第2話 約束の時は巡りて
きっと白昼夢。
アデルは一度、目をギュッと閉じた。
「はじめまして。私は西のエルフの王、エリュシオン」
開く。変わらない。どうやら現実のようである。
プラチナブロンドが跪いている。
肩の線は少し細く、祖父から聞いて想像していた筋肉隆々の姿とはかけ離れていた。しかしその美しさたるや。吟遊詩人も表現できまい。
透き通るような白い肌に、彫刻のように整った端正な顔立ち。長い金髪はまるで陽光を編み込んだかのように輝き、動くたびに淡い光を帯びている。
尖った耳は薄く、繊細で、光を受けて透けるほど。
頭には緻密な模様が施された繊細な金細工の王冠が控えめに輝いていた。目の前のプラチナブロンドに、歴史ある王冠が負けたのである。
「——どうか私と、結婚してください」
手が差し伸べられる。
アデルは斜め後ろに控えているジェレミーをそっと見たが、彼は「俺にふるな」とでも言いたげに目を逸らした。先ほどまで対応していた宰相も「さ、どうでますかな」とでも言いたげに自慢の髭を撫でつけていた。女王の一大事かもしれないのにこの態度。なかなかに太々しい。
プラチナブロンドのつむじが見える。同じ王という立場ではあるが、どう見ても頭を下げるべきはエルフの王ではなくアデル側である。
もう一度、差し出された手を見つめた。まるで月光を湛えた湖面のように、白く、完璧な手。そして洗練された仕草。
だが彼女は、そっと口を開いた。
「申し訳ありませんが、陛下の申し出を受けることはできません」
顔をあげたエリュシオンの深緑の瞳が微かに揺れる。
彼の側近であろう美麗な二人のエルフの片方は「ひゅ〜」と揶揄うように口笛で囃し立てた。まるで演目でも見ているような気安さである。もう片方が小突く。ガッ、という鈍い音は小突いたというよりは叩き落としていた。
「理由を聞かせていただけますか?」
「……私には、守るべきものがあるのです」
アデルは微笑を浮かべたまま平坦に答える。
その後ろでジェレミーが「まぁ嘘は言っていないな」と思いながらかすかに眉を上げた。彼女は母国であるレストリアが一等好きだった。
理由を聞いたエリュシオンは一瞬、何かを考えるように沈黙し、やがて深く息をつく。
「そうですか……残念です」
儚げな美男子のため息は絵になった。「なるほど。エルフが変態の好事家に違法売買されるわけだ」とアデルは合点がいく。
彼は立ち上がり、名残惜しそうにアデルを見つめたあと、ゆっくりと背を向けた。
王冠に施された金細工が、暖炉の炎を受けて囁くように輝く。
あっさりと引き下がったことにアデル自身が驚いていた。
「あと3年」
ふいにエリュシオンは呟いた。
暖炉に向けられたその顔は、アデル達からは見えない。
——3年。その年月が表す意味を一番理解しているのはアデル張本人だった。
「先代王の息子であるセオドア殿が19歳になったとき、あなたは王位を譲る。そうでしょう」
アデルは眉をひそめた。一拍置いて、答える。
「えぇ、そうですが。それがなにか」
これは周辺諸国も、王国の民も周知の事実だ。
アデルは中繋ぎの女王。王位継承権2位の存在であり、先代王弟の娘。
王位継承権第1位は従兄弟のセオドアである。彼は先代国王の一人息子でもあった。身内の贔屓目を抜いても優秀な後継ぎ。アデルは彼が学園を卒業し、王としての勉学を1年間を通して行ったあと王位を譲るつもりである。
エリュシオンは炎を見つめたまま、低く静かな声で続けた。
「ならば、3年後にもう一度この話をしましょう。あなたが女王でなくなったそのとき、あなた個人としての答えを聞かせてほしい」
アデルの胸の奥に、得体の知れない感情が広がる。
これは単なる求婚ではないのではないか、という疑問が即座に浮かび上がった。
髪を耳にかけながらチラリと斜め後ろを見るがジェレミーは何も言わない。ただ腕を組み、静かに事の成り行きを見守っていた。
アデルはふっと短く息を吐き、表情を整えた。
「安心してください。我々エルフは気長そのもの。三年なんてあっという間に過ぎていく。そのときが来たら、またお話ししましょう」
エリュシオンは半月の弧のようににっこりと笑った。
その瞳には、燃える暖炉の光とは別の、静かな情熱が宿っている。
それを見てアデルは「あー……」とぼやく。
首を傾げたエリュシオンは「……? どうかされましたか」と問うた。お手本の笑顔は崩れない。
すると目の前にいた女が、淑女の仮面をかなぐり捨てるように立ち上がった。
「やめよやめ」
「ちょっ、アデル様、」
ジェレミーが止める。彼自身は3年後またエルフが来訪する、それで良いと思っていた。
頭痛が痛い、とでも言いたげなアデルの顔にエリュシオンは目を二、三度瞬いていた。
「エルフの王、エリュシオン殿。非公式の場であるため、単刀直入に聞かせていただきたい」
琥珀色の瞳が鋭くエリュシオンを貫いた。
斜め後ろで見ていたジェレミーは瞬間的に口を閉ざす。時折見せる、主人であると誓った彼女の、強い意志を宿したような目が彼は一番好きだった。
そして厄介な場面と面白そうな場面は止めない。彼のモットーだ。もっと楽しいことの起こる前触れ。あとで「なんで止めてくれなかったの!」と言われるが悪い方向に転がったことは一度もない。好転するか、最悪に転ぶかの2択である。
「目的はなんでしょうか」
「目的? あなたと結婚することですが」
「では、理由は?」
エリュシオンはきょとん、とした顔をした。そんな質問をされると思っていなかった、とでもいうような顔。
先ほどまで王の威厳を表した穏やかな威圧感がなりを潜める。まるでアデルと同年代のような青年の顔つき。
「理由……あぁ、もしかして約束のことですか?」
「約束?」
一瞬のうちに質問をする側とされる側が入れ替わる。
美貌と才気あふれるエリュシオンのきょとん顔に面食らったのはアデルのほうだった。
「このたびの求婚は我らが盟友。我らが隣人。そして我らが友であるアーチボルト殿との約束を果たしにきました」
彼は指をシャランと小さく振った。光の粉とともに、アデルの手元に一枚の紙が現れる。
みみずが貼ったような、いや豪快な文字と、端正な文字で書かれた古い紙切れのようなもの。
「これは、誓約状?」
それがなんだ、とでもいいたげにアデルはじっと色褪せた紙を見る。
大半の文字はおそらくエルフ語で書かれていおり、アデルに読むことはできない。
しかし一つだけ、わかる文字があった。
「アーチボルト・レストリア……?」
豪快な字。アデルの祖父の名だ。
その隣には乱雑に押されたレストリア王家の紋章と、おそらくアーチボルト自身の血判。書状として効力を発揮するには十分なものであった。
顔をあげるとニコッと満足げなエリュシオンと視線がかち合う。嫌な予感が背筋を這いあ上がった。
「書状にはレストリア王家の王女と私との婚姻が約束されています。それが、理由です」
「……。はい?」
「長い間、約束は守られていない。それは我らエルフとして、そしてなにより王として恥ずべきこと」
ここがもし懺悔室で自身が神父なら、アデルは確実に笑い飛ばしていた。お腹が痛くなるほど。「恥ずべきこと? 何を言いているんだこのエルフは」と。2枚や3枚どころの舌じゃ足りない。
するとエリュシオンが自身の胸元にスッと手をおく。
「あなたは現在、レストリア王家唯一の女性王族。23歳の独身。結婚してるわけでもなく、婚約者でもない」
婚姻適齢期のギリギリである、という恐ろしく失礼なことを言いながらもリュシオンは穏やかに微笑んでいた。
彼はエルフ。人間族における年齢という概念に当てはまらない存在。
過去の出来事、という観点で歴史書よりも正確なのは彼らの記憶とまで言わしめられる種族。
一度恨まれればその恨みは千年続くされるエルフを束ねる王は、「適しているでしょう?」と言って、また首を傾げた。
「当代レストリア女王として、祖父であるアーチボルトと戦ってくれたことに改めて感謝いたします。しかし、」
まずは、とアデルは感謝を述べた。
目の前にいるエルフの王の年齢はわからないが、少なくとも祖父のアーチボルトよりも年上であることはアデルにもわかっていた。
「失礼ですが……70年前の約束事。それも三代前の王との話です、どうか、」
西のエルフとの婚姻。国によっては喉から手が出るほどの好条件。それでもアデルの疑念は尽きない。
彼女は慎重に言葉を選びながら続けた。だが——、
「おや。約束を反故にされるおつもりで?」
エリュシオンの深緑の瞳がギラっと光りアデルを捉える。まるで鋭い刃のような視線が突き刺さる。思わず息を呑んだ。
その目には、長い年月を生きた者の威厳と、逃げ場を与えぬ覚悟が宿っていた。
アデルの背中に冷や汗が落ちる。けれど、視線を逸らすことはしなかった。
長い沈黙。アデルは幼いころ家庭教師に怒られたときのことを思い出した。
「はぁ〜……もういいんじゃないですか?」
疲れ切った、そんな声が部屋に響いた。
リュシオンは視線を送り、アデルも後ろを勢いよく振り向く。
「っジェ、ジェレミー?」
「アデル様、あと何ヶ月で他国の社交界が始まるか覚えていますか?」
「えっと3ヶ月ぐらい……」
「2ヶ月と23日です」
ジェレミーからの唐突な質問にアデルは先ほどまでの頑なな姿勢が崩れる。
「準備や移動を考えれば実質、あと2ヶ月しかありません」
「な、なにが言いたいの」
「あなた、パートナーは見つけましたか?」
その瞬間、ギクッとアデルの体があからさまに跳ねた。視線が床へと落ちる。「いや、見つけてるよ?」なんていう嘘は通じないし、子供が使う「これ終わったら宿題やるよ!」と同じぐらい期限の長いものに対する信頼がない。
「未婚の女王なのでパートナーがいないことに俺自身はなんとも思いません。しかし今回行く国々は、結婚イコール責務や義務と捉えているところがほとんど。あなたは無責任な女王、という烙印を押されかねない」
「なにかあればジェレミーがパートナーでいいかな、と」
「貴族でもない俺が? 最悪の選択肢です」
アデルの考えは一理ある。が、それだと貴族でもない男を囲う放蕩女王の出来上がりだ。貴族の称号を与えることもできるが、それだと噂話の好きな社交界ではすぐバレてしまう。
この女。政務能力はピカイチだが、こと社交界や対人スキル、特に高貴な身分なら身につけるべき社交能力や常識に関してはポンコツなのである。
「……アデル様、あなたは潔癖のきらいがある。それは美点であると同時に弱点です」
しょぼん、と効果音がつきそうなほどアデルの肩が落ちる。ずっと昔から自覚していた弱点だ。
清濁を飲み込む。為政者としてだんだんと慣れてきたつもりだった。しかし彼女はそれが苦手であった。詐欺師の彼を近くに置いてはいるが。
「話はまとまりましたか?」
エリュシオンが静かに問う。
答えはない。それが答えだった。
「臣下の言葉に耳を傾ける。あなたはいい君主だ」
微笑む彼はどこか満足そうに頷いていた。
彼の金髪が揺れ、深緑の瞳が一層鮮やかに輝く。まるで全てを見透かすような眼差し。
「私をぜひ使ってみてください。それも、王の器です」
「使う、?」
「あなたの社交界行き、私も同行しましょう」
「え、」
青天の霹靂。いや、ジェレミーにとっては一番望ましい展開であった。
しかしアデルにとっては、真意の読めないエリュシオンの提案は厄介そのもの。どう断ろうかと逡巡するが「絶対に断るなよ」とでもいいたげな殺気にも似た視線が彼女へと刺さる。
「あの、」
「返事を聞かせてください」
鋭い声がアデルを追い詰める。心なしか、周囲の空気まで張り詰めた気がした。
「……よろしく、お願いします」
負けた。敗北宣言のようなものだ。
七十歳近い宰相である、好々爺の皮をかぶった男が一度も口を挟んでこなかったことがいい証拠だ。
アデルは頭を抱えながらも「今回の社交界のパートナーが勝手に見つかってくれた」とポジティブに考え直しながら、「さぁ仕事仕事」と頭の中は先ほどの書類へと切り替わっていた。
すると、エリュシオンがおもむろに口を開いた——
「では私はこれから約2ヶ月間、こちらに滞在しますね」
爆弾発言。
にっこりとした笑顔が変わらないあたりが、どこか憎たらしい。
「え?」
アデルの表情が固まる。
ジェレミーは一歩引き、宰相の男は視線をそらし、部屋の空気が妙な緊張感に包まれた。
暖炉の薪がパチリと弾ける音が、静寂を際立たせた。