ばれる淡く白い石がひと粒。その儚げな光が彼女の白い肌をより一層際立たせていた。


メイクは派手ではなく、むしろ控えめながらも洗練されている。唇には、熟れた果実を思わせる深紅の色がひと塗りされ、彼女の凛とした雰囲気を引き立てていた。瞳の周りには、ごく薄く金砂を散らしたようなアイシャドウが施され、琥珀色の瞳に神秘的な奥行きを与える。長い睫毛がそっと影を落とし、彼女が瞬くたびにその視線は優雅な余韻を残す。


この装いの全てが、エルフのパートナーから贈られたもの。彼らの美意識と技術の結晶であり、まるで「この世界において彼女こそが唯一無二の存在である」と主張するかのようだった。

そして、そんな姿を目にしながら——


「あぁもう、調子狂うな」


ジェレミーが苛立ったように、ぼそりと呟いた。

彼はアデルの姿を見慣れているはずだった。だが今夜の彼女は、まるで別世界の存在のようで、視界に入れるだけで妙に落ち着かない。

普段の庶民じみた笑顔が嘘のように。

それがドレスのせいなのか、彼女の纏う空気のせいなのか。あるいは、その背後に「誰か」の影を感じるせいなのか——


「そういえば、ハロルド様のこと……エリュシオン様には言ってるんですか?」


ジェレミーの何気ない問いに、アデルは肩をすくめる。


「あー……さすがに、身分ある人間として、それは言ってないわ」

「まぁ、エリュシオン様なら調べてそうですけどね」

「どうかしら。彼、人間の顔を覚えるのが苦手って言っていたし」

「そりゃあ……あなた以外の人間に興味ないでしょうよ」


ジェレミーが皮肉げに言うと、アデルはくすくすと微笑む。


「面白いことを言うのね」


そんなことないわよ、と軽く流す仕草はあまりにも自然で——。それがかえって、ジェレミーに確信を抱かせる。

あ、この人、気づいてないな。

まるで、不出来な妹を見るような目をして、彼は内心で溜息をついた。

これではいつ食われても文句は言えまい。カレンダーに書き込んでカウンドダウンでもしようか。それか使用人だけで賭けをするのもいいだろう。バレたら首が物理的に飛ぶであろうスリルつきだ。


「それに、もう三年も前のことだけれど。当時のウィルザード王国伯爵家のご令嬢に——婚約者の第二王子を()()()()()女王の話なんて——」


急に語り出したアデルにジェレミーがギョッとする。こんなに驚かされたのは久しぶりのことだった。


「ちょっと、仮にも女王がそんな言葉! それに、その言葉どこで覚えてきたんです……!」

「仮にもって」


ジェレミーが苦虫を噛み潰したような顔をすると、アデルはくすっと笑う。

少し前まで「寝る」の意味すらわからなかった女王が、と頭を抱える。

彼は知らない。アデル自身はあまり詳しくないが、社交界では寝取るだか寝取られるだか、浮気だとか、不倫だとか、案外庶民が楽しむのと同じく、醜聞や下品な話が絶えないことを。さすがに何年も聞いてれば大抵の意味は把握できるものだ。


「正式な女王よ、中継ぎだけれど」


彼女は静かに言葉を紡ぐ。けれど、次の瞬間——


「アデル」


たった一言。

彼女の名を呼ぶだけで、空気が変わる。低く、甘く、優しい声音。それだけなのに、体の芯を熱くさせるほどの情熱が滲んでいた。

その声の持ち主が近づく。

気づけば、エリュシオンがすぐ目の前にいた。

アデルの手を取り、その指先に恭しく唇を寄せる。触れるか触れないかの口づけ。けれど、その仕草にはどんな詩よりも雄弁な想いが宿っていた。


絵になるような光景を目の当たりにして、感動するなんて胡散臭い言葉よりも、ジェレミーは頭の中で「気の毒に」という言葉が最初に浮かんだ。

それは主人であるアデルに向けられた言葉でもあるし、これからこの二人を見る夜会の参加者へと向けられた言葉でもあった。




その日の夜会は、アデルとエリュシオン——この二人の独壇場であった。


きらびやかなシャンデリアが天井から揺らめき、金と銀の装飾が燦然と輝く広間。貴族たちは優雅な笑みを湛えながらも、密かに視線を交わし、二人の様子を窺っていた。


「はて、あのような女性はいただろうか」「人間のようだが……エルフの国から来たのでは?」

密やかに聞こえてくる声のほとんどは、アデルに向けられたものだった。


「いやあれは確か、かの英雄、アーチボルト・レストリアの——」


無理もない。アデルの国は『英雄』の存在があるとはいえ、いわゆる弱小国家。歴代の王が抱える負債——善人を通り越してお人好しの末路といっても差し支えない。簡単に言うと、ギリギリ借金にならない程度に国政を回している状態である。

そんな、他の帝国や王国の大貴族よりも質素な暮らしをしている彼女が、今夜ばかりは違った。


深紅のベルベットドレス。流れるようなシルエットに、シャンパンゴールドの刺繍が夜空の星のように輝く。首元には細やかなレースが添えられ、手袋は肘まで覆う滑らかな絹。身に纏う宝石は華美すぎず、それでいて明らかに上質なものばかり——どれも人間の工房では作り得るには難しい、繊細な細工が施されていた。

そして、何よりも目を惹くのは、彼女の胸元で光るブローチ。

翡翠のような深い緑。だが、ただの宝石ではない。よく見れば、それはエルフの王族のみが持つことを許されたエルドライト宝石——別名「祝福の宝玉」だった。


それを見た者の一部の間に、さざめきが広がる。

エルフの文化に詳しい者であれば、気づくその象徴。

彼女の隣に立つのは、西のエルフ——人間から憧憬と畏怖を抱かれる種族の王。

彼の衣装は、アデルに合わせたかのような黒と金の礼服。漆黒の上質な布地に、月光のような金糸が織り込まれ、静謐な気品を放っていた。そして、彼が胸元に添えたブローチは、アデルのものと同じ。


「……対になる色だ」


誰かがそう呟く。

ブローチの石は、持つ者の魔力に応じて色を変えるという。つまり——


「まさか……彼女が」


驚きと戸惑い、そしてわずかな嫉妬が混じった視線を受けながら、アデルは何も知らぬ顔で微笑んだ。エリュシオンもまた、静かに微笑を深める。

その様子は、まるで誓約を交わした者たちのように、あまりにも自然で——美しかった。


夜会の最中、二人の様子を一部始終を観察していたある大貴族の女は夜に問う。

かわいそうな子。祝福された子。

彼女は気づいているのかしら——と。

ブローチの意味も。西のエルフの王の腹の中も。




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