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初投稿です。よろしくお願いします。
「見て、アナスタシア様ったら、また騎士科の訓練を見つめていらっしゃるわ」
授業が終わった教室で、しっとりとした黒髪の美しい女性、アナスタシアが頬杖をついている。
教室は人がまばらで、窓から差し込む光がアナスタシアを幻想的に照らしていた。
ここは、16歳から18歳までの有力な家の子女が通う、国の高等教育機関にあたる学園である。その最高学年の教室に彼女はいた。
廊下を歩く女生徒たちが、声を潜めてアナスタシアの姿を覗き見る。その声音にはほんの少し非難の色が滲んでいた。
なぜ訓練を見ているだけで非難の対象となってしまうのか。それはアナスタシアの婚約者が原因だった。
アナスタシアの婚約者はこの国の第一王子だ。その高貴な身分と、それに見合った美貌の持ち主だった。
金髪碧眼、文武両道。誰もが羨み、ぜひ婚約者に、それが無理なら一時の相手でもかまわないから少しでもお側に、と望んでしまうような人だった。
そんな王子様を婚約者に持ちながら、アナスタシアは彼にさして興味がなさそうに見える。そのような態度が一部の令嬢たちからやっかまれているのだ。
しかし、アナスタシアは国内一の力を持つ侯爵家の娘だった。
さらに、アナスタシアは淑女のお手本のような女性でもあった。教養、立ち居振る舞いはもちろんのこと、彼女が身につけるものは常に流行を作っていた。多少のやっかみはあっても、むしろそれをスパイスとして、社交界ではトップに君臨している。
実際に、騎士科の誰かと恋仲になっているということであれば、いかなアナスタシアであっても大きく非難されることになっていただろう。
しかし、アナスタシアが想いを寄せるとされる人物は、決して特定されることはなかった。候補は何人かいるものの、どの方も決め手に欠ける。
品のないものたちは、アナスタシアの想い人を予想して賭け事をしているのだとか。
とにかく、アナスタシアがしていたことは、教室の窓から見える騎士科の訓練風景を、憂いを帯びた表情で眺めている、ただそれだけだった。
「殿下はアナスタシア様のことをお許しになっているのですか?」
第一王子、ビクトルの周りで囀る小鳥の一羽が、不満そうにそう問いかけた。
ビクトルの周りには常に人が溢れていた。ビクトルは正義感に溢れた青年だった。身分が低かろうが、それで差別をすることはない。能力があれば平民であろうと取り立てようという気概の持ち主だった。
そのため、側近候補の貴族子息や、能力を買われた豪商の子息、婚約者がいると知りながらもお近づきになりたい下位貴族の令嬢たち、あわよくばビクトルの寵愛を得て婚約者に成り代われないかと画策する有力貴族の令嬢たち。そんな面子が入れ代わり立ち代わり、ビクトルの周りを彩っていた。
本日ビクトルを取り巻いていたのは、有力貴族の令嬢たちだった。
そのうちの一人が先の不満を問いかけたのだ。その言葉は別に珍しいものではなく、ビクトルもいつも通りに返答する。
「許すも何も、アナスタシアは別に何も悪いことをしていないじゃないか」
いつも通りの返答に、小鳥たちは不満そうに口をつぐむ。
何もしていないというが、アナスタシアは殿下以外の人に目を向けているのですよ。そう言いたいのがありありと浮かんでいる目だった。
しかしそこは腐っても有力貴族の一員。不用意なことを口にしてはいけないという分別はあった。
王子妃となろうとしている人を、噂程度で断じて、不貞を疑うようなことを口にすることはなかった。これが下位貴族や平民であれば、うっかりと口に出してしまっていたかもしれない。実際、学園内ではまことしやかに囁かれている噂である。
その後もピーチクパーチクとおしゃべりを楽しんで、時間になると小鳥たちは名残惜しげに立ち去っていった。
束の間、ビクトルの周りに静寂が訪れる。これから王子としての仕事があるため、側近候補たちと合流予定だった。
そんな一瞬の空白に、か弱い声が落ちた。
「国を支える重圧を担っていらっしゃるのに、心休まる場所はあるのでしょうか」
その声はなぜかするりとビクトルの耳に届いた。声の主を探して視線を彷徨わせれば、少し離れた木陰に、その人はいた。
ふわりと風をはらんだ栗色の髪。水色の清楚なドレスを身にまとった女性は、泣きそうな顔をして両手を祈るように組んでいた。
普段であれば聞こえなかったふりをして立ち去るところだが、なぜだか彼女はビクトルの興味を非常に掻き立てた。
「なぜそう思うんだい?」
ビクトルは穏やかにほほえみながらそう問いかけた。少女は王子の応えがあったことに一瞬目を見開き、しかしすぐに静かに答えた。
「外では一瞬も気を抜けないあなた様の、ほんの些細な変化にも気付けるように、あなた様だけを見つめているような方と結ばれるべきでないかと思ってしまうのです」
少女の新緑色の瞳と、ビクトルの瞳が静かに絡み合う。それはほんの一瞬のようで、永遠に続くようでもあった。
「君、名前は?」
ビクトルと少女の交流は、その日から始まった。