第4話 春の嵐
春が始まった。しかし、レストリアの夜は冷える。
昼間は陽射しが暖かく、雪解けの水が小川を作り、街の至るところで春の気配が感じられるというのに、日が沈めば、ひやりとした風が石畳の上を滑るように駆け抜ける。王城の回廊も例外ではなく、灯された燭台の明かりが揺れるたびに、壁や床に落ちる影が不規則に揺れていた。
「風邪をひくよ」
静寂を破るように、落ち着いた声が背後からかかる。
「エリュシオン」
その春の息吹のように優しい声色を、アデルは振り向かずともすぐに誰のものかを理解していた。
王城の外れにある小さなバルコニー。
冷えた石造りの欄干に両肘をつき、遠くの夜景を見つめていたアデルは、ふっと小さく息を吐く。
「……アデル。私がここに滞在していること、誰にも言ってないの?」
近づいてきたエリュシオンが隣に並び、少しだけ身を乗り出す。
月明かりに照らされた彼の横顔は、かの女神に愛された精霊のようでいて、しかし穏やかでありながらどこか悪戯めいた影を宿していた。
「当たり前でしょ」
アデルはあっけらかんとした口調で答える。
一国の王が他国に滞在しているというだけで、本来ならすぐに話題になってしまう。
その点、レストリアの内部事情などは世界情勢や列強諸国に首を突っ込めるほどのものではない。簡単に言えば平和ボケした弱小国家に世間の関心はないのだ。
ここ一年でレストリアが世界的なニュースになったことと言えば、レストリア産の馬が北方の有名な競馬で一位になったことぐらいだ。短距離だか長距離だかで優勝したらしく、競馬に明るくないアデルはとりあえず、ニンジンと「よく頑張りました」と書いた手紙を送った。
そしてかたやエルフ。
国の基盤が王の存在に強く依存する国ならば、王不在の間に内部が混乱し、他国からの干渉を受けることすらありうる。例えばそう、アデルの座すレストリアのように。
しかし、エルフの国は違う。彼らは人間の常識に囚われない存在だ。
王がいなくとも自治組織としての機能を失わず、慎重に物事を運ぶ。何より、彼らを敵に回してまで王の動向を探り、糾弾しようとする国など、ほとんど存在しない。
むしろ彼らの歴史と知性と長い寿命に畏敬の念を抱く者のほうが多い。
「言いふらしてくれていいのに」
エリュシオンは肩をすくめ、少し拗ねたような笑みを浮かべる。
その表情はまるで小さな意地悪をしたあとの子供のようだった。
「……あなたって、本当に変わってるわよね」
「そうかな」
「そうよ」
アデルは小さく呟くように言いながら、エリュシオンの横顔を盗み見る。
エルフの王は風に舞う金の髪をそっと指先で押さえながら、遠くの星空を眺めていた。
遠くで梟が低く鳴き、風が木々の間を抜けていく音がする。空は澄み渡り、月がまるで凍てついた銀の鏡のように輝いていた。
「君のことがずっと好きなだけなのに、」
夜気に揺れる彼の瞳は深い森のように澄んでいて、そこに浮かぶ微笑は、どこか遠い春の記憶を映しているようだった。
「……? え、」
「あ」
口走った、とでもいいたげにエリュシオンは口をバッと押さえた。その目元や頬はかすかに朱色を帯びている。
本当に自身の祖父と一緒に戦ったのかと疑いたくなるほど、まるで年相応の青年のような仕草だった。
アデルはそんな彼をまじまじと見つめた。
エリュシオンは普段、どこか余裕のある態度で、彼女をからかうように笑うことが多かった。しかし今、彼の指先はわずかに震えていて、目線もどこかぎこちない。
エリュシオンのその態度をアデルは揶揄えたらよかったのだが、初めて見る彼の余裕のなさそうな言動に「……、うん」と何も言えずに戸惑う。
「アデル」
なにを言えばいいのかわからない。
気づけばアデルは息を吐くこともできず、「スゥ……」という吸い込む音だけがこぼれ落ちた。
その様子を見て、エリュシオンは頬を緩める。夜風がそっと二人の間をすり抜け、金色の髪と栗色の髪を揺らした。
「もしかして、」
ふふふ、と楽しげな笑い声。
エリュシオンは至極嬉しそうに目を細めた。
「言わないで」
「……僕のこと、好きになってくれた?」
アデルは心の中で言い返す言葉は次々と浮かんできたが、それすらも恥ずかしさのあまり口に出せなかった。
彼女の色は首筋までほんのりと紅く染まり、髪の間からちらりと見える肌までが温かく感じられる。
「っ、知らない」
エリュシオンはそんな彼女の変化をじっと見つめ、満足げに微笑んだ。「まぁまぁ、」と言いながら向けるその微笑みは優しく、それでいてどこか得意げな色を含んでいた。
アデルはなんとか気づかないふりをして、意識を他のことに向けようと必死だった。
が、無駄だった。
バルコニーにいた二人に後ろから声がかかる。
「アデル様、そしてエリュシオン様」
「ジェレミーどうしたの」
アデルが振り向くと、控えめながらもしっかりとした足取りでジェレミーが近づいてきていた。月光が彼の背に長い影を落とす。
「また邪魔が入ったな」とエリュシオンは思ったが、「まぁいいか」と穏やかに自身の激情を受け止めた。
こんなに邪魔をされたのは外の国を見るため自国の森を内緒で通過する際に、元老院の因業じじい・ばばあどもにトラップをかけられて以来である。
「……君の従者は仕事熱心だな」
「従者じゃなくて、女王直属事務官よ。一応ね」
アデルは得意げに笑った。
エリュシオンの言葉にジェレミーは苦笑いで返す。「俺、殺されたりしないよな」と最近考えている彼は金融業で働く友人から保険屋を勧められていた。ちなみに保険の受取人は友人という設定になっていたので即蹴ったが。
「明日は昼前には出発します。もう夜も更けたころですし、部屋へお戻りください」
ジェレミーは落ち着いた声で告げる。
バルコニーから見える景色が好きだったアデルはため息をつきながらも、観念したように頷いた。
「そうするわ」
「お送りします」
「ありがとう。……エリュシオン、また明日」
アデルは名残惜しげに振り返り、エリュシオンの瞳を覗き込む。
その深い森のような色合いが、夜の静寂に溶け込んでいた。
「おやすみ、アデル」
彼は微笑んで静かに見送った。
その姿を後にしながら、アデルの胸の奥に小さな熱が灯っているのを、彼女はまだ気づいていなかった。
朝。アデルの口からは挨拶よりも先に、悲鳴に近い声があがった。
「な、なにこれ」
彼女の目の前に広がるのは、まるで宝石箱をひっくり返したような光景だった。
シャンパンゴールドの刺繍が施された深紅のベルベットドレス、夜空を思わせる紺碧のドレスには、銀糸で星々が描かれ、胸元には細かなビーズがあしらわれている。純白のレースが幾重にも重なったドレスは、まるで雪の精が紡いだかのような繊細な仕上がりだ。
その他にも、春の花畑を思わせる淡いピンクのドレス、波のようにしなやかな曲線を描く海の青を映したドレス、そして炎のように情熱的な深いオレンジのドレス――見ているだけで目が眩むほどの豪華な衣装が並んでいた。
メイド服を着用する他の使用人とは異なり、喜色満面の笑みで服やアクセサリーを見せてくる二人の侍女は、アデルの身の回りを世話する貴族出身の女性たちであった。
「エリュシオン様からです」
「まって、今までこんな贈り物……」
女王の身の回りの世話をするのは主に二人。
一人目は子爵家出身の25歳のクレア。落ち着いた年上の女性であるが、ときおり有無を言わせない迫力を持つ美女である。
ジェレミーによく口説かれている彼女は、特に社交界という場に強い。「あらそうでしたの。興味ございませんわ」という囁きと、横目を流すだけで社交界を泳ぐ彼女だからこそ、アデルはそばに置いていた。
「エリュシオン様に口止めされていました。我らが女王は窮地に立たされるまで贈り物のドレスやアクセサリーを拒むだろう、との配慮です」
「だからってこんなに……!」
ドレスのそばには、同じく贈られたらしい宝飾品が並べられていた。
大粒のサファイアが埋め込まれたティアラは、まるで夜の海を切り取ったように深い青をたたえ、銀細工の透かし模様が光を繊細に受け止める。細やかなフィリグリー細工が施された純銀のブレスレットは、動かすたびにキラキラと輝きを放ち、エメラルドのピアスは光を受けるたびに緑の炎のように揺らめいた。
まるで王族の宝物庫をそのまま移したかのような光景に、アデルは諦観と感嘆がない混ぜになったようなため息をついた。
「いや、こちらも一応王族なんだけども」という考えは圧倒的な芸術品の数々に押し潰される。
「女王様! こんなのどうです?」
一方で明るくアデルに話しかけるのは、侍女見習いのメリッサ。彼女は男爵家の生まれで、学園卒業後19歳で女王直属となった才女であった。「文官になってくれないかなぁ」とアデルからたびたびアプローチされているのだが、天然なのか人工なのか靡いてはくれない。
彼女が手に取ったのは、淡いピンクのドレス。胸元には柔らかなフリルが重なり、スカートには繊細な刺繍で花々が散りばめられている。先ほどの夜会用のまばゆいドレスと比べると控えめな作りだ。それをアデルの肩に当てながら、メリッサは楽しげに目を輝かせる。
「うん! 女王様にはこれもいいですね! 素敵です」
「……これを今、着る必要性ないわよ」
アデルはため息をついたが、侍女たちの熱意は衰えそうになかった。
「なにを言うんです。国を出発する今日! この時から! 社交は始まっているんです!」
クレアの熱弁はとどまるところを知らない。
伊達に社交界の華と呼ばれるだけあって、彼女の服装はシンプルながらも洗練されていた。
彼女はすでに「どれもこれも素晴らしい」と言いながら次々とドレスを吟味し始めている。その後ろ姿にアデルは「そういえば頼んでおいた服は?」と疑問が湧き上がる。
すると後ろからトンっと背中を支えられる。と、そんな優しいものではなく、これは彼女をどこにも逃さないためのささやかな拘束だ。
「ほら、着替えますよ。その前に湯浴みです」
シャンと背を伸ばしたクレアの背後に修羅が見えた。
「えっまって、私が事前にお願いしていたドレスは?」
「去年使っていた服のリメイクですか? エリュシオン様から贈られた品を見た瞬間に、資金の無駄だと判断し中止するよう専属のお針子には伝えました。その代わり、サイズ合わせをお願いしました。ピッタリだと思います」
「ってことはドレスは去年のまま……?」
「えぇ、そうです」
さすがに去年のドレスをそのまま着るわけにはいかない。
このときほど、アデルは自身の服装に興味を持てばよかったと呪ったことはなかった。なまじ政務にばかり気を取られていた弊害である。
出発まで、あと5時間——。
自業自得。
アデルは込み上げてくる悲鳴を飲み込んだ。