第1話 突然の来訪者
それは、久しぶりに晴れた日だった。
外では凛とした冷気が空気を満たし、息を吐くたびに白く染まる。
レストリア王国には冬の気配が濃く漂い、雪が反射しキラキラと光っていた。
「女王様っ!」
慌ただしく駆け込んできた少年の声に、執務机に向かっていた女王は眉一つ動かさず応じる。
「なにかしら。あの高利貸しもびっくりの決裁書ならもう灰のなかだけれど」
顔をあげず万年筆を暖炉へと指す。
パチパチと音をたてる炎が、燃え尽きた紙片をさらに飲み込んでいく。暖炉の灯りがゆらめき、女王の茶色の髪を温かく照らしていた。
「エルフの王が求婚しにきています」
女王様、と呼ばれた女は顔をあげ、一度首を可愛らしく傾げた。
こてん、と。
はて。目の前の小僧は、今日が何の日かを勘違いしているのでは、と。
「求婚、求婚ですよ!」
首を傾げたあと、気のせいか、とでも言うように天井を見上げる。
こんな冗談を言われたのは、嘘をついていい祝日に限って浮気現場に間違われ、本格的な修羅場に巻き込まれて以来である。女王なのに。
「だから!」と少年は地団駄を踏む子供のように叫んだ。
執務机に無駄に積み重なった紙の束が揺れる。たとえ紙の束が崩れても、執事やメイドは最低限の人数を残して数日前から出払っているため片付ける者はいない。
「西のエルフの王が、求婚しにきてるんです!」
ことの重要性を認識していない身内に苛立つように前のめりになり、「あなたに!」とまた叫んだ。
少年の腕と手は舞台役者もかくやというほど綺麗に伸ばされている。
その様子を見て女王と呼ばれた女、アデル・レストリアは呆れたようにため息をついた。
「そんなはずないわよ。こんな弱小国家に。ねぇジェレミー?」
ははは、と乾いたように彼女は笑う。
女王と称される者にしては親しみのある笑い方であった。
「えぇ、そうです」
ジェレミーと呼ばれた男は鬱陶しそうに髪をかきながら書面を睨んでいる。肩口まで伸ばされた紺色の髪は雑に縛ってある。普段使用人を口説くナンパ男の見る影もない。彼は顔を上げなかった。
「たかだか雪崩で女王が筆をもつ、こんな貧乏国家の頭お花畑の、希望の光は国民性ぐらいのわたあめ王国の女王に、資源も人材も豊かで嫌厭されるのは性格ぐらいの西のエルフ、しかも王様が求婚?まだ詐欺師の方が見る目があると思います」
「え。不敬罪。そこまで言えとは言ってない」
「詐欺師の俺を拾ったあなたが悪い。はい、これ書類」
「……たしかにどこぞの王様より詐欺師のほうが優秀かも。リンデル、この書類回してきて」
「承知しました……って、そんな場合じゃありません!」
リンデルと呼ばれた十五歳ほどの少年は受け取った書類を片手にダンッ、と音を立てて机を叩く。
「女王様。いえアデル様。ほんとうの本当なんです。現実を見てください」
涙目で訴える彼はどこからどう見ても切羽詰まっていた。アデルは眉根を寄せる。
「……紋章は?」
「確認しました。照合もしました。本物です」
エルフの紋章。それは長い歴史のなかで積み重ねられてきた、エルフ族だけしか使うことができない証。
偽造したり、使うだけで断頭台待ったなしの代物。いわゆるシンボル。
人間は代替わりをするときや、国家が変わるときに紋章や国旗、象徴を変化させる。しかし悠久の時を生きるエルフにそれはない。つまり信頼度が圧倒的に違うのだ。
「訪れた理由は?」
「だから求婚だって言ってるでしょ!」
リンデルがギャンッと子犬のように吠える。
アデルはまるで悪夢を見ているかのように、指で目の頭を抑えた。
「どうなってんのよ。ただでさえ雪が続いて雪崩で民が困ってるっていうのに、今度は結婚話? 冗談じゃないわ。なんの得があるっていうの」
「わかるわけないじゃないですかぁ! 本人だせとしか言われていないです。それに待たせているこの時間すら怖いんです! 早く支度してくださいっ」
彼女はノロノロと立ち上がりながら、「えぇでもまだ書類が」と宣った。そもそも前提を疑っており、エルフの来訪すら半信半疑のようだ。
リンデルがたまらず「早く!」と急かす。
万年筆をくるくると回しながら考えごとをしているジェレミーは「リンデルがんばれ〜」と呑気だ。
彼もまた「西のエルフが来てるわけ」と半笑いであった。せいぜいエルフと交流のある商人が関の山だろう、と。そうなれば彼の出番であった。交渉ごとは得意だ。
「行ってきたらいいじゃないですか。早く行って外交問題にならない程度にさっさとフって帰ってきてください」
「なに言ってるのジェレミー。あなたもくるのよ」
「は?」
今まで親の仇とでも言わんばかりに書類と睨めっこをしていたジェレミーが顔を上げる。
「もう二十七なので徹夜とか無理です」と数日前言っていた男の目の下にはうっすらと隈が現れていた。
「正気ですか。役職ない人間連れてきます、普通?」
「じゃあ今日から女王直属事務官よろしく。おめでとう。試験のない裏口突破のエコ贔屓採用よ」
「人事……」
さばきたい書類を惜しむように彼もノロノロと立ち上がった。ナメクジのようにゆっくりと。
リンデルは塩でも揉み込めばいいのかな、と思った。
「詐欺かもしれないじゃない。頼りにしてるわ元詐欺常習犯」
彼は悪党であった。近隣のウィルザード王国から追われているところレストリアに入国し、色々あってアデルの下で働いている。「引退してちょうだい」という言葉と共にアデルを主人として認めたのだ。
そんな彼は現在、鎖骨のほくろがセクシーなアデルの侍女をせっせと口説いているのである。
「服装どうします」
「別にそのままでいいわよ」
「いや俺じゃなくて、あなたです」
ジェレミーは執務室の暖炉の前に立つアデルを上から下まで眺めてそう言った。当の本人は「冷えるわね」と言いながら呑気に手を擦り合わせている。
茶色い髪に琥珀色の瞳。磨けばどこぞの貴族の令嬢のように光そうだが、今の彼女に女王としての貫禄はあまりない。それは寝て起きてそのまま一つに括ったような髪に、シワのある簡素なドレスを身に纏っていることにも起因していた。
「大丈夫よ。外套を羽織ればどうにかなるわ」
「……まぁ、あなたがそれでいいなら」
こういう貧乏性、いや着飾らないところにジェレミーをはじめ、リンデルや身の回りを世話する使用人たちは好感をもっていた。
さすがに他国からの貴賓に対してはどうなのかと思うところもあるが、それに対して言及できるほどの礼儀作法を知っている者は女王以外にはいない。
おそらく来客の対応は現在、宰相がしている。御歳七十近い彼がいれば話は違っていただろう。
「ほらっ応接室に行きますよ!」
アデルはリンデルから渡された外套を羽織る。
扉を開けると、暖かい執務室とは異なり廊下は冷えていた。冷たい風が頬をなでる。魔回路による冷暖房完全制御装置を組み込むことができればよかったのだが、そんな予算は降りてこない。
徹夜はよくないと思いながら、アデルは短時間の睡眠でここ数日は過ごしている。あくびをし窓を見上げるともう昼食時間を過ぎたころだった。
「あちらさんが急に来たのだから多少は目をつぶってくれなきゃ。それにエルフは気長らしいから、待たせるぐらいがちょうどいいってお祖父様も言っていたわ」
「お祖父様……先々代の王ですか。エルフと同盟を組んで戦ったって習ったなそういや。アデル様はエルフにあったことが?」
「ないわ。はじめて。あ、でもお祖父様がよく聞かせてくれたエルフのことは好きだったな。なんでもエルフにしては筋肉隆々で剣術がすごかったとか」
「へぇ弓じゃないんだな」
「エルフの中でも珍しいそうよ。……あれ? たしかお祖父様と同盟を結んだのって、西のエルフの、」
「お二人とも、もう少し早く歩いてくれませんか!?」
リンデルの声がキーンっと二人の耳に入る。
低速での思考回路は頭をぼんやりとさせ、アデルは先ほどまで考えていたことが霧のように胡散していった。