第5話 入国と決意
シャール帝国、帝都エッファブルクに到着したのは夜だった。
数日間に及ぶ長い馬車の旅を経て、アデルたちレストリア王国一行はようやく帝都の門をくぐることができた。
エッファブルクの夜景は、まばゆいばかりの華やかさを誇っていた。
石畳の街道の両脇には壮麗な建物が立ち並び、その壁面を照らす無数の灯りが、まるで星々が地上に降りてきたかのように輝いている。空には帝国独自の魔導灯が浮かび、幻想的な光を放ちながら夜空を彩っていた。
そんな煌びやかな街並みの中、アデルたちの馬車はひっそりと進んでいた。
他国の貴賓が使うにはあまりにも質素な作りの馬車だった。装飾は最小限に抑えられ、木目が目立つ簡素な外装に、かろうじてレストリア王国の紋章が小さく刻まれているのみ。カーテンも薄手の布で、外からの視線を完全に遮るには心許ない。
御者が操る馬も、帝国の貴族が用いるような血統書付きの名馬ではなく、長旅に耐えることだけを優先した地味な馬だった。
「……やっぱり、目立たなくて正解ね」
アデルはカーテンの隙間から外の景色を眺め、ほっと息をついた。
これが今のレストリア王国の現状を象徴しているようで、苦笑せざるを得なかったが、それでもよかった。
それに対し、エリュシオンたちエルフの一行は、圧倒的な存在感を放っていた。
「わぁ……!」という歓声があがる。
彼らはアデルたちとは別の馬車で帝都入りしたが、その姿は否応なく人々の目を引きつけた。
エルフの馬車は、まるで森から抜け出してきたかのような優雅な造りだった。流麗な木彫りの装飾が施され、翡翠色のカーテンが柔らかくたなびく。
その光景は、異国からの賓客というよりも、神話から降り立った幻想の存在のようだった。
そして、彼らが馬車から降り立ち馬に乗ると、人々のざわめきが一層大きくなった。
「なんと美しい……!」
「まるで神話に出てくる光の使徒のようだ……」
そんな囁きがあちこちから聞こえてくる。
エリュシオンのプラチナブロンドの長髪は、月光を受けて淡く光を帯びていた。
その衣装は繊細な刺繍が施された純白の長衣で、袖口には青白い光を放つ魔導石が散りばめられている。肩には薄く透き通る布がかかり、それが夜風に揺れるたびに光を反射して虹のように輝いていた。
彼の配下の二人もまた、それぞれ異なる魅力を放っていた。
一人は漆黒の装束に身を包み、鋭い眼差しをたたえており、まるで月夜の狩人のような雰囲気を醸し出していた。
もう一人は薄青色の衣装に金の刺繍を施した優雅な服を纏い、静かな笑みを浮かべながら周囲の様子を観察していた。
エッファブルクの民たちは、エルフたちの美しさに目を奪われ、彼らが通るたびに道を開けていた。
「まるで夢を見ているみたいな光景……!」
アデルの向かいに座るメリッサがカーテンの隙間から外を覗き、うっとりとした声を漏らす。
「目を覚ましなさい、メリッサ。はしたないですよ。私たちは女王様の影。身を乗り出さないでちょうだいな」
クレアが冷静に彼女の肩を叩いたが、ここ最近で見慣れているはずのエルフたちの登場に本人もどこか感心しているようだった。
本来、彼女の味方であるべき侍女や使用人までもが、目を輝かせて彼らを見つめているのだ。
やはりあのエルフの、人をたらし込む才能には目を見張るものがある。アデルは密かにおざなりな拍手を送りたい気分だった。
「……由々しき事態ね。アレの隣に並ぶのか」
ぼそりと呟くと、唇の端にかすかな笑みが浮かぶ。
そう。彼女はエッファブルクの夜会で、かのエルフの王の隣に並ばなければならない。
「クレア、メリッサ」
アデルの一声に、二人の視線がこちらを向く。
「準備をしてくれてありがとう。二人の知っての通り、私は社交界が苦手。でも化かし合いや腹の探り合いならある程度得意よ。今回は……サブリナ嬢の件もあるから目立たないように、と思っていたけれど」
自身を鼓舞するようにアデルは呟く。
「覚悟を決めたわ」
馬車の中は暗く、外の魔道灯の明かりがかすかに揺れている。
その光が、アデルの琥珀色の瞳を照らし、鋭く、そしてどこか楽しげに煌めかせた。
「エリュシオンの隣に立つ。今日でわかった。どう足掻いても目立つわ」
小窓の外にいるエリュシオンの姿を見つめながら、アデルは皮肉めいた笑みを浮かべる。
「ならば、相応の装いで挑みましょう」
アデルの言葉に、クレアとメリッサが静かに頷く。
「明日、私をうんと綺麗にしてくれる?」
こてん、と首を傾げる。
顎はひかれている。目は鋭く、どこか挑戦的だ。
その問いかけに、二人の表情が引き締まる。
「はい……もちろんです、女王陛下」
あなたの望むままに。
クレアが力強く言い、メリッサもまた満面の笑みを浮かべて深く頷いた。
アデルは微笑む。この戦いの舞台はすでに整った。
春先から夏の手前までは社交界のシーズンだ。
しかし今回は、数年に一度、同盟を結んでいる各国のトップ層や貴族が集まる重要なイベントがある。
そのため、昼は王や政を握る重鎮だけの会議や食事、お茶会を通して親睦を深め、夜は連日連夜のごとく華やかな夜会が開催される。
その間、帝都エッファブルクもまるで祭りのような賑わいを見せるのだった。
昼間の帝都は、会議を終えた貴族たちの馬車や従者の行き交う喧騒に包まれ、華やかな装飾が施された大通りには各国の旗が翻っていた。
街角には商人たちが店を構え、異国の品々を売りさばく。広場では楽団が演奏を奏で、踊り子たちが華麗な舞を披露し、人々の歓声が空へと昇っていく。
「アデル。見つけたよ」
ふと、聞き慣れた親しげな声が会議場外の回廊に響いた。
アデルが振り向くと、そこにはエリュシオンが立っていた。
その瞬間、回廊にいた貴族や使用人たちがざわめき、さりげなく耳を傾ける者もいる。
この調子ではすぐに使用人たちの間で噂が広まるだろう、とアデルは頭を抱えたくなる気持ちを抑えた。事前に話し合わなかったこちらの落ち度だ、と。
「エリュシオン」
アデルは静かに応じた。
エリュシオンはエルフとしての正装をしていた。とはいえ、格式ばった重厚な装いではなく、昼の会議ということもあって軽やかで洗練されたものだった。レストリアではあまり見たことのない服装で、森で動くためのような実用性のあった格好とは対照的だ。
白を基調とした薄手の外套が風に揺れ、彼の長いプラチナブロンドの髪が柔らかく光を受けて輝いている。
人間の貴族とは異なる、まるで自然の一部がそのまま形を成したかのような優雅さだった。
「……あぁ、綺麗だ」
彼は微笑みながら、心からの感嘆を漏らす。その声音には何の打算もなく、ただ純粋にアデルの姿を称えていた。
アデルは薄く眉をひそめながらも、わずかに肩をすくめる。彼の言葉はこれで何度目になるのか、もはや数えるのも無駄なほどだった。
「会議が終わったのなら、夜会の準備があるでしょう?」
「そうだけど、少しくらい君と話したくてね」
エリュシオンは悪びれた様子もなく言い、優雅に歩み寄る。
アデルの衣装は、会議に相応しい端正なデザインだった。派手さはなくとも、細やかな刺繍が施された深い青のドレスは知的で品格を感じさせる。裾や袖口にはさりげない銀糸の装飾が入り、琥珀色の瞳をより引き立てていた。
「貴族の格式を重んじた装いも似合うが……夜会ではどんな姿を見せてくれるのかな」
エリュシオンが楽しげに問いかけると、アデルの肩が小さく揺れる。
「っ、さあ、どうかしらね」
あなたから贈られた服を着ます、とは流石にこの場では言えない。
彼女は控えめな微笑みを浮かべながらも、彼の言葉に応えることなく、ただ静かに前を向いた。
「王よ」
「……イリオスか。ゼフィールも」
二人に控えめに話しかけたのは、エリュシオンの側近のうちの一人、イリオスであった。
彼は黒の装束に身を包み、鋭い眼差しを周囲に向けた。エルフにしては柔和な雰囲気はあまりなく、武人、と言われても遜色のない出立ちをしていた。
その後ろで優雅に微笑むのは、ザ・エルフ、といったもう一人の側近であるゼフィールだった。彼の衣装は精緻な刺繍が施された淡い金色のチュニックで、彼の軟派な気質を隠すような洗練された気品を漂わせている。
ゼフィールはエリュシオンに静かに耳打ちをする。
「そうか……」
側近の言葉に頷き、エリュシオンはアデルを見た。
真正面から見た久しぶりの深緑の色に、アデルの心はざわついた。
彼の瞳はどこまでも深く、沈黙した冬の森のように澄んでいるのに、そこに映る感情は決して単純ではない。
「残念だ、アデル」
「エリュシオン? っ……」
そっと、可憐で繊細な花を愛でるように、しなやかな指先がアデルの髪に触れる。まるで風がそっと梢を撫でるような優しい仕草だったが、そのわずかな温もりが彼女の全身を駆け巡る。
近づく距離。
エリュシオンの息遣いが触れそうなほどの近さ。
「夜会で会おう」
囁く声は、まるで魔法のようだった。耳に届いた瞬間、意識の奥深くに染み渡るような響き。ゆっくりと、言葉一つ一つを確かめるように吐き出される低い声が、甘く、掠れている。
「……迎えに行く」
耳元をくすぐる熱。
わずかに囁きを含んだ息遣いが、意図的なのか無意識なのか、アデルの肌を撫でた。それは夜の風よりも柔らかく、静寂よりも密やかで、どこか抗いがたい魅力を孕んでいた。
瞬間、全身が熱を帯びる。
「……っ!」
心臓の鼓動がうるさい。何事もなかったかのように振る舞うことが、これほど難しいとは。
エリュシオンがそっと離れる。
その余韻に囚われたまま、アデルは視線を落とした。彼が立ち去ると、ようやく周囲の人々が息を飲む気配が感じられる。だが誰も軽々しく口を開くことはできなかった。
「……」
震える指先を握りしめ、アデルは侍女や宰相に咎められない範囲で足早にその場を後にする。その瞳の奥に揺れるのは、まだ整理しきれない感情だった。
扉を閉じた瞬間、彼女は深く息を吐き出した。
このままではいけない、とうるさく主張する自身の心を落ち着けるが、エリュシオンの言葉が耳に焼き付いて離れない。
「夜会で。……迎えに行く」
琥珀色の瞳が揺れる。
アデルは鏡の前に立ち、己の顔を見つめた。
社交界のことだけを考えると、紅い頬は徐々に落ち着き、勇猛な顔つきになる。
——飲み込まれては、いけない。
アデルは自身の両頬をパチンッと軽く叩いた。
「よしっ」
彼女の琥珀色の瞳に、決意の光が宿る。
夜会は単なる社交の場ではない。 政と駆け引きの舞台。
そして、彼と再び向き合う場。
「私は……私のままでいる」
自分に言い聞かせるように呟いた後、アデルは背筋を伸ばし、侍女のクレアとメリッサを呼ぶ。
夜会に向け、女王としての準備を整えるために。